2018年06月22日

「私がしてしまいました,ごめんなさい。」

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 5月末のある日の夕刻,1人で下校中の1年生が,専用通路で中高生に傘の先でお尻をつつかれ,大きな声で驚かされるという出来事があり,とても怖かったという連絡を翌日,担任が受けました。高学年の子ども達に,その現場を見た子どもはいないかと尋ねると,具体的な情報が集まったので,中高校に申し入れをしました。その翌々日に,担任の先生に連れられて,1人の生徒が謝りに来ました。
 悪意の無い,ほんの軽い気持ちでのふざけた行為だったかもしれませんが,入学して2ヶ月しか経っていない1年生にとってはとても怖くていやな気持ちになったことを伝えました。翌朝,再び来校したその生徒は,相手の1年生に素直に謝ってくれました。
 中高校での指導の詳細はわかりませんが,担任の教師から訪ねられたときに,「私がしてしまいました。」と正直に名乗り出るのは勇気が必要だったと思います。また,小学校まで謝りに来るのも反省と後悔の心で,逡巡したと想像できます。
 年少者に行った行為は,看過されるものではありませんが,自分の失敗から多くを学んでくれたであろう生徒に,人間としてのより良い成長を願わずにはいられません。また,大きなお兄さんが幼い自分を一人前として扱い,正直に謝ってくれた姿を見て,1年生の児童も学んだことがあったに違いありません。1年生の担任が,「これからは,小学生を守ってあげてね。」と伝えると,堅かった顔が柔らかな優しい表情になったそうです。それを聞いた私も少し嬉しくなりました。
 園児から児童生徒まで,多くの子ども達が専用通路を利用します。2500人以上が狭い通路を利用しますから,小さな揉め事が生じるのは無理もありませんが,相手に不快な思いをさせたことが分かれば,素直に謝ることで円滑な社会生活を送ることができるのです。それは,年齢に関係ありません。学園内は,社会の縮図です。年長者は年少者をいたわり,年少者は年長者を敬う気風が,しっかりと醸成されるような指導をこれからも続けていきたいと思います。
(小学校教頭 井口 光児)

2018年06月15日

「思い出の先生」の一言

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お世話になったT先生の話をします。この先生は人格者でまたユニークな先生でした。
お伝えする話は先生がご自身の体験談をなされたときのことです。

T先生が子供の頃の授業中のことです。担任の先生に教科書を読むよう指名され、立ち上がって音読し始めたところ、クラスのみんなが一斉に笑い出したことがありました。
20180615-1.jpg不思議に思い、周りを見てみると、自分より前に座っている生徒ばかり笑っている、手元の本をよくみてみると、前の日に、この教科書の表紙が破れて取れたため、自分で「本の表紙」を本体の部分にのりで貼り付けたのですが、小学生だったT先生は「まちがえて」、表紙を上下逆さに貼り付けたため、周りの生徒から本を逆さまに読んでいるようにみえてしまい、笑われたようでした。

T先生は子供のころの笑い話としてお話になられましたが、その先生自身裕福ではない家庭で育ち、また二人のお兄さんが使ったあとに譲り受けた教科書であったため、痛んで表紙がはずれたのでしょう。
先生は本を大切に使い続けることを伝えたかったと思います。

いまは、ものが潤沢にありあふれている時代です。また参考書も含め、いろいろな書籍があります。
一方で、教科書一冊をしっかりと読み込み、手垢がつくくらいまでやり遂げることも大切だと思います。
このT先生はけっして「ものを大切にしなさい」とおっしゃられませんでしたが、こうしたストーリーを通じて真意を伝えられた先生の素晴らしさを思い、印象に残る「一言」として記します。
(中学校・高等学校 事務長 竹内俊博)

2018年06月08日

建学の精神「孝道」

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私は6年前、雲雀丘学園に学園広報部長として着任しました。
その頃、両親は名古屋のマンションに住んでいましたが、父の認知症が進行し母は心細く感じて名古屋で施設を探していました。
雲雀丘学園の建学の精神は「孝道」、「親孝行な人は必ず立派になれる」というものです。
20180608-1.jpg私は立派な人間ではありませんが、両親が心細いと感じている時に雲雀丘学園で「孝道」に出会ったことは運命的なものを感じました。
妻に相談してから両親に思い切って「神戸に来たら?」と誘いました。名古屋に姉、東京に兄がおりましたので、両親もいろいろ選択肢があったと思いますが、神戸に来てくれることになり、私の家の近くのサービス付き高齢者住宅に入居しました。
それから、休みの日は必ず両親に会いに行き、昼食を一緒に食べるようにしました。昨秋、母は他界しましたが、「神戸に来て本当に良かった。」と言ってくれていたことがとても救いになりました。
雲雀丘学園での「孝道」との出会いが、少しばかりの親孝行に繋がったと感謝しております。
父は認知症ですが体は元気です。今後も休みの日には父に会いに行きます。

