高校全校朝礼~チキンラーメンの開発者
7月8日(水)、高校の全校朝礼で次のような話しをしました。
〝皆さんは、インスタントラーメンを発明した人を知っていますか。安藤百福さん、日清食品を創った人です。この人はこの近く池田市に住んでいました。生まれたのは、1910年(明治43年)日露戦争が終った頃です。小さい時に両親を亡くし、繊維問屋を営む祖父母に育てられました。その後、自分でメリヤス会社を作り事業を拡大しましたが、太平洋戦争に負けてすべての物を失ってしまいました。しかし、これにめげるのではなく製塩業・百貨店をはじめさまざまな事業を行ないました。
その当時、梅田の駅裏で一杯のラーメンのために、多くの人が寒さに震えながら長い列をつくるのを目の当たりにし、食物への関心が高まりました。戦後、アメリカから支援物資として大量の小麦が日本に送られてきました。そして、これを使ってパンを作ることを政府は奨めたのです。安藤氏は“日本本来の麺をつくるべきではないか”と厚生省働きかけましたが、全く耳を貸してもらえず、最後には“そんなに言うなら、あなたがやれば良いのではないか”という答えが返ってきました。自分でやってみたいと考えましたが、自分の事業が忙し過ぎてやることはできませんでした。
ところが大きな転機が訪れることになります。名前だけを貸して欲しいということで理事長に就任していた信用組合が倒産したのです。その結果、池田にある自宅以外はすべて失ってしまったのです。ここから安藤氏の戦いが始まります。自宅の裏の6畳くらいのトタン屋根の小屋でラーメンづくりを始めたのです。おいしくて保存がきき、簡単に食せて、安全で安心なラーメンをつくることを目指しました。なかなかうまくいきませんでしたが、ある時奥さんが天ぷらを揚げるのを見てヒントを得ます。しかし油であげるだけではコクのある味にはなりません。そしてチキンエキスやしょう油を麺にしみ込ませるために大変な苦労を重ねて、1958年ついにインスタントラーメンを完成させました。1袋35円、熱湯を注いで、3分間で美味しいラーメンができあがります。3年後には約1億5千食というとてつもない市場になりました。安藤氏は日本ラーメン協会を設立して製法特許を公開しました。会社は3年間で従業員は30人から1000人になり、5年間で株式を上場しました。
やがて海外進出を試みます。しかしどんぶりとはしのない国にどうしてラーメン文化を伝えるのか。その答えは現地のディーラーが紙コップで試食したことで、カップ麺にするというものでした。そしてふたを密閉性の高いものにし、発泡スチロールの容器にしました。この結果、今では多くの国で食されています。
そして、〝少年少女に夢をおくりたい〟〝七転び八起きの精神力で苦境に陥った人を励ましたい〟という思いでインスタントラーメン発明記念館を池田市に作りました。創業当時、安藤氏が明け方まで開発に取り組んだトタン屋根の作業所が展示されており、実際に粉をこねてチキンラーメンを作る「手作り体験コーナー」もあります。
何事にもくじけず果敢に挑戦すれば、必ず道は開けていくと思います。〟