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雲雀丘学園の歴史を紐解く~小学校創設の経緯

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  本学園は今年創立60周年という記念すべき年を迎えましたが、創立当時の状況を知る人もごくわずかになってきているようです。創立記念日にあたって周年誌(20周年・30周年)を紐解いてみると次のように記されています。
 
  〝第二次世界大戦が終わって間もない昭和24年(1949年)2月、雲雀丘、花屋敷の住宅地の子ども達が多く通学していた隣の市の大阪第二師範学校付属小学校の入学試験に対する「文部次官通達」が出されました。この通達の内容は終戦後アメリカが日本の「教育の民主化」政策を進める中で、進駐軍の意向が強く反映されたものでした。即ち『付属小学校は富家の子弟ばかりの入学を認めているのが実態であり、一般の子どもの入学を認めて庶民教育をするべきである。志望者が多ければ抽選で入学者を決めよ』というものでした。この通達によって抽選が実施されたため、抽選にもれた雲雀丘、花屋敷地域の子どもが数多く出ることになりました。その結果、兄姉が付属に通っているのに弟妹が入学できないという事態になり、不幸にして入学できない子どもの保護者には、諦められないものがありました。“付属のような学校を設けたい”との意見が生まれることになりました。
  特に、当時この地域の子ども達が通園していた雲雀丘幼稚園の卒園児童から多数の不合格者が出ることになったため、大原たま園長らは地元の教育熱心な人達と共に、学校新設の世論を起こすことになりました。これが2月半ば過ぎのことです。そして、大阪第二師範学校( 校長・板倉操平、付属小学校主事・池上実)に援助を仰ぎ、新設のための運動が進められたのです。これから、わずか1ヵ月後の3月25日に第1回の公式会合が行なわれ、「雲雀丘小学校創立委員会」として発足しました。そして、委員長に鳥井信治郎氏(寿屋社長 現サントリー)・ 学校長に土井信男氏(師範学校付属小学校教官)を推すことが決められたのです。しかし、私立学校としては、基本金、書類等の設立準備が間に合わないので、とりあえず村立西谷村雲雀丘分教場として発足すること、但し、教育方針その他教育に関することは独自の立場をとること等の申し合わせができたのです。しかし、肝心の校舎をどうするのかは全く決まっていませんし、学校を建設するための資金も時間もありません。そこで、校舎は雲雀丘幼稚園の園舎を分教場として借用し、後に独立することになりました。
  その後、4月10日頃になって、ようやく4月15日の入学式の日取りが決定し、石黒冨貴子(師範学校付属小学校教官)の赴任も決まったのです。こうして、この学校が将来どうなるのかについては誰もが不安な気持ちを持ちながら、第1回目の入学式兼開校式が行なわれ、男子22名、女子14名、計36名の新1年生でスタートしたのです。