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【One Day College③】ブラジル日系移民の動向 ~20世紀前半を中心に~

2026/07/20

1 Day College

講座レポート:「ブラジル日系移民の動向 ~20世紀前半を中心に~」(神戸大学 小澤卓也先生)

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日本と地球のほぼ反対側にあるブラジル。

実はこの国には、海外在住の日系人としては世界最大となる約270万人もの日系ブラジル人が暮らしています。

神戸大学国際人間科学部・小澤卓也先生の講座では、その歴史の起点となった「日系移民」の物語を、日本側とブラジル側、双方の事情から丁寧にひもといていきました。

なぜ日本人はブラジルを目指したのか

物語は明治初期の海外出稼ぎ移民から始まります。

ハワイなどでの厳しい労働環境や、地租改正による農民の困窮――いわゆる「口減らし」としての側面もあった当時の海外移民は、やがて排斥運動(黄禍論)の高まりを受けて、アメリカへの新規移民が禁止される事態を迎えます。

そこで新たな移民先として浮上したのが、広大な国土を持つブラジルでした。日露戦争での勝利によって国際的な注目を集めていた日本人に、ブラジル側からも熱い視線が注がれていたのです。

コーヒー大国ブラジルが移民を必要とした理由

一方のブラジル側では、19世紀からコーヒーの一大生産地として発展を遂げていました。

世界のコーヒー生産の実に7割以上を占めた時期もあるほどの一大産業を支えていたのは、かつては奴隷制でしたが、国際的な奴隷制廃止の流れの中で、代わりの労働力として大量の移民労働者が必要とされていました。

当初はヨーロッパからの移民が中心でしたが、労働条件をめぐるトラブルから移民の停止が相次いだ結果、日本からの移民に白羽の矢が立ったのです。

笠戸丸移民、その過酷な現実

1908年、日本からの移民第一陣を乗せた「笠戸丸」が神戸港からブラジル・サントス港へと旅立ちました。

1府13県から集まった781名の契約移民たちは、神戸の移民収容所で身体検査や予防接種、ブラジルの言語・文化についての研修を受けたのち、白い服に身を包み、礼儀正しく現地に降り立ちます。

しかし待っていた現実は厳しいものでした。

契約した給与のごく一部しか支払われないなど、過酷な労働条件から逃亡者が相次ぐ農園もあったといいます。

それでも、その後もブラジルに定着し、農業や職人としてこつこつと働き続けた日系移民たちは、次第に現地社会からの信頼を勝ち取り、やがてブラジルは南米でも屈指の親日国家へと育っていきました。

資金難に苦しむ日本の移民事業を支えるために、サンパウロから無償で送られたコーヒー豆が振る舞われた「カフェ・パウリスタ」は、のちに日本における近代喫茶文化発祥の地となったという、歴史の面白い巡り合わせも紹介されました。

神戸という街の意味

移民船のほとんどが神戸港から出港したという事実は、生徒にとって特に身近に感じられたのではないでしょうか。

2008年の日伯交流100周年をはじめ、神戸は今も日本とブラジルの絆を象徴する街であり続けています。

歴史上の「移民」という出来事が、決して遠い過去の話ではなく、自分たちの暮らす地域と地続きにあるという実感を、生徒たちは得ることができました。

神戸大学国際人間科学部の紹介も

講座の後半では、小澤先生が所属する神戸大学国際人間科学部についても紹介がありました。

文系・理系の枠を越えた学び、少人数での対話型授業、そして学生自身がテーマを設定して海外・国内のフィールドに出向く「グローバル・スタディーズ・プログラム(GSP)」など、100を超える多様なプログラムを通じて実践的に学ぶ仕組みが紹介され、大学での学びの具体的なイメージを描く手助けとなりました。

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