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2025年10月24日

昭和の先生

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 私は昭和の終わりに雲雀丘学園で教員生活をスタートさせました。初めての職場、学校が雲雀丘でした。今から思い返すと、雲雀丘は教員にとっては自由で、かなり個性的な先生が多かった、いや、ばかりだった気がします。当時の私は「ひよこ」で何も分からず他校の情報もなく、ここの教えが私の教員スタンダードになっているかもしれません。
 当時は教員研修など記憶になく、手取り足取りでなく指導場面を近くで見ていて、考えさせるスタイルだったように思います。どの先生もスタイルが全く違うのですが、共通している部分は同じでした。特に、副校長や学年主任は言葉少なく自らの姿勢を示す「躬行」(この言葉は副校長から色紙をいただき知りました)で、いつも温かな眼差しを懸けていただいていると感じることが多く、安心感でもありました。
 この先生は朝礼台の上から全校生徒に向け校則を守らない生徒に対し「この学校は私の青春です!」と熱弁、諭されました。私には衝撃的でしたし、学校を作り上げてきた誇りや愛校心や情熱に背筋が伸びました。今年5月に他界されましたが、感謝の気持ちでいっぱいです。
 雲雀丘の共通点は「生徒とともに」「勉強しなさい」「遊びなさい」「やってみたら」だったと理解しています。良い授業をするために机上の教材研究だけでなく、いろいろなところに出かけて資料収集もしました。行事や部活動はもちろん、備品修理やペンキ塗りと生徒と一緒に勉強以外のことも多かったです。先輩の先生とのスポーツや飲食の機会、洞窟探検(大人10人が暗黒の狭い洞窟へ)や旅行(博多でキャバレーなるものに初めて行きました)もありました。授業でも学級経営でも自由な雰囲気の中でやりたいことをやらせていただけたのも良かったです。「授業に大学教授や留学生を呼びたい」「学級通信を出したい」と初めてのことばかりでたぶん生意気だったと思いますが、邪魔されることなくそっと応援していただきました。
 雲雀丘では良い生徒・保護者に囲まれ、どこまでが仕事なのか時間の全てが学校中心だったですし、「雲雀丘の一員として」それが安心してできていました。みなさんに支えられ育てていただいたと思います。
 ある時期に他校転任の話があり、相談した校長先生より「この学校で得たものも多いが失ったものもある」と言われショックを受けました。転任話しは立ち消えましたが、もっと外の世界を見て外からの刺激を受けなければだめだと痛感しました。
 昭和、平成を経て「令和の日本型学校教育」が提唱され、教育、教員のあり方は大きな転換・変革期に来ています。私たちは築いてきた伝統、学校文化を意識しながら新たな時代に向かってきたいです。

(雲雀丘学園中学校・高等学校 校長 中井 啓之)