学校ブログ

校長通信

創立記念日① 第52号

2025/09/25

学校経営

10月1日の創立記念日を前に9月27日に親孝行講話を行います。ともない学園の歴史について記します。

学校創設趣意書 昭和24年5月
  ・・・敗戦後の日本の現状を見る時道義は頽廃し文化低調、経済は不調にして思想険悪、日暮れて道通しの感慨ではありませんか。この日本の新しい道義を確立し文化を進め社会を思想の面に政治の面に経済の面に整え高め民主社会の楽園を招来するのは一にかかって日々に伸びゆく若き世代にあると思われます。・・・完成の暁にはかの委託生等をも広く吸収し独立の小学校として更に接続の中学校をも作り一大綜合雲雀丘学園にして行きたいとの高遠なる希望をもって居ります。・・・

委員長に鳥井信治郞(のちの理事長)、副委員長に木本勇二氏、田岡佐平氏には著名な実業家が続き、委員に26名の方の名前、顧問に川辺郡西谷村村長、大阪第二師範学校校長、大阪第二師範学校男子部附属小学校主事の3名の方の名前が連なっています。現在の大阪教育大学池田校舎との関係もうかがえます。

記録を見ますと、地区住民による学校設立の声があり、大阪第二師範学校の板倉校長に相談しました。学校創設委員会の委員長に鳥井信治郎氏にお願いしようと全員の総意でありましたが、誰がお願いに行くのか自信がなかったようです。「まず全員で150万円集めなさい。 それが実現すれば委員長を引き受けよう」と言われ、その趣旨は「この学校は地域の全員が力を合わせてつくるのだ」とのことでした。5月に学校創設趣意書起草され、募金活動開始目標額200万円の募金活動が始まりました。9月に募金状況135万円を報告すると、不足金は黙って出されました。鳥井氏が理事長に就任していただけたことは大きなターニングポントだったように思います。
 10月1日に開園記念バザー→が行われ、その日を学園創立記念日としました。昭和28年中学開校時には、隣接の土地を理事長より寄付していただき、鉄筋校舎を計画したそうです。「持ち寄り貧乏学校」と言われ厳しい経営でしたが、高校開設の昭和31年には学園グランドの購入、34年2月の高校の第一期生卒業までの10年は苦労の連続で、資金の不足時には理事長が黙って追加補助をしてくださったことが何回かあったそうです。

戦後まもなく、何もないところに「公立か私立か」から始まり、住民の力で学校を設立していくことは苦労の連続だったと思います。36人からスタートした学校は趣意書の通り2700人を超える総合学園になり、貧乏学校はハイレベルな教育を行う立派な校舎や設備を持つまでになりました。そこには言い表せない多くの方の尽力、お力添えがありました。創立記念日にはそのお気持ちを振り返り、感謝の気持ちで振り返りたいと思います。

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