卒業生~母校は母港になる
No.105(50期)母港への恩返しとして
2024/11/15
2005年の4月。
私が入った高校1年D組は、ほとんど全員が初対面同士、男子が9人しかいない、高入生のクラスでした。当時、まだ名簿は男女が分けられていて、私「ひらの」は、人生で初めて、最後の出席番号「9」が与えられました。
おずおずと、自然発生的に始まった自己紹介。
委員長を決めるためのあみだくじ。(見事にあたりを引いたのだが)
水泳部への勧誘。(どこで元水泳部という情報が漏れたのだろうか)
週2回7,8限目の授業がある(注 現在、8限はありません)ことが分かって震えたこと。
そんな驚きとせわしなさとともに、雲雀丘学園高校での高校生活が始まりました。
私は、現在、県立高校の教員になって、11年目を迎えました。
3年前に長女が産まれ、育児に仕事と充実した生活を過ごしています。
顧問をする水泳部には今年、3年ぶりに部員が入ってきました。
この寄稿のご依頼を受けた、2024年の8月。
水泳大会の引率で訪れたプールで、偶然、雲雀丘学園高校の応援を耳にしました。
会場の緊張感や、懐かしい応援の熱気で、ふと高校時代を思い出していたときでした。
自分もこの場にいたんだなぁ。こんな時代があったんだなぁ。
3年間の高校生活の中心にあったのは、部活動でした。
先輩方には、厳しさと楽しさの両方を教えてもらいました。
後輩たちには、責任感とやりがいの両方を与えてもらいました。
そして、同級生。
この学年はたった5人の部員でしたが、かけがえのない仲間です。
あのとき、自然と学んだのは、
水泳は個人競技だけど、水泳部はチームなんだと。
「苦しいときからが勝負だということ」
「その苦しいときこそ笑顔を忘れないこと」
このことは、その後、今に至るまで、自分の土台にあって変わらないものです。
寄稿のご依頼をお受けしたものの…
「『母校』は『母港』になる」というタイトルを見て、怖じ気づく自分がいました。
高校を卒業して、母校(母港)を訪ねたことは…1回あったかな。
教員採用試験に合格したとき、その報告くらい。2014年のこと
校舎がきれいになっていてうらやましいなぁ。と思った。
先生も何人か、変わらずにいて。
そういえば、雲雀には本当にいろんな先生がいました。
進路に悩んだとき、そっと声をかけてくれた担任の先生。
厳しくも、常に背中を押してくれた顧問の先生。
私が、数学の教員を志すきっかけになった先生。
当時のことを思うと、自分がどれほど、人に、環境に、恵まれていたなぁと。
そして、それに気づかずに過ごしてきたなぁと、思い知ります。
先生や友達、先輩や後輩。
雲雀丘学園高校に集まる人たちは、朗らかで、優しくて、
「学校に行く意味」などと斜に構えることなく、ただただ楽しい時間を過ごしました。
部活のない日の放課後、教室で友達とトランプをしていて怒られたり。
授業中、先生の何気ない一言がツボにはまり、笑いが止まらなくなったり。
夏休みの部活の休憩中に、後輩の人生相談に乗ったり。
学校という現場で仕事をしていると、いろんな生徒と出会います。
さまざまな理由で、学校に通うことがままならない生徒
学校の方針や環境と合わず、不登校になってしまった生徒。
自分が恵まれた高校生活を送っていたことが、今はよくわかります。
少しでも目の前の生徒が成長できるよう、
情熱を持ち、経験を活かし、学び続けることが、
自分を送り出してくれた母港(母校)への恩返しになればなと思います。
平野 俊樹(2008年卒、50期)
学校ブログ
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