(学園広報部長 志水正彦)

2018年06月01日

恩師の背中

 私が今こうして幼稚園の先生を続けていられるのも、節目節目で様々な方たちに指針となることばをいただけたからです。その中でも私が就職した時の森永園長先生は、たくさんのことを気づかせてくださいました。多くを語る方ではありませんでしたが、私の背中を見て学びなさいという方でした。その背中を見て学んだことは今の自分につながっていると思います。先生にはマニュアルやゴールはありません。

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(掲載写真は当時通っていた頃の幼稚園舎と川)

日々、これでいいのか?と問いかけます。そんな中で、卒園児が「先生のような幼稚園の先生になりたい」と会いにきてくれたことで、自身が行ってきたことに少しだけ自信がもてたと同時に私が子どもたちにとって背中を見せ、心に響くことばを残す立場であるのだという重責を感じました。これからも、先生と出会ってよかったと思ってもらえたらと同時に森永先生をはじめ、私に多大な影響を与えてくださった方々に恥じないよう頑張っていきたいと思います。
(雲雀丘学園幼稚園 大冨 亜紀)

2018年05月25日

言葉の力

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セルフレームの眼鏡をかけた優しい由良先生、毎日ランニングをしていた長谷川先生、すごく個性的だった林先生、卒論を指導していただいた西埜先生、と印象に残っている先生はたくさん思い浮かびますが、恩師の印象に残っている一言はどうしても思い浮かびません。逆に、私が雲雀丘学園に赴任してから次のようなことを言われたことがありました。「中1の時、先生に言われた言葉に発奮したお陰で、希望の薬学部に合格できました」、20180525-1.jpg「先生はいつも学年集会で、『自由と勝手は違う』、と言っていましたよ」などです。私自身は記憶になかったり、そんな言葉を言ったかなあという感じでした。何気なく発した言葉が、相手にとっては影響力の強いもの、印象深いものになるという、「言葉の力」に何度もハッとさせられました。使い方を誤ると、相手の心に傷をつける諸刃の剣でもあります。一度言った言葉をリセットすることはできません。これからも自分の言葉には責任をもって、生徒との会話を楽しんでいきます。
(中高校 教頭補佐、生徒指導部長 野村勝)

2018年05月18日

とっくんの一言

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「先生は子供の頃から運動は得意だったんでしょうね」と私はよく言われます。しかし実際は、小学4年生で始めた剣道は二週間で脱落、5年生になって野球部に入り2年間続いたものの練習になじめず二軍の補欠、学校生活では、先生から雷を落とされるときだけ、中心生徒・・・


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後列右から2番目が徳尾野先生、前列右端が私
(報徳学園高校時)


 そんな私が中学生になって柔道部に入部しました。基本練習をしていると、先生が「お前はすごい奴や。面構えもいい。強くなるぞ!」と言われました。これまで、先生はもちろん親にも褒められたことがない私が、初めて人に褒められ期待されたのです。嬉しさと「この先生の前では、無様な自分を見せられないぞ」という思いが湧き上がりました。投げる、絞める、関節を捕る、柔道はルールのある喧嘩です。中高生レベルの試合では、相手を見てビビった(臆した)方が負けです。私は、ド根性魂で試合に臨みました。人間は、本来単純なもので、一つ褒められるともう一つとなります。学校生活・学習面でも積極的になりました。10年後、雲雀丘学園の柔道の教師として教鞭を執り、これまで多くの生徒・友人と素晴らしい出会いがあったのも、あの一言で奮起できたからです。とっくん(部員の呼び名)、徳尾野信夫先生ありがとうございました!
(中高教諭 平太義教)

