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常務理事便り
2017年09月29日
「信治郎、母を想う」
明後日10月1日は学園の創立記念日、学園はこの日を「親孝行の日」として幼稚園、小学校、中高等学校それぞれが工夫して親孝行の取り組みをします。学園の創立者、鳥井信治郎は「親孝行な人はどんなことでも立派にできます」と言い、これが建学の精神になっています。
信治郎がなぜ「親孝行」が人間最高の道だというのか、それには母親の影響が極めて大きいと思います。小説「美酒一代」(杉森久英著)に子供のころの母親との出来事が書かれていますので抜粋します。
ある時彼女は信治郎を連れて天満天神へ参詣した。この天神の社前の橋の上には、たくさんの乞食が並んで参詣の男女に喜捨を乞うている。彼らは一銭の金でも与えられると、大きな声で、歌でも歌うように礼を言い、頭を地につけて、何度もおじぎをする。いかにも、大袈裟で、芝居気たっぷりだけれど、小さな子供の目には、面白い見世物であった。信治郎は母に金をねだると、乞食たちに与えて、彼らがいかに感謝するかを見ようと、後ろを振り返るのだが、母は必ず彼の手を荒々しく引いて決して振り返ることを許さなかった。普段はやさしい母だがその時だけは、人が変わったようにきつい表情になる。
信治郎はそのころは3才か4才の頃だったので母がなぜ振り返らさないかよくわからない。許さない母が不審でさえあった。母親のこの態度の中に、人への施しは感謝を期待してはいけないという厳粛な教訓が含まれていることに気が付いたのは彼が相当大きくなって世路の艱難を経たのちだった。信治郎は後年、多くの人に奨学資金の提供をするが、出所を明かさなかった。またサントリーはときに「陰徳」という言葉を使うことがありますが、母から信治郎に伝わった精神が企業の底流に絶えることなく流れているのかもしれません。
母とはこんなこともありました(信治郎自叙伝から)。「私が若いころ病気にかかって医者から見放されたことがあった。何日も何日も非常な苦しみが続き、自分でももう駄目だとおもったほどだった。ところが信心深い母親は何とか神仏の加護によって私の命を助けたいと一心不乱に祈ってくださった。そのお陰か危ない私の命が助かり、すっかり病気も治って医者も驚いたことがある。」
さらに自叙伝はつづく。「人と話し合っていて、母親の話が出ると、つい涙が出て声を詰まらせてしまう私を、人は何と見るであろう。しかし私にとってこれは誠に自然のことである。私の若い時、父親の知り合いだった小西商店に丁稚にやられたが、母親の涙に送られていったものである。家は店のすぐ近くではあったが夜になると母を思うて枕を濡らしたものである。寂しかったのだ。平凡な私の母親を、今になっても本当に偉い人だったと私が思うのは、それほど深い母親の愛情が今も私の胸に生きているからであろう。母親にとってその愛情こそ生命であった。その意味で母親は世界にまたとない命の大恩人であった。女は弱し、されど母は強しという。子への愛情に生きる母は、この世の中で最も強く、またもっとも尊いのではないかと私は思うのである。」
親孝行の日を迎え、学園の創立者でありサントリーの創業者でもある鳥井信治郎の母への思いを伝記小説や自叙伝から尋ねてみました。(2017.9.29)