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「栄華の巷低く見て」

 前回の当番の時に触れましたが、久し振りに進路指導部に帰ってきました。久し振りと言っても、そう遠い昔のことではありません。ほんの4,5年前のことですが、受験状況の変化には目をみはるばかりです。先ず感じたのは、久し振りに出向いた大学の入試説明会で、受験のパターンが非常に複雑になってきているのには驚きました。
 しかし、何と言っても私にとって大変化に感じるのは、国立大学の法人化です。進路指導からも担任からも離れていたため、大学から注意がそれて、その存在が私にとって日常化していなかっかためかとも思いますが、本当に驚いています。受験生の諸君には法人化と言ってもピンとこないかもしれません。法人化というのは、例えば、本学園の正式な呼称は学校法人雲雀丘学園です。私立の学校は学校法人ですから、手短に言えば、国立大学の法人化とは国立大学の私立大学化と言えるわけです。民営化もここまで及んだかといった感じがします。民営化といえば何やら営利企業の臭いもします。
 反射的に思い浮かぶのは、「栄華の巷低く見て」という一節です。これは「嗚呼玉杯に花受けて」で始まる旧制第一高等学校(現在の東京大学)の寮歌の一節で、大学というところは俗世間の「栄華」は「低く見て」学問に取り組む場所である・・・・・・旧制高等学校といえば、明治初年の創立から昭和23年までの卒業生の総数は21万5千人にしか過ぎない超エリート集団で、特にこの「栄華の巷低く見て」の一節は、一種の気負いと気取りが気にはなりますが、大学が実社会の実利を離れた場所であるべきで、俗世間の垢にまみれた発想を廃して超然たるべきである・・・という主張が伝わってきます。旧制高等学校は旧制大学の予科的存在といった雰囲気もあり、単純に現在の大学と比較することはできませんが、一種の熱っぽい「空気」は伝わってきます。
少 し皮肉っぽく書きましたが、私は大学に対するこの考え方に反対している訳ではありません。というよりむしろ、賛成なのです。以下その理由を書いてみます。
 大学の存在理由ですが、大学は教育機関であるか、研究機関であるか、という分け方があります。現実の社会に従属した形で、「実社会に役に立つ」人間を養成するのが大学である、とするか、実社会から隔絶した形で「象牙の塔」にこもり、当世の流行に合わせることなく、純粋培養の形で、「真理の探究」に励むのが大学とするか。旧制高等学校の学生たちが謳歌したのは、勿論後者です。この後者の考え方は悪くありません。私自身も大学はむしろ実際には直接役に立たなくても、原理原則を勉強するところであり、基礎研究を行うところだと思います。
 ざっと見渡しても基幹産業はそう永く続くものではありません。現代の基幹産業はIT関連産業でしょう。しかし、40年前は鉄鋼産業でした。80年前は繊維産業でした。さらに、最近では技術革新が加速したため、技術の寿命は短くなり、せいぜい10年といわれています。こういう諸行無常的産業社会に生きていくためには、現在の風潮に合わせた進路の決定は禁物です。あまり目先のことに捕らわれて妥協しないこと、自分の本当にやりたいことを掘り下げること、その上で、大学で学びながら、現実の社会との接点を探るというスタンスの取り方が賢明だと思います。
文責: 山本正彦