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カナダの歴史と首都オタワ

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  カナダへの植民は1534年フランス人Jカルティエがセントローレンス湾に入り、セントローレンス川の沿岸をフランスの植民地ニューフランスにしたのに始まる。しかし、ヨーロッパにおけるイギリスとフランスの7年戦争後のパリ条約(1763年)により、北アメリカ大陸のフランス植民地がイギリスに割譲され、以後はイギリスの植民地となった。その後、1864年イギリスの4植民地が連邦を結成してカナダとなり、1867年イギリス連邦カナダ自治領となった。更に1931年外交自治権を獲得して完全な独立国となり、1982年新憲法を公布し、国権の最高機関を国会とし、イギリス君主は象徴とされた。国民の民族構成は、イギリス系が3分の1であり、ケベック州では文化の独自性を主張し、分離独立を求める運動が続いている。
  現在、首都はオタワである。どうして最大の都市であるトロントやモントリオールやバンクーバーでないのかは、カナダの歴史を紐解かなければならない。
オタワは1857年(昭和32年)に首都に選ばれたが、位置的にイギリス圏とフランス圏の境界にある。
〝カナダ〟という名前は英国領植民地の一つ「カナダ植民地」につけられたものであり、現在のオンタリオ州とケベック州がほぼこれにあたる。ケベック州は元ヌーベル・フランス(仏領北米植民地)であり、今でも英国系の諸州とは一線を画している。1776年のアメリカ合衆国の独立後、アメリカの政策を嫌ったロイヤリスト(親英派)約1万人が大量に流入し、フランス風の習慣を踏襲せず、独自のイギリス風コミュニケーションを形成し、1791年オタワ州を挟んで、アッパーカナダ(英系)とロウアーカナダ(仏系)に分割されることになった。当時オタワ周辺にはまだ先住民であるインディアンが居住していたが、1812年の英米戦争がきっかけで米国に対抗するため、英仏両カナダは心の底に確執を抱きながら団結することになり、これがカナダ誕生の大きな要因となった。この戦争の結果、英国側はアメリカに近すぎるセントローレンス川にかわる水路を築くべく、オタワを貫く〝リドー運河〟の建設に着手し、その後1841年にはアッパーロウアーの両カナダが併合された。
  これによりカナダ植民地が樹立され、首都はモントリオール、ケベック、トロントとめまぐるしくかえられた。この底流にあったのは、英・仏両カナダの反目であった。この悩みを一気に解決したのが「気まぐれ女王」と呼ばれたビクトリア女王であり、アメリカから離れているという戦略的な配慮もあって、アッパーとロウアーの接点にあたるオタワに植民地政府の首都を置いたのである。その後1867年イギリスから自治権を与えられ、カナダ連邦が成立し、同時にオタワも一国の首都となった。その後1900年オタワは大火に見舞われ、市のほとんどが消滅したが、これが現在の理想的な町づくりのきっかけになったのである。