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誰のために、何のために

 昨日、御堂筋を歩いているとある有名企業のビルの前に、たくさんのリクルートスーツ姿の大学生達が集まっていました。会社説明会の入場を待っていたようでした。
 私が大学生の頃には、企業の募集活動は、4回生の7月が解禁で、就職活動はそれからでした。ところが、この取り決めが撤廃され、今では3年生から就職活動に動かなければいけないという、何のために大学に行っているのか分からない状況が生まれ、大学が「就職予備校化」してしまっています。
 会社の人事担当者は、どうしても見かけで人を判断してしまうようです。明るい表情で、ハキハキ答える人が、評価が高いようです。しかし、短い時間の中でその人を見抜くのは難しいことですが、例えハキハキと答えられなくとも、何とかその人の本質を引き出そうとすることは、面接者の側の能力にかかっていると言えるでしょう。表面でしか人物を評価できないのであれば、失格といういわざるを得ません。就職活動をした卒業生達の経験談を聞いていると、大企業であっても、実際は大学名や見た目で採用している企業が少なくないようです。
 現在の企業のそうした体質が改まらない限り、日本の差別社会・格差社会はなくならないと思います。学校は、本来そうした考え方とは別の世界であったのですが、最近は企業主義の発想が無批判に取り入れられて、本来教育が抱えている問題を解決する方向性をさらにややこしくしてしまっているように、私には感じます。教師の仕事をやりやすく効率化することと、なぜ教師の仕事が複雑化しているのかという本質的な問題を考えることは、分けて行われるべきでしょう。
  私の高校3年間の学年主任であった国語の先生は、メガネをかけた小柄の子狸みたいなおじさんで、授業も訥々と静かに語るタイプの先生でした。しかも、悪筆でテストは問題を考える前に、文字を解読しなければならないという、今の君たちから考えたら、あまり良い先生に思えないかもしれない方でした。しかし、私達はその先生の授業中は、とても緊張していました。厳しく叱られるからではありません。静かな授業の中での、その先生との受け答えが、真剣勝負に感じられたからです。その理由は、その先生の学識に、我々生徒もみんな敬服していたからです。先生は、松尾芭蕉の研究者としても一流で、その国語の授業は、正に一言一言が価値のあるように思えました。今の自分を顧みると、ただただ恥ずかしいばかりです。
人の価値は、表面的な姿形やしぐさで判断されるものでは、決してありません。もちろんそうしたものが必要な職業もあるわけですが、よく考えると、当たり前のことですが、すべての人間が容姿端麗で、何でもニコニコ・ハキハキとしゃべれるわけではありません。例え、物静かであっても、人の気付かないことに心配りができたり、逆にものすごく美男・美女であっても、平気で他人を傷つけたり、いろいろな人間がこの世の中にいます。「巧言令色、鮮なし仁(巧言令色鮮矣仁)」という言葉が中国にあります。孔子の『論語』の言葉で、巧みな言葉や見かけの素晴らしい人間が誠実な人間、立派な人間とは限らないということです。
 皆さんの人生は、もちろん皆さん自身のものですが、その人生は多くの人々に影響を与え、役立つことができます。自分の持っているすばらしさを発揮し、他人を表面的に姿ではなく、その本質を認め、付き合えることのできる、そんな人間に育ってほしいと願っています。