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1冊の本から 終

 4日目ともなると、アインシュタインおたくのようで、私は楽しいけれど他の人は面白くないんだろうなあ、と思いながら、あと少しだけお付き合い下さい。
 アインシュタインが日本に来たときの話。1922年(43歳)、日本はアインシュタインを妻のエルザと共に招待しました。そのことについて、“ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが来日の目的である”と語っています。 10月8日、日本郵船「北野丸」でマルセイユを出港。11月10日、香港~上海の途上で1921年度ノーベル物理学賞を授与することを、この船上で電報を受け、11月17日、神戸港に到着したときには、すでに日本にも伝えられていました。その夜は、京都の都ホテルに宿泊したようです。
 講演回数は計8回。講演地の中には、本校が高大連携をしている慶應義塾大学もありました。一般講演の入場料は3円で、オペラの上等席と同じくらいの値だそうです。余談ですが、チャップリンが日本に来た時(年代は少し後になりますが)、不二家のコーヒーが15銭のところを、知ってか知らずか1円置いていったそうです。因みにチャップリンは日本が大好きで、3回も来ているそうです。
 話は戻して、アインシュタインの日本滞在の終盤、12月25日のクリスマスパーティーでは、ヴァイオリンで「アヴェ・マリア」を演奏し、28日の送別会でも3曲演奏したそうです。
 日本滞在中、人力車を見て、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否ししたと言われています。湯川秀樹と面会した際には、多少なりとも原子爆弾に関与してしまったことを悔やみ、涙ながらに謝罪したとも言われています。また、アインシュタインの著書の中に「やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあるものがあるそうです。
 こんなに立派なアインシュタイン博士ですが、実は非常に面倒くさがり屋で、洗濯石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭き、灰皿に食事を盛りつけるということもあっらしいし、小学生のようにスペルを間違ってみたり、簡単な数字や記号を記憶するのが苦手だったらしく、「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね」といっていたそうです。やっぱり天才だったのでしょうか。睡眠時間は1日10時間、菜食主義者。これは真似できそうです(^_-)。
「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか。」 
 彼は手紙好きで、有名になってからも1万通以上も手紙のやりとりをしていたそうです。手紙好きと言えば、去年生誕250年を迎えていたモーツァルトも、多くの手紙を残しています。そしてモーツァルトと言えば、未完成に終わった「レクイエム(K.626)」を最後に多くの作品を残していて、作曲された順番にケッヘル(K.はこの省略)という人が番号を付けていったのですが、不明な点も多く、それを見直したのが、何とアインシュタインの従兄弟だったのです。現在K.(ケッヘル番号)の後に、( )書きで「ケッヘル‐アインシュタイン番号」が書かれていたりします。
「もし、私が物理学者にならなかったら、おそらく音楽家になっていたでしょう。私はよく音楽のようにものを考えます。音楽のように白昼夢を見ます。音楽用語で人生を理解します。私は音楽から人生のほとんどの喜びを得ています。」
「思考とは、それ自体が目的である。音楽もそうです。」 
「死とは、モーツァルトを聴けなくなることだ。」
 長くなりましたが、1冊の本から興味の幅がいくらでも広がり、きりがありません。みなさん、ジャンルにとらわれず、色んな本を手に取ってみてください。意外な自分を見つけられるかも知れませんよ。