学園設立の経緯
本学園は10月1日が創立記念日になっていますが、創立後60年近くが経過し当時の状況を知る人もごくわずかになってきました。そこで、創立記念日を機に学園歴史を紐解き設立にいたった経緯を振り返ってみたいと思います。
第二次世界大戦が終わって間もない昭和24年(1949)2月、雲雀丘、花屋敷の住宅地の子どもたちが多く通学していた隣の市の大阪第二師範学校付属小学校の入学試験に対する「文部次官通達」が出されました。この内容は《 終戦後アメリカ進駐軍が占領政策で日本の「教育の民主化」政策を進める中で、付属小学校は富家の子弟ばかりの入学を認めているのが実態であり、一般の子どもの入学を認めて庶民教育をするべきである。志望者が多ければ抽選で入学者を決めよ》というものです。この通達によって抽選が実施されたため、抽選にもれた雲雀丘、花屋敷地域の子どもが数多く出ることになりました。その結果、兄姉が付属に通っているのに弟妹が入学できないという事態が起こり、彼らの保護者の中に“付属のような学校を設けたい”との意見が生まれた。 殊に、当時この地域の子どもたちが通園していたこの地の雲雀丘幼稚園( 園長・大原たま氏)の卒園児童から多数の不合格者が出て、大原園長らは彼らの将来について真剣に考えざるを得ない立場となり、地元の西谷村村会議員をはじめ地元の教育熱心な人達と共に、学校新設の世論を起こした。これが2月半ば過ぎのことである。村会関係者は西谷村と交渉する一方、幼稚園関係者は大阪第二師範学校( 校長・板倉操平、付属小学校主事・池上実)に援助を仰ぎ、学校新設の運動が進められた。
第1回の公式会合は3月25日夜に行われ、「雲雀丘小学校創立委員会」として発足し、 委員長鳥井信治郎(寿屋社長 現サントリー)・ 学校長土井信男(師範学校付属小学校教官)などが決められた。その後、まず、西谷村雲雀丘分教場として学校が発足することになり、4月15日が入学式であると共に開校式となり、分教場の場所は雲雀丘幼稚園の園舎であった。新1年生は男子22名、女子14名、計36名で、先生は学校長兼土井信男、石黒冨貴子(師範学校付属小学校教官)の2名であった。
このように創立の経過を見ると、 昭和24年(1949)2月21日 付属小学校の合格発表、3月25日 雲雀丘小学校創設委員会 結成、3月27日 西谷村村議会で雲雀丘分教場設置の決議とわずか2カ月足らずの超スピードでの設立であったことがうかがえる。
その後、昭和25年(1950)8月24日 学校法人雲雀丘学園が認可され、10月1日 開園記念式(学園創立記念日)が行なわれたのである。