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あるべき場所 あるべき姿 あるべき人

 いささか旧聞に属しますが、文系の諸君は校外学習で今話題の阿修羅像を拝観しました。阿修羅像は、永らく興福寺の国宝館でケースの中で公開されてきました。像の高さは、153cm。その面立ちや少し儚げな体躯と合わせて、思春期の少年・少女を思わせます。ケースの前に立つと阿修羅の大きさは、人間としての親近感を抱かせるものでした。ところが、今回は他の八部衆像や釈迦十大弟子像と共にお堂の中で巨大な本尊の前で並んで祀られていました。図らずも、ある生徒が、「先生、阿修羅って思っていたよりも小さかったです。」という感想を私に告げました。実は私も久しぶりに対面した阿修羅像が小さく見えたことに驚きました。広い堂内で、巨大な仏像を背景とするとそれとの比較からでしょうか。しかし、お堂の中で見た阿修羅像やその他の仏像達は、ケースの中に並んでいるときよりも、それぞれが遙かに存在感がありました。それは、やはり仏像は堂内で祀られ、拝まれるものであるという当たり前のことが再確認されたということでしょう。
 奈良でもう一つ話題になっている「像」に、平城遷都1300年祭のマスコットとして決定され、物議を醸した「せんと君」があります。この像は、額に白豪をもつ明らかに仏教的造形に鹿の角を付けるという大変奇抜な姿です。奇抜という意味では、阿修羅像も三面六臂の異形の仏像です。しかし、その姿には、ゾロアスター教という異教の神であったアフラ・マズダに起源するきちんとした理由が付加されています。他にも様々な姿をした神や仏が存在しますが、それらは全てそれぞれの宗教の経典などでその姿の意味を厳密に定められているのです。
 先日、ある新聞の講演会を収録した記事で、せんと君の作者が「せんと君は、神仏習合の姿です。」と述べているのを見て、驚きました。その作者は他には仏教などに題材を得た作品を数多く製作しており、仏教や神道に対する知識も一般の人よりは多くあるようです。それならば、神仏習合という日本独自の宗教の在り方が、どれほどの僧侶や神官が精密な解釈を重ねてきた結果だと知っての発言でしょうか。
「せんと君」はやはり仏教に対する冒涜としか言いようがないと多くの僧侶や宗教者も指摘しています。その立場に立つならば、せんと君は「あるべき姿」ではないということです。
 人間も様々な場所で、様々な人が日々生きています。そのなかで、自分自身が本当にそこに「あるべき人」として過ごすことができる、高2の諸君にもそんな進路を選び取って欲しい。そう願っています。
 先週末からクラスごとに個人面談が始まっています。日々の学習や生活と共に、受験校をほぼ確定し、α・βの選択など来年度に向かっての生徒諸君の意思確認をおこなっていきます。
 それぞれの教室で、授業に真剣に取り組む姿を見せる高校2年生の生徒の皆さん。天上での帝釈天との激しい戦いの末に仏に帰依した姿を表すとも言われる興福寺阿修羅像のように、凛とした姿で人生を過ごすために、まず自分の進む道を定めましょう。
 ※本日の配布物はありません。