大山登山に思うこと
なぜ山に登るのですか」との質問に、「そこに山があるからです」と答えたという話があります。本校も、林間学舎で大山登山を長年実施しています。生徒の中にも「なぜ、こんなシンドイことをするのですか?」という疑問があると思います。登山と言いますか、「山に登る」と言えば、修行・鍛錬という言葉を連想する人が多いのではないでしょうか。このルーツは、山岳信仰からきていると思います。自然の厳しさや素晴らしさ、そこからくる畏怖の念、俗世との関わりを断ち悟りをひらく修行や鍛錬の場として、山が位置づけられてきました。
古くから山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として大山寺が栄えたように、大山も修行の場でした。その山に登ります。「彼は鼻で深い息をしながら、一種の快い疲れで目をつむっていると、遠く上のほうから、今登って行った連中の『六根清浄、お山は晴天』という声が二三度聞こえて来た。」志賀直哉の小説「暗夜行路」にでてくる大山登山の場面です。「六根」とは「知覚作用のもとになる六つのもの。眼・鼻・耳・舌・身・意の称」(新明解国語辞典)とあります。六根からくる煩悩や私欲を清浄にするという意味の掛け声です。ここにも山岳信仰の色彩を感じます。「六根清浄、お山は晴天」と言って山を登った経験を私も持っていますが、林間学舎の大山登山では「おはようございます」という声をかけます。
悟りや「六根清浄」とまでは言いませんが、厳しい自然や山に挑戦することによって、「もうダメかな」と思いながらも仲間と共に登ったという連帯感や達成感など多くのものが得られるはずです。自分の限界に挑戦し、自分の「頂点・頂上」に立てた、掛け替えのない経験になったのではないでしょうか。