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2018年04月20日

『心に残る、恩師からのことば:
雲雀丘学園教員 大見利之 を創ったことば』

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 桜もすっかり葉桜に成ってしまいましたが,新入生も少し学園に慣れた頃でしょうか?
 私は一昨年度まで,新入学生点呼での『新入生ガイダンス』で生徒指導部長として話をしてきました。その内容は,新中1・新高1の生徒に『学校とは生徒にとって! 先生にとって!』というお題で,
『学校とは、学級・学年という集団の授業・学級活動・学校行事、学年を超えたクラブ活動などから、人とのかかわり方、人への優しさ、思いやりである仁の心を学ぶところである』 『教師は、皆さんの夢を叶えるお手伝いをすることが仕事である』ということでした。この内容を,まだまだ幼い小学校6年生,思春期真っ盛りの中学校3年生に理解してもらうために,
『学ぶとは,胸に真理を刻むこと』
『教えるとは,ともに希望を語ること』
ということば(勿論,小学生向け,中学生向けに表現を換え)を使って説いてきました。これは、雲雀丘学園中高等学校が最も誇れる独特の雰囲気・カラーである,生徒と先生の和やかな信頼関係をも表しています。
 このことばは,私が大学4年生時の教育実習で母校に帰ったとき,当時の校長先生が,『大見君は本気で教師を目指しているんか?ほんなら教えたろか!』と,校長室で『教員をめざす実習生への特別講座』を開講してくださった中での,特に私の心に残ったことば(教え)でした。雲雀丘学園の採用面接でもこのことばを使わせていただき,このことばのおかげで『雲雀丘学園中高等学校 体育科教諭』になれたといっても過言ではないでしょう。
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 このことばの下,足かけ40年の雲雀丘学園での教師生活のあらゆる場面(学級学年経営・生徒指導・教科指導・クラブ指導)に勇往邁進してきたつもりです。実質,『雲雀の大見』を生み,育て,創り上げたことばです。今後もこのことばを胸に雲雀丘学園での教師生活を勤め上げる所存です。
(中学校・高等学校 大見 利之)

2018年04月16日

師匠の教え その壱

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私は小学校5年生の春から剣道を始めました。中学校までは真剣に取り組み、高校は授業で剣道は選択しましたが、クラブ活動は弓道部に入りました。そんなことから剣道にやり残し感がありましたので、大学では再び剣道部に入部しました。私の剣道修業はここから本格的に始まったと言ってもいいでしょう。幸いにも、大学剣道部には一生の師となる池田勇治範士八段が師範としておられました。師範は学生との稽古後、必ず第二道場と称して安居酒屋で稽古の反省、剣道に関する逸話・教え等を数多く語ってくれました。

その中の一つに「啐啄同時の機(そったくどうじのき)」という言葉がありました。禅語だそうです。ひな鳥が卵から孵化するために内側から卵の殻を叩いて音をたてますがこれを「啐」といいます。親鳥はその音を聞いてすかさず、くちばしで卵を外から啄み(ついばみ)、孵化を助けます。これを「啄」といいます。これらが同時に行われて初めて、ひなは無事に生まれ出る訳です。ひな鳥が「啐」を行っているのに親鳥が気付かなければ、うまく孵化できません。同様に親鳥の「啄」が早すぎてもひな鳥は孵化できず死んでしまいます。

弟子が真剣に道を求め学んでいる時、それを善導するわずかなヒント、気づきを師匠が与えることで弟子は壁を乗り越え大きく成長していきます。上位のものは、それだけ下位のものをしっかりと見つめ、機を逃さない気づかいや細心さを持つ必要があります。このことを師匠は幾度となくおっしゃいました。

大学一年時、師匠に稽古をお願いしている時にこんなことがありました。私が夢中で師匠の竹刀を払い、その返す刀で師匠の小手を打ちました。これが「パクッ」という音と共に見事に決まりました。その時、師匠は打たれた右小手を大げさにご自分の目線位にまで上げられ、面越しに大声で「参った、いい業だ」とおっしゃいました。師匠は全日本剣道選手権の審判長をされるような日本でも有数の大先生です。そんな大先生ですから本当は私などに打たれる訳はないのです。一所懸命に稽古に掛かる私を指導しながら、今こそ、と思われ「啐啄同時の機」を実行され、私を善導されたのです。私はといえば、そんな大先生に大いにほめていただいたわけですから、夢心地です。ひょっとしたら、高校時代に剣道部ではなかった自分でもそこそこはやれるかもしれない、今でいう自己肯定感、モチベーションが大きくアップし、一層、稽古の虫になったことを覚えています。この時のご指導、この「啐啄同時」の経験が私の剣道修業のまさにアイデンティティーになっています。

20180416-2.jpg20180416-1.jpg私は毎朝、専用通路脇で児童生徒に大きな声で挨拶をしています。子ども達が大きな声で挨拶ができたら、あるいは声は小さくても眼差しをしっかり私に向け挨拶出来たら、今だと思い、大いにほめています。「おお、元気だね!大きな声で挨拶出来て!」などと。挨拶にも啐啄同時の機はあるのです。子ども達の成長をサポートできる細心さをもって気を引き締めて、挨拶を率先したいと思います。
(小学校副校長 成地 勉)

2018年04月06日

「真に受ける」ということ

20171222-0.jpg 私の初任校は公立の高校でした。そこで学んだのが、生徒は教師の言葉を真に受けるということでした。冗談で言ったこと、ちょっとした生徒とのすれ違いの中で発した言葉も生徒は真に受けてしまい、大事な信頼が失われてしまうことがあり、それ故に教師は自らの言葉に責任を持たなければならないということです。それほど偉いわけではありませんが、いわゆる「綸言(りんげん)汗のごとし」(天子の言葉は汗のように一度出たら元に戻すことはできない)ということなのでしょう。それとは逆に、教師は生徒や保護者の言葉に対しては、何でもかんでも「真に受けてはいけない」ということも学びました。20180406-1.jpg
生徒からの反発や保護者からの苦情に対しても言葉の表面的な意味を理解するのはもちろんですが、それにとらわれすぎず、その言葉の裏にある真意を汲み取ることが大事だということです。それらの反発や苦情の多くには、「先生、もっと私の気持を受け止めてほしい」という思い、先生は自分の方に向いてくれていないのではないかという不安がその背景にあり、その場合には、早急な解決策を模索して右往左往するより、生徒や保護者の真意を受けとめ、それを聞ききること、受けとめることが必要だということなのです。
 「真に受ける」とは、本来は相手の言葉を「鵜呑み」というか、そのまま受け取って、一喜一憂することでしょうが、私にとっての「真に受ける」は、相手の言葉を咀嚼(そしゃく)して、本当に相手の気持ち、真意を受けとめるという意味に通じるものになったわけです。    
 今、教壇で雲雀生を前にして、この相手の言葉を十分に咀嚼すること、相手を受けとめるということが、これからの社会ではより重要なものになってきている、生徒たちはその力を身につける必要があるということを切に感じています。忖度(そんたく)という言葉は昨今評判の芳しくない言葉ですが、これまででも親子や学校という狭い世界であっても相手の言葉を真に受けて多少の行き違いがあったのでしょうが、それなりに相手の気持ちも忖度できていた雲雀生も、このグローバル化が趨勢の社会に出る際には、国、地域、宗教等の文化の違いを踏まえて、相手の表面的な言葉だけに翻弄されずに、相手の気持ちを忖度し、その真意を受けとめることが重要になってくることは確かです。その時こそ、相手の言葉を十分に咀嚼する力、のみならず、自分の思い、考えまでも自らが咀嚼して相手に伝える力が必要になってくるのです。そしてそこでは私の教えている「国語」という教科が果たす役割は小さくないことはいうまでもありません。
 この4月、咀嚼力をつけて生徒たちを大学へ、社会へ送り出すためのこの責任の感じ、気を引き締めている次第です。
(中学校・高等学校 国語科 守本進)