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「真に受ける」ということ

20171222-0.jpg 私の初任校は公立の高校でした。そこで学んだのが、生徒は教師の言葉を真に受けるということでした。冗談で言ったこと、ちょっとした生徒とのすれ違いの中で発した言葉も生徒は真に受けてしまい、大事な信頼が失われてしまうことがあり、それ故に教師は自らの言葉に責任を持たなければならないということです。それほど偉いわけではありませんが、いわゆる「綸言(りんげん)汗のごとし」(天子の言葉は汗のように一度出たら元に戻すことはできない)ということなのでしょう。それとは逆に、教師は生徒や保護者の言葉に対しては、何でもかんでも「真に受けてはいけない」ということも学びました。20180406-1.jpg
生徒からの反発や保護者からの苦情に対しても言葉の表面的な意味を理解するのはもちろんですが、それにとらわれすぎず、その言葉の裏にある真意を汲み取ることが大事だということです。それらの反発や苦情の多くには、「先生、もっと私の気持を受け止めてほしい」という思い、先生は自分の方に向いてくれていないのではないかという不安がその背景にあり、その場合には、早急な解決策を模索して右往左往するより、生徒や保護者の真意を受けとめ、それを聞ききること、受けとめることが必要だということなのです。
 「真に受ける」とは、本来は相手の言葉を「鵜呑み」というか、そのまま受け取って、一喜一憂することでしょうが、私にとっての「真に受ける」は、相手の言葉を咀嚼(そしゃく)して、本当に相手の気持ち、真意を受けとめるという意味に通じるものになったわけです。    
 今、教壇で雲雀生を前にして、この相手の言葉を十分に咀嚼すること、相手を受けとめるということが、これからの社会ではより重要なものになってきている、生徒たちはその力を身につける必要があるということを切に感じています。忖度(そんたく)という言葉は昨今評判の芳しくない言葉ですが、これまででも親子や学校という狭い世界であっても相手の言葉を真に受けて多少の行き違いがあったのでしょうが、それなりに相手の気持ちも忖度できていた雲雀生も、このグローバル化が趨勢の社会に出る際には、国、地域、宗教等の文化の違いを踏まえて、相手の表面的な言葉だけに翻弄されずに、相手の気持ちを忖度し、その真意を受けとめることが重要になってくることは確かです。その時こそ、相手の言葉を十分に咀嚼する力、のみならず、自分の思い、考えまでも自らが咀嚼して相手に伝える力が必要になってくるのです。そしてそこでは私の教えている「国語」という教科が果たす役割は小さくないことはいうまでもありません。
 この4月、咀嚼力をつけて生徒たちを大学へ、社会へ送り出すためのこの責任の感じ、気を引き締めている次第です。
(中学校・高等学校 国語科 守本進)