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親孝行・やってみなはれ

2017年12月22日

父母が頭かきなで

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「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」

                 丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ)

 万葉集の防人歌です。稲麻呂は駿河国の人で天平勝宝七年(755年)、防人として筑紫(福岡)に派遣されました。駿河からの旅立ちの時、父母が別れを惜しんで頭(かしら)を撫でてひたすら無事を祈ってくれたことを、遠く離れた筑紫の地で思い出すという歌です。頭を撫でるのは愛情表現でもありますが、無事でいてくれ、幸いであれという当時のまじない的な行為でもあったようです。現地での生活はもちろん、筑紫までの旅も二ヶ月もかかるほどの過酷さを思いやり、我が子の無事を祈る両親の思いがあふれている行為です。「幸くあれて」(さくあれて)、「『言葉』ぜ」(『けとば』ぜ)という東国の方言そのままの表現にも素朴な真情があふれていて胸をうたれます。



20171222-1.jpg そしてこの歌からは、稲麻呂が過酷な防人の生活の中で心の支えとしていたのが、自分の無事と帰還をひたすら祈ってくれる父母の存在であることがうかがえます。自分を待っている人、必要としてくれる人がいる、自分の身体は自分だけのものではないという思いが筑紫での生活の支えであったのです。私が教えている高校現代文では、「アイデンティティ」ともいいますが、稲麻呂の、この世界での自分の居場所、自分という存在の意味や価値の実感を支えてくれているのが父母であり、そういうありがたい存在が頭をなでてくれたという感覚が身体に刻み込まれているということなのでしょう。

 以前、本学園ブログに当時の松下堅一郎常務理事が紹介された髙倉健さんのエピソードを思い出します。日経電子版に連載された「高倉健のダイレクトメッセージ」の中にある話です。「映画のポスターを見て母は『あの子はまた、あかぎれを切らしとる』と、踵(かかと)からわずかにのぞいた肌色の絆創膏(ばんそうこう)を見つけたのは、世界中でたったひとり、母だけでした」。自分を俳優、映画スターとして見ているのではなく、ひとりの人間、いや、かけがえのない息子として見てくれる人がいるという実感、華やかではあるが移ろいやすい銀幕の世界とは離れて、裸の自分を見てくれている人がいるという安心感、それらが高倉健という名優を支えていたことがわかります。

 このふたつの話で思うことは、直接的には、子は親に支えられているということですが、実は、その支えているはずの子に、親もまた支えられているということです。何ものには替えがたい分身としての存在があり、それを見守らずにはいられない、支えずにはいられないという親としての思いが「アイデンティティ」となっていることがわかります。確かに、親子の関係がいつも順調というわけではなく、時にはねじれてしまう時もあるかもしれません。しかし、その根底には疑いようもない、なくてはならない深いつながりがあることだけは確かだと思います。そしてそれが私たちの生きる力の大もと、源になっているのだと思います。

 今年の親孝行の日(創立記念日)の時に学園講堂で中学1、2年生にこのような話をしました。

あなたたちの運動会やピアノやなにかの発表会の時の写真を見てください。そこには懸命に走っている、またはピアノの前で緊張している自分の姿、あなたたちが主人公の姿が写っているだけで、お父さんやお母さんは写っていません。なぜならその写真を撮ったのはご両親だからです。ということは、その写真の後ろにはあなたたちを、あなたたちの成長を見守っている親御さんがいらっしゃるということなのです。そして、その写真に写っていない、見えない存在のことを考えるのがこの親孝行の日のひとつの目的なのです。


 このようなことを自らのことを振り返り、また自省を込めて話した次第です。

 (中学校・高等学校 指導主事 守本進)