学校ブログ

卒業生~母校は母港になる

No.66(56期)失敗と挫折から学んだこと

2023/04/11

2014年卒業56期の松崎と申します。

「母校は母港になる」の卒業生たちの記事を見てみると華々しいご活躍に驚きと誇りを感じています。

この卒業生さんは学生時代どんな方だったんだろうと思わずにいられません。

ちなみに私は在学中、真面目そうな外見に反して健康優良成績不良生でした。

しかも実は社会人4年目の終わりにしてなんとほぼ無一文です。

上手くいってない方の処方箋になってほしいという思いで本稿を記します。 


卒業後の私の経歴は以下の通りです。 

①立命館大学国際関係学部(開発経済学・環境経済学を専攻)

・パリ協定やSDGsの策定に強い影響を与えた国際ユース組織の日本支部に所属

・友人と再生可能エネルギーの投資会社を設立

②在学中にAppleJapan合同会社で特別な契約社員として入社(営業や店舗運営)

・勤続年数三年のうち六本木ヒルズでの勤務時期もあり

③アジア最大の貿易企業に入社(配属先は山口県)

・中国のコンテナ船の国営船会社とスウェーデンの民間船会社への出向を経験

④静岡県の海の近くの建設コンサルに転職

・文系出身の建築士を目指してます

 

上記の事実に嘘はありませんが、失敗と挫折と涙が抜けています。

私の人生はこんな綺麗じゃないです。

 

まずは中学に在校時の私は、部活と勉強と家庭環境の全てが嫌でした。

この頃の私は模試で学年最下位を取ったりして、担任に呼び出されては溜息を吐かれていました。

ある時、学校に国際環境NPO法人の方が講演にお越しになられました。

私は講演を聴いている時ひらめきました。「NPOの活動に私も参加することで部活を休んだり大人達の私に対する敵意を回避できるんじゃないか」しめしめと考えた私は、講演直後のNPO代表に「あなた方の素晴らしい活動に参加させて下さい」と図々しく頼み込みました。

所謂、駆け込みNPOです。お寺も非営利組織なので、大きくニュアンスは変わりません。この時、逃げ込んだNPOでの日々を契機に、生涯を通じて国際交流・環境活動・まちづくりをすることになりました。

そして、数年後の大学受験の時期を迎えても成績はマリアナ海溝よりも深くて暗いところを彷徨っていたのですが、AO入試という魔法の浮力でぷかぷかと浮上して気付いた頃には立命館大学衣笠キャンパスに上洛していました。

実は結局、勉強はできない子のまま高校を卒業しているのです。

 

そして大学入学後、AO入試で磨いた口頭テクでAppleに入社しました。

とある大きな家電量販店の店舗の責任者となりました。お給料はとんでもなく良かったのですが、学生にとってはハードな業務内容でした。結論からいうと、前・後任者に比べると営業成績だけでなく顧客や上司との関係性も悪かったようです。

プライベートでうまくいかなかったある時「でも俺Apple社員だし」と虎の威を借る狐状態に一瞬なった私は目も当てられないくらいダサかったです。「自分は凄い」とわざわざ自慢する人は自信がない可哀想な人です。

Appleに三年もいて勉強になったことは本当に数知れませんが、結局私は何も成し遂げられませんでした。

 

続いて、大学時代の環境活動についてですが、私はその組織に在籍していただけです。身近な後輩が、東京五輪で使う木材について東京都やIOCと議論を戦わせていた頃、私は地中海あたりでチルしていました。現代版うさぎと亀です。当時の私はお金も時間もあったので海外旅行に行きまくってました。

ちなみに私は大学2年の夏頃に友人と一緒に学生電力会社を立ち上げますが、ちっとも営業活動がうまくいかず就職活動で忙しい時期を迎えて自然に解散を余儀なくされました。

その友人は京大の院に進み、環境経済学を一層学ぶこととなりました。一方、私は「みんなが院や研究所に進むなら自分は民間企業を内側から変える」と言い訳をして普通に民間企業に入社しました。

そして、何も変えることができないまま2年半という光の早さで会社を辞職することとなります。疾きこと風の如しです。

 

社会人となった私は、アジアで最大の貿易会社に入社することができました。グローバル企業の若手社員の一人にすぎないくせに私は、会社や業界を変えられると考えていたのかもしれません。

しかし、それはガトーショコラくらい甘い考えでした。

新しいビジネスの提案を偉い人に直談判する私を、一部の偉い人は特別扱いしました。「この社内政治をも恐れない若武者を、大嫌いな〇〇部長にプレゼントしちゃお♡」そんなノリかどうかわかりませんが、何十年も私の初任地の山口県から県外に異動がなかった伝統を私は入社わずか2年で破壊しました。

私は、それほどの破壊兵器だったかもしれません。そして、国内最強の営業部隊と謳われていた横浜に異動します。

プライベートの私は、山口県という勤務地のせいで、友人たちと疎遠になり、大学2年生の時から付き合っていた彼女とも別れ、Apple契約社員時代のような高給からの転落ぶりに辛酸を舐め、田舎のライフスタイルに適応できず「失っただけじゃ嫌だ!」と副業でブックカフェ設立の準備を進めていました。

商工会議所や銀行とも順調に話が進みいよいよ物件探しをしていた矢先に、先述の異例の人事の知らせを受け、私は膝から崩れ落ちました。驚くほどの低賃金労働のため、山口県時代は貯金が0円でした。

異動後は、なんと半年で100万円貯まりましたが、むしろ都会の社員達に対して不公平感や田舎の社員に対する罪悪感などに嫌気が差し、私はすぐに会社を辞めました。

再就職するまでは大阪に戻って、店舗を持たないコーヒー屋さんをしたり日本酒交流会を主催したりしてギリギリ生計を立てながら、職業訓練校という場所で建築設計を1年学びました。修了後の今年7月には二級建築士試験を受験します。職業訓練校修了後の再就職先は、私が日本全国旅をして住みたいなと思った静岡市に事務所を構える建設コンサルです。

今後は、災害や紛争により荒廃した国・地域、将来懸念される南海トラフ発生後の日本のために何かできるような都市開発のノウハウや設計技術を数年がかりで身につけようと思っています。

 

こんな私を皆さんはどう思うでしょうか?せっかく雲雀に行って、せっかく立命館に行って、何してんねんと思いますか?自分ならもっとうまくやると思いますか?十分楽しそうやんと思いますか?

 

今後ITやAIの発達で価値を失う仕事や価値を増す仕事が出てきます。それに、私はまだ何十年も仕事をすると思います、良くも悪くも。みなさんもやりたいと思ったことを見つけたら飛び込んでください。

余談ですが、ここ数年で社会で流行ったものは、驚くことにほとんど私や周囲の友達が十代の頃に好きだったことや熱心に取り組んでいたことでした。しかもカルチャーだけでなく、十代の社会経済的な知識や感覚も老齢の知識人の固定観念より正しいことが多いです。

なんか間違ってる気がする大人の言う事を聞いて「ほら間違ってた」と責任転嫁をしたい状況になっても大人達は責任を取ってくれません。馬鹿にされようが笑われようが決して自分を疑わないでください。人と違う道で生きれば当然遅咲きになることがあるかも知れませんが、絶対大丈夫です。

最後になりますが、「やっぱ社会って大変そうやな」「でもまぁなんとかなりそうやな」と伝われば幸いです。二十後半くらいなら全っ然やり直しきくんです。だから大学受験とか就職活動とか失敗しても「でも27歳無一文の卒業生おったなぁ」って立ち上がってください。

ちなみに私の人生は不幸な人生だと思いますか?失敗や誤りはあった人生ですが、これを成功や社会貢献に繋げたいと思えば楽しいし、私は今幸せです。みんなも幸せになってください。

(写真左は、大阪で簡易リフォームを受ける私。右は、地中海でチルする学生時代の私です)

(2014年卒・56期)松﨑 城望博(まつざき きみひろ)

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