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研究授業~野中兼山を知る~

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  本校では『授業を磨く』を合言葉に、「相互授業参観」「研究授業」「授業アンケート」等さまざまな取り組みを行なっています。先週からは相互授業参観旬間になっており、私もスケジュールを調整しながら先生方の授業を見学しています。
  先日は、野中兼山のエピソードを教材にした国語科の漢文の研究授業が行なわれました。このエピソードというのは、野中兼山が江戸の土産に「ハマグリ」や「アサリ」を船に一艘分、積んで土佐に帰ってきたが、それを全部、海に投げ捨ててしまい、驚く人々に 「これは諸君への、お土産ではない。諸君の子々孫々までの土産なのだ。」と言い切ったというものです。そして、それ以来、土佐湾は「ハマグリ」や「アサリ」の海産物で潤ったと言われています。
  この授業の後で、〝野中兼山〟について質問すると、ほとんどの生徒から知らないという答えが返ってきました。私は以前、四国で勤務していた関係で、江戸時代に土佐に野中兼山という素晴らしい人物がいたということを知っていましたので、本日は野中兼山という人物について紹介します。
  野中兼山は、元和元年(1615年)の生まれで、祖父の妻は、藩主・山内一豊の妹ですから藩主の山内家とは縁続きの家柄です。慶長6(1601)年に山内一豊が土佐藩に移封になったとき、兼山の父は、5000石の扶持を与えられる大身の侍でした。ところが、一豊が約束した昇給が、殿さま(一豊)の死後に反故にされたことに腹を立てて、土佐藩を去って浪人になってしまいます。そして、大阪で商家の娘を嫁にもらうのですが、その父も若くしてこの世を去ってしまいました。そのため、母は夫の親戚を頼り、兼山を連れて土佐に帰ってきました。その後、野中兼山は土佐藩の家老職として総奉行に就くことになりますが、その時は土佐の上士(山内家譜代の武士)と郷士(旧、長宗我部家)の対立が極限に達していた頃でした。それから彼はこの総奉行を30年間勤め、藩内の揉め事を一掃してしまいます。主な功績を挙げると、〝上士〟たちには藩の上級武士として高位を与え、〝郷士〟たちの身分は低く据えおく代わりに、未開の土地の開墾を命じることにより「上士」と「郷士」の対立を解消しました。また、植林や間伐の計画化を実施し、土佐の山林を守り、米価についても、「公定価格制度」を導入することで、米価を常時安定させ、農民たちを手厚く保護しました。このため、台風のメッカともいえる土佐にもかかわらず、江戸時代を通じて飢饉の記録はありません。更に、室戸に海面上11㍍余の高さの「波止めの堤防」を築き上げたのです。当時の人々は、「何で、こんな高い堤防がいるのか」と工事を嫌がったそうですが、この堤防のおかげで、戦後多数の死者を出した最大瞬間風速60㍍超の「室戸台風」でも子孫の命が助かったのです。 
  彼は、晩年悲運の人生を送ることになりますが、一時の人気取りや、目先の利害ではなく、常に「百年の計」を考えて行動したのです。まさに、彼こそが本当の指導者であると言えるのではないかと思います。自分の利害を優先している現在の日本の政治家には、是非彼の姿勢を学んで欲しいものです。