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カナダ研修後記~②カナダの歴史

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       ≪カナダの国旗≫
  
  カナダの歴史を紐解いてみると、随分若い国であることが解る。
  カナダへの植民は1534年フランス人Jカルティエがセントローレンス湾に入り、セントローレンス川岸をフランスの植民地ニューフランスにしたのに始まる。また、カナダという国の名前は、この時、現地イロコイ族に「ここはどこか?」と尋ねると「カナタ」と答えたことにちなむ。つまり、原住民であったイロコイ語のカナタkanata 「小屋の集落」に由来しており、「村落」を意味している。この頃は、丁度日本では室町時代にあたり、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたり、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教の布教を始めた時期にあたる。このような史実を見ても、ヨーロッパの諸国が競い合って、全世界に乗り出していたことが解る。そして、17~18世紀にかけては世界のいたるところで植民地争奪が行なわれるに至ったが、カナダにとって大きな転機となったのは七年戦争(1756年-1763年)である。これはヨーロッパにおいて、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で行なわれた戦争であるが、これと並行して、イギリスとフランスの間では北アメリカ、インド、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。そして、この戦いはイギリスの勝利で終結し、戦後のパリ条約(1763年)により、北アメリカ大陸のフランス植民地がイギリスに割譲され、イギリスの支配権が確立することになった。しかし、一方でイギリスは多額の負債にあえぐことになる。このため植民地への課税に訴えるが、これが仇となりアメリカ独立革命を引き起こし、南部分はアメリカ合衆国として独立することになり、この独立戦争でイギリス側についた人々の一部が北に移り住むことになる。そして、フランス系民族を蔑視しイギリス系に吸収・同化しようとするが、フランス系カナダ人はケベック州に自らを封鎖しフランスの言語・宗教・文化を保持し続けることになった。その後、1864年になって、イギリスの4植民地の指導者が中心となって連邦を結成し、1867年イギリス連邦カナダ自治領となった。これは奇しくも日本における大政奉還の年にあたっている。更に1931年外交自治権を獲得して完全な独立国となり、1982年新憲法を公布し、国権の最高機関を国会とし、イギリス君主は象徴とされ、今日に至っている。しかし、現在でもケベック州においては根強い独立運動が続けられている。