2018年05月11日

本当の親孝行は「命を大切にする」こと

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 今から8年前、私はケガをして2か月間入院をしました。警察のヘリと救急車で搬送され、入院したのは長野県の病院です。診断の結果、頚椎骨折、腰椎破裂骨折という重傷でした。意識もとぎれとぎれで、家族には「覚悟をしておくように」と医師から伝えられたようです。
20180511-1.jpg 無事に手術を終え、意識が戻った時、まず「手足を動かすことができるか」ということが一番気がかりでした。幸い、背骨や首の骨が折れているにもかかわらず、無事に動かすことができました。それから、完全に首を固定された状態での入院生活が始まりました。
 家族は遠いところ足繁く長野県まで通ってくれました。また、当時の校長先生だった岩﨑優先生も、遠い長野まで足を運んでくださいました。この時ほどうれしかったことはありません。突然、新学期から音楽の先生が休むことになったのですから、学校の方は大変だったと思います。それにもかかわらず、かけていただいた「学校の方は心配しなくてもいいから…」という優しい言葉に涙が出てしまいました。大変迷惑をかけてしまったこと、今でも申し訳なく思っています。それから、上を向いたままで食事もうまく取れない私を、毎日献身的に介護してくれた看護師さん。いくら仕事であるからと言っても、これほどまでに患者さんに誠心誠意尽くしてくれるその姿に感動しました。小学校の先生も、連休を利用して、飛行機で来てくださいました。これも大変うれしかったです。本当にたくさんの方にお世話になりました。毎日、感謝!感謝!の入院生活でした。しかし、このケガで、一番心配してくれていたのは、私の両親でした。高齢である両親は、長野県までは来ることができなかったので、6月に退院するまでは顔を合わすことはできませんでした。しかし、何歳になっても、一番心配なのは、やはり子どものことのようで、母は今でも「あの時は生きた心地がしなかった」といいます。その後他界した父も、心配で夜も眠れなかったと言っていました。この時、本当の親孝行は「命を大切にする」ことだということに気づかされました。
 たくさんの人にお世話になったことで、「人はたくさんの人に生かされている」ということ、「自分だけで生きているのではない」ということを実感しました。また、「命というのは、一瞬で消えてしまうこともある」ということ。生と死の境目を見たことによって、その後の自分の人生を変える貴重な体験でした。
 「このいのちにありがとう」(「いのちの歌」Miyabi作詞より)
(小学校教諭 岡村圭一郎)


2018年04月27日

温かい言葉

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 『就職難の今,家業がある者は家業を継ぎなさい。女子は早くお嫁に行きなさい。』

 学生時代の指導教官はお酒が入ると,よくこの言葉を口にしました。もちろん,この言葉は当時も認められるものではありません。今の言葉を使うと「アカハラ」になるのでしょうか。でも研究室の学生は,誰一人そんな風に思ってはいませんでした。

 大学院を修了後,教員採用試験に合格した私は,愛媛県に正式な教員として採用されました。ただ,赴任地が瀬戸内海の島の高等学校,野球部の顧問で休日は盆と正月だけという生活など,初めて体験することがたくさんあり,愛媛の教育や環境になじめずにいました。また,科学館学芸員を目指していたこともあきらめきれず,再就職の当てもないまま辞表を提出。先生にそのことを報告すると,「研究室に出入り禁止」となってしまいました。それにもかかわらず,帰阪支度をしている私に,研究室の後輩を介して「天文台の管理ができる小学校の先生を募集している私学がある」と教えていただき,現在に至っています。

 昭和の終わりから平成の初め,教員採用数は極端に少ない時代でした。教師以外の道を考えようにも,教育大学からはなかなか採用に至らないことも多かったと思います。先生はその現状を,私たちと同じ年代の子どもを持つ親として,そして,教育大学の教官として就職難を打開できない自分の無力さを感じておられました。私たち研究室の学生はみなそのことを理解していて,先生の気持ちに答えようとこの言葉を糧にして,就職活動や進学のための研究に臨んでいました。

20180427-1.jpg 雲雀丘の教員になってからも,トルコであった皆既日食の観測にご一緒させていただいたり,西私小連の理科部会や本校の研修で,天王寺キャンパス(写真)の研究室や天文台を使わせていただいたりと,いろいろご指導いただきました。十数年前に大学を退官されましたが,教師としての礎を築いていただいたことに感謝の念は尽きません。

 冒頭の言葉は,今は笑い話の一つとして語られています。しかし私には,先生の温かい愛情を感じる大切な言葉となっています。
(小学校教務主任 藤川雅康)
 

2018年04月20日

『心に残る、恩師からのことば:
雲雀丘学園教員 大見利之 を創ったことば』

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 桜もすっかり葉桜に成ってしまいましたが,新入生も少し学園に慣れた頃でしょうか?
 私は一昨年度まで,新入学生点呼での『新入生ガイダンス』で生徒指導部長として話をしてきました。その内容は,新中1・新高1の生徒に『学校とは生徒にとって! 先生にとって!』というお題で,
『学校とは、学級・学年という集団の授業・学級活動・学校行事、学年を超えたクラブ活動などから、人とのかかわり方、人への優しさ、思いやりである仁の心を学ぶところである』 『教師は、皆さんの夢を叶えるお手伝いをすることが仕事である』ということでした。この内容を,まだまだ幼い小学校6年生,思春期真っ盛りの中学校3年生に理解してもらうために,
『学ぶとは,胸に真理を刻むこと』
『教えるとは,ともに希望を語ること』
ということば(勿論,小学生向け,中学生向けに表現を換え)を使って説いてきました。これは、雲雀丘学園中高等学校が最も誇れる独特の雰囲気・カラーである,生徒と先生の和やかな信頼関係をも表しています。
 このことばは,私が大学4年生時の教育実習で母校に帰ったとき,当時の校長先生が,『大見君は本気で教師を目指しているんか?ほんなら教えたろか!』と,校長室で『教員をめざす実習生への特別講座』を開講してくださった中での,特に私の心に残ったことば(教え)でした。雲雀丘学園の採用面接でもこのことばを使わせていただき,このことばのおかげで『雲雀丘学園中高等学校 体育科教諭』になれたといっても過言ではないでしょう。
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 このことばの下,足かけ40年の雲雀丘学園での教師生活のあらゆる場面(学級学年経営・生徒指導・教科指導・クラブ指導)に勇往邁進してきたつもりです。実質,『雲雀の大見』を生み,育て,創り上げたことばです。今後もこのことばを胸に雲雀丘学園での教師生活を勤め上げる所存です。
(中学校・高等学校 大見 利之)

2018年04月16日

師匠の教え その壱

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私は小学校5年生の春から剣道を始めました。中学校までは真剣に取り組み、高校は授業で剣道は選択しましたが、クラブ活動は弓道部に入りました。そんなことから剣道にやり残し感がありましたので、大学では再び剣道部に入部しました。私の剣道修業はここから本格的に始まったと言ってもいいでしょう。幸いにも、大学剣道部には一生の師となる池田勇治範士八段が師範としておられました。師範は学生との稽古後、必ず第二道場と称して安居酒屋で稽古の反省、剣道に関する逸話・教え等を数多く語ってくれました。

その中の一つに「啐啄同時の機(そったくどうじのき)」という言葉がありました。禅語だそうです。ひな鳥が卵から孵化するために内側から卵の殻を叩いて音をたてますがこれを「啐」といいます。親鳥はその音を聞いてすかさず、くちばしで卵を外から啄み(ついばみ)、孵化を助けます。これを「啄」といいます。これらが同時に行われて初めて、ひなは無事に生まれ出る訳です。ひな鳥が「啐」を行っているのに親鳥が気付かなければ、うまく孵化できません。同様に親鳥の「啄」が早すぎてもひな鳥は孵化できず死んでしまいます。

弟子が真剣に道を求め学んでいる時、それを善導するわずかなヒント、気づきを師匠が与えることで弟子は壁を乗り越え大きく成長していきます。上位のものは、それだけ下位のものをしっかりと見つめ、機を逃さない気づかいや細心さを持つ必要があります。このことを師匠は幾度となくおっしゃいました。

大学一年時、師匠に稽古をお願いしている時にこんなことがありました。私が夢中で師匠の竹刀を払い、その返す刀で師匠の小手を打ちました。これが「パクッ」という音と共に見事に決まりました。その時、師匠は打たれた右小手を大げさにご自分の目線位にまで上げられ、面越しに大声で「参った、いい業だ」とおっしゃいました。師匠は全日本剣道選手権の審判長をされるような日本でも有数の大先生です。そんな大先生ですから本当は私などに打たれる訳はないのです。一所懸命に稽古に掛かる私を指導しながら、今こそ、と思われ「啐啄同時の機」を実行され、私を善導されたのです。私はといえば、そんな大先生に大いにほめていただいたわけですから、夢心地です。ひょっとしたら、高校時代に剣道部ではなかった自分でもそこそこはやれるかもしれない、今でいう自己肯定感、モチベーションが大きくアップし、一層、稽古の虫になったことを覚えています。この時のご指導、この「啐啄同時」の経験が私の剣道修業のまさにアイデンティティーになっています。

20180416-2.jpg20180416-1.jpg私は毎朝、専用通路脇で児童生徒に大きな声で挨拶をしています。子ども達が大きな声で挨拶ができたら、あるいは声は小さくても眼差しをしっかり私に向け挨拶出来たら、今だと思い、大いにほめています。「おお、元気だね!大きな声で挨拶出来て!」などと。挨拶にも啐啄同時の機はあるのです。子ども達の成長をサポートできる細心さをもって気を引き締めて、挨拶を率先したいと思います。
(小学校副校長 成地 勉)