三たび慶応義塾について
前回、私は「大学はむしろ原理原則を勉強するところであり、基礎研究を行うところだと思います」と書きました。図らずも、「虚学のすすめ」を書いたことになります。しかし、慶応義塾のことを忘れていたわけではありません。今回のシリーズは慶応義塾で始めましたから、書きながら「実学」の二字が頭から離れませんでした。それで、改めて考えてみることにしました。
先日、「昔々読んだ彼(福沢諭吉)の著作の中で、腑に落ちて、今でも残っているもののうち、慶応義塾の精神となっているものは、「独立自尊」ということと「実学」の二つです」と書きました。このうち、「独立自尊」については少し触れました。残るは「実学」についてです。
「実学」の反対概念は「虚学」でしょう。しかし、この「虚学」というのは、どうも嫌な響きです。念のため、『広辞苑』で引いてみたが、果たして載っていません。やはり余程幅の利かない言葉なのでしょう。「虚実皮膜」というのは近松門左衛門の演劇論を代表する概念です。ちゃんと『広辞苑』には載っています。「虚数」というのも数学上の立派な概念です。しかし、どうもこの「虚学」というのは体裁が悪い。それはそうでしょう。この「虚学」という概念を立てれば、さしづめ、受験勉強などは虚学の最たるものということになるでしょう。
私は「実学」に異を立てている訳ではありません。役に立つ学問が悪いわけがありません。ただ、私は大学は原理原則を学び、研究するのが本筋であろうと思うだけです。先日の連携講座の時、土屋先生も「実学」の紹介の際に、「自分は必ずしも大学は実学のみを目指すべきものではなく、別の意見をもっていないわけではないが云々」というような意味のことを言われていました。(こういうことを慶応義塾の先生が公言できるのも、SFCの自由でのびのびした雰囲気がよく伝わってきます。)
しかし、よくよく考えてみると、この「実学」というものが分からない。この定義から固めてみようと思って、インターネットで検索してみましたが、雑駁で(ないかも知れないