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新暦1615年6月4日

 「新暦1615年6月4日(慶長20年5月8日=7月に元和と改元)桃山文化の粋を誇った大坂城が紅蓮の炎に包まれました。豊臣氏が滅亡した『大坂夏の陣』の終焉です(猪名川町HPいながわ歴史ウォークより)」。399年前の6月4日の話です。多田銀銅山をめぐる攻防であったのでしょうか、猪名川町域も戦場となり、上野や広根などが灰燼となったそうです。平安時代に多田庄を開いた源満仲の家臣の子孫、多田院御家人も参戦したといわれているそうです。冬の陣は約2ヶ月、夏の陣は2週間足らずといわれていますが、広範囲に及ぶ規模の大きな戦だったことが伺えます。
 大坂城をめぐる攻防は一日で決着がついたようです。その様子を描いた「大坂夏の陣図屏風」は、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が絵師を集めて描かせたとされる六曲一双の屏風絵です。右隻には、真田幸村隊と松平忠直隊の槍合戦など、5月7日(新暦6月3日)の決戦の様子が、そして左隻には、恩賞目当ての雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身ぐるみを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景など落城後の避難民の悲惨な状況が詳細に描かれています。この屏風絵は、NHKの「その時歴史が動いた」で「戦国のゲルニカ」として紹介されました。
 慶長20年5月8日、大坂城落城、豊臣秀頼・淀殿ら自害、その3ヶ月後(旧暦は閏月を入れ実際の季節とのズレを補正した暦で、慶長20年は6月の次に閏6月がある)の7月13日(新暦1615年9月5日)に「元和」と改元されました。新暦と旧暦の違いから6月4日を考察してみました。