卒業生~母校は母港になる
No.44(59期)卒業生サイトをご覧の皆様
2022/09/20
はじめまして。そしてこんにちは。
59期の卒業生の種村光太郎と申します。
私は現在、とある大学院で「障害学」、まあ簡単にいえば障害当事者からの視点で「障害」に関わる様々な事象について研究をしています。
さて、この度たまたま母校を訪問していた時、とある先生より「卒業生コラム書いてくれ!」と依頼されましたが、2つの理由で困ってしまいました。
それは、①自分よりこのコラムを書くことに適当な人材がいると感じていること、そして、②大学に入ってから、同級生に自分が何をしてきたのか伝えることを避けてきたからです。
ですが、
人生それぞれに、その人なりのエピソードがあるように、自分にも自分なりのエピソードがあり、「自分にしか書けない文章・伝えられる内容があるのではないか」と思うのです。(というか、こんな自分にコラムを依頼したということは、そういうことを期待しているに違いないと解釈しております(笑))
そしてこのコラムをきっかけとして、自分の同級生に、「自分はこんなことやってるよー」と、面倒がらずに生存報告ができたらいいのではないだろうか。
そんな思いから、今私はパソコンに向き合っているところです。お時間がある際に読んでいただければ幸いです。
さて、今回私がお話しする内容は、主に以下の二点です。
①「若者ケアラー」となった自分と、その人生
②今後自分は「何者」になっていくのか
それでは始めましょう。
①「若者ケアラー」となった自分と、その後の人生
まず、私は、現在高校を卒業して6年経ち、24歳となる「若者ケアラー」です(「ヤングケアラー」が主に18歳以下の人対象としている一方、「若者ケアラー」は18歳以上~30代の人を対象としています)。もしかしたら、このコラムをご覧の方にも、似たような状況の方がおられるかもしれません。
高校生時の私は水泳部に所属し、文武ともに何か秀でているわけでもなく、家族・先生・友人に迷惑をかけてばかりの人間でした。しかし、小さい時から漠然と「学校の先生になりたい」という目標を持っていたため、教員免許を取得でき、かつ、何となく興味を持っていた「手話」の発祥の土地である、京都のとある大学に入学しました。
大学では、もちろん教員になることを目標として勉強していたわけですが、大学3年生の時、私の祖父の病気等を理由として、家の家事や祖父の日常的な介助を「20歳の自分」が担わなければならなくなりました(最近でこそ社会問題となってきましたが、以前からこのような状況の方は多くいたと思います)。
当時の私は、家の事情を優先するために、今まで作ってきた友人関係をすべて絶ち、遊びの誘いを断ったり、サークル活動をやめたり、自分のやるべきことに集中する環境を整えようとしていました。それが自分なりの覚悟のつもりだったと思います。
しかし、教職の免許に関わる授業の課題も多く、また介助もうまく行かず、さらに相談する人も、ストレス発散の場もない私は、精神的にすっかり参ってしまいました。
同級生が楽しく遊んだりしている様子がうらやましく映ったり、社会人として仕事をしながら、今後も続く介助をこなせる未来を想像できなかったことも、精神的にしんどくなった原因だったような気もします。
そんな私は、何か答えを求めるわけでもなく、高校3年生次にお世話になった先生に連絡を取り、人生相談に行くことにしました。
当日先生とお会いし、話しているうちに、先生は「人生生き急がなくてもいいから、ゆっくり進んだらいいよ」「院生になってから、ゆっくり自分の人生を考えていったらいいよ」という言葉をかけてくだり、院進学を勧めてくださいました(その時私は職員室で大号泣をしており、周りから奇妙に映っただろうと思います)。
「研究がしたい」というようなポジティブな理由ではなく、「人生を考える猶予」としての院生生活。
これが私が院進学を決めた一番の理由です。
そして私は、いったん教員になるという目標を置いておいて、ずっと興味を持っていた「手話」や「ろう者(手話を用いる聴覚障害者の総称)」や「障害学」の分野について研究するために、院進学することとしました。
院進学をしてからはだいぶ気持ちも落ち着き、心身ともに少しずつ良い方に向かい始めた気がします。介助をしながら生きている自分のことを、少しずつ肯定的に捉えられるようになった気がします。そしてそれと同時に、自分のやりたいことが出来るようになり、今後「何者」になるのかについて考える時間が増えてきました。
②今後自分は「何者」になっていくのか
私は今後、「何者」になっていくのでしょうか。
院生生活が始まり2年経とうとしていますが、「何者」になるのか、「何者」になれるのか分からないまま、私は(文系ではとてつもなく珍しい)博士後期課程に進もうとしています。
これをご覧になっている皆さんは「博士後期課程まで進もうとしている種村の人生には、何か大きな夢があるんじゃないか?」とお考えになるかもしれません。
しかし、私はその問いに対して「特にない」と答えます。
ですが、大学院に進んでから、この先自分が大切にしていきたい言葉を見つけました。
それは「自分のできること・知っていることを増やす」です。
今私は、家で祖父の介助を続けながら、自分の研究の一環として「手話通訳士」資格習得を目指したり、知的障害者や肢体障害者・視覚障害者が地域で自立生活を営むため必要な「介助者」として働いています。
そして、「介助者」の視点から、学校では教わることのない世界を知ったり、自分の知識を増やすため本を読むことを楽しんでいます。
私は、今後も知らない世界にどんどん飛び込んで「できること・知っていること」を増やしていきたいと思っています。
同級生が今の自分を見たら、高校時代の種村のイメージと異なっているため、少々奇妙に見えるかもしれません。
ですが、私のこの生活は充実していて、なんだかんだ楽しいと思っています。
―――終わりに―――
こんな生活が充実し、楽しむことが出来ているのは雲雀丘学園の先生方とのお話がきっかけでした。そして、勉強がとてつもなく嫌いだった自分に親身に付き合い、色々なことを教えてくださった雲雀丘学園のお世話になった先生に、この場をお借りして改めて御礼申し上げます。
これからも、私は知識を増していきながら、自分の人生を、自分のペースで歩んでいきたいと思います。
そして、迷ったときは先生方に相談しに行きたいと思います。その時は、よろしくお願いします。
ここまで、だらだらと書き連ねて長くなりました。読んでくださった皆さま、最後まで読んでいただきありがとうございました。
私は、何か模範となるような、立派な卒業生ではないと思っていますが、このコラムを見ている方が何かをチャレンジするきっかけとなるような、そして「雲雀丘学園の卒業生にはこんな人間もいるんだ」ということを知っていただける機会となることを願って、項を閉じたいと思います。
それでは、またどこかでお会いしましょう。
種村光太郎(2017年卒、59期)
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