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日本の偉人~一休禅師

tusin175_193-2.jpg 一休禅師の銅像の前で

  2月4日(金)、二十四節気のひとつである立春を迎えました。旧暦では元日ということになります。これから次第に気温が上昇し、色々な植物の新芽が吹き出す季節を迎えます。お互いに心機一転新たな取り組みに挑戦していきたいものです。
  
  先週末に開催された社会科の研究発表においては、生徒達が歴史上の人物のことをテーマに上げて調べていました。本校では〝社会で活躍する人材の育成〟を教育方針に掲げていますが、最近はわが国の偉人について学習する機会が少なくなっているように感じています。しかし、これらの人の生き様を学ぶことは非常に参考になります。従って、これから折に触れ、偉人の考え方や生き方を取り上げていきたいと思っています。
  
  先日訪問した一休寺の一休禅師は「頓知(とんち)の一休さん」と呼ばれ親しまれていますが、地元に住みながらあまり詳しいことを知らないため調べてみました。これによると、一休禅師には全く別の顔があることが分かりました。
  実は、一休禅師は後小松天皇の皇子ですが、彼の生涯は決して平凡ではなかったようです。故あって母子ともに宮中を追われ、町屋において天皇の子として誕生、その後6歳にして京都安国寺において出家得度(とくど)しました。頓知の一休さんと呼ばれているのは、この安国寺における小僧時代の寓話が元になっているのです。そして、成人した一休禅師は頓知というよりも柔軟で既成の常識や権威を否定し、体制や権力に背を向けた生活を送ったようです。
  一休禅師の人柄は、伝説のとおり聡明で優しく人々に慕われたようで、応仁の乱の後81歳で大徳寺の住職となりましたが、一休寺が気に入りここに住みながら京まで通っていたようです。文明13年(1481年)禅師はここで88歳の天寿を完うし葬られましたが、天皇の皇子ということで墓所には菊のご紋章があり、宮内庁が管轄しています。そして、今年は禅師の没後530年にあたります。
  また、一休禅師がいよいよ最期の時を迎え、自分の死後揉め事が起こることを予想して、「ゆきづまった時やどうしようもなくなった時には、この遺書を読みなさい」と弟子の高僧に言って、遺書を本堂内に埋めたそうです。何年か後、その予想が的中し、弟子達がこの遺書を開いて見ると「心配するな なるようになる」と書かれていたとのことです。
この他にも一休禅師は多くの言葉を残していますので紹介します。

  ◇ 「有漏地(うろじ)より無漏地(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」  これは〝煩悩の世界から悟りの世界へ行っても一休みするだけで、私の居場所は雨風が吹き荒れる混沌とした世界だ〟という意味ですが、一休という名前の由来であると言われています。
  ◇ 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 」
  ◇ 「世の中は起きて稼いで寝て食って 後は死ぬを待つばかりなり 」
  ◇ 「南無釈迦じゃ  娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ  どうじゃこうじゃ というが愚かじゃ 」 
  これからも、この地元の偉人について色々なことを調べていきたいと思っています。