学校ブログ

卒業生~母校は母港になる

No.29(59期)雲雀の記憶

2022/04/20

「将来は国語か理科の先生になりたいです」
 雲雀の面接試験でこう答え、「文系も理系もどちらも得意なんて素晴らしいね。」と褒めてくださった8 年も前のことを鮮明に覚えています。
 この時は今も大好きなかけがえのないテニス部の同期に出会えるとは想像もしていませんでした。
 私は後天性の難聴があり、高校時代は特に聞こえない自分の耳を受け入れられずに過ごしていたと感じています。
 高3の文化祭では、最初で最後だと思い接客にも挑戦しましたが、やはり聞き取りの悪い私には難しい仕事でした。クラスメートにも上手く力を貸してもらえず、悔しくて悔しくて、一人でトイレに閉じこもり涙を流していました。1 時間半ほど経ちトイレから出ると、たまたまテニス部の同期が3、4 人いました。明らかに目を腫らしている私の顔を見ても何も言わずに、「一緒に文化祭回ろうよ!」。この言葉に救われたことは、この先ずっと忘れません。
 思い返せば、部活で目眩が出て部室で休んでいた時も、「みゆきたが吐いちゃったら、受け止める担当するからね」「親に車を出してもらって家まで送るからね」。こういった言葉を掛けてくれ、自分が耳のことを受け入れられなくても、いつでも私以上に耳のことを受け入れ助けてくれたのは、テニス部同期だったと思います。
 この同期のみんなとは今でも定期的に会う仲で、自分らしくいる時間を作ってくれます。
 勉強もテニスも全力でみんなと取り組んだ時間はとても楽しく、またこの仲間との高校生活に戻りたいなと時々思い出します。
 大学入学時には、実際に聴覚障害を持つ方と出会おうと、デフキッズテニスをきっかけにデフテニス日本代表としての活動を始めました。何回聞き直しても同じように言い直してくれ、お互いに聴覚障害の苦しみを理解し合える仲間と出会い、この世界を求めていたのだと嬉しく勝手に涙が溢れてきました。私は手話が全く出来ませんでしたが、手話を使って何度も自分の思いを伝えてくれる子供たちと触れ合い、耳が聞こえないから手話をするのではない。伝えたい手段が手話なんだと、コミュニケーションの大切さを学ばせてもらいました。
 この子供たちの笑顔を守りたい。自分が感じてきた難聴のことを分かってもらえない苦しさを、この子供たちが感じることのない世界にしたい。デフテニスで結果を残し多くの人に聴覚障害のことを知ってもらえるようになりたい。その気持ちが日本人初の世界選手権での優勝を後押ししてくれたと思っています。入学当時は体育会と勉強との両立を出来るかとても不安で悩んでいましたが、やってみなければわからない。そう思って挑戦できたのは、雲雀でのやってみなはれ精神を自然と習慣づけられていたからではないかと思います。この精神が身に付いていたことは、私の人生を大きく変えてくれました。
 厳しい環境で勉強とテニスを両立出来たと思う反面、どちらかというとテニスの方に偏っていた大学生活になってしまったと自己評価している気持ちもあります。あと一年は研究室生活に没頭し、再び勉強の楽しさを思い出す時間にしたいと思っています。小さい頃から勉強もテニスも手放さずにやってきて良かったと家族や周りの方々の支えに感謝をするとともに、自分の納得する形であと一歩やりきれるように取り組みます。
 その後は、聴覚障害に限らず様々な障害やスポーツ、いろんな悩みや世の中に目を向け、一人でも多くの人が生きやすいと思える社会づくりに貢献していきたいと思います。
 雲雀は卒業してからも足を運ぶと温かく迎えてくださる先生方がいて、いつでも帰ることが出来る場所です。
 辛い時は寄り添って前を向く言葉をかけてくださり、嬉しい出来事があった時はすぐに連絡をくださり一緒に喜んでくださる雲雀の先生方。この場をお借りし感謝申し上げます。
 長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 喜多美結(2017 年卒59 期生)

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