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学園の歴史~創設の経緯

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  雲雀丘学園は地元の皆さんの総力で創設された学園ですが、当時の状況については周年記念誌に掲載されていますので、紹介します。
 
  〝第二次世界大戦が終わって間もない昭和24年(1949)2月、雲雀丘、花屋敷の住宅地の子ども達が多く通学していた隣の市の大阪第二師範学校付属小学校の入学試験に対する「文部次官通達」が出されました。この通達は終戦後アメリカが日本の「教育の民主化」政策を進める中で、進駐軍の意向が強く反映されたものでした。即ち『付属小学校は富家の子弟ばかりの入学を認めているのが実態であり、一般の子どもの入学を認めて庶民教育をするべきである。志望者が多ければ抽選で入学者を決めよ』という内容でした。
  この通達によって入試が実施されたため、雲雀丘、花屋敷地域の子ども達の多くが抽選に漏れるということになってしまいました。とりわけ雲雀丘幼稚園の卒園児童の中には、兄姉が付属に通っているのに弟妹が入学できないという事態が起こってしまったのです。そのため、彼らの保護者の中に“付属のような学校を設けたい”との意見が数多く出されました。この動きを受けて、大原たま園長らは地元の教育熱心な人達と共に大阪第二師範学校(校長・板倉操平氏、付属小学校主事・池上実氏)に援助を仰ぎ、新設のための運動を進めることにしたのです。そして、これからわずか1ヵ月後の3月25日に第1回の公式会合が行なわれ「雲雀丘小学校創立委員会」が発足し、委員長鳥井信治郎(寿屋社長 現サントリー)・学校長土井信男(師範学校付属小学校教官)等が決められたのです。
  その後、西谷村雲雀丘分教場として雲雀丘幼稚園の園舎内に学校が設立され、昭和24年(1949年)4月15日に入学式兼開校式が行なわれました。2月21日に付属小学校の合格発表があってから、わずか2カ月足らずという短期間での設立で、新1年生は男子22名、女子14名、計36名、先生は学校長兼土井信男、石黒冨貴子(師範学校付属小学校教官)の2名でのスタートでした。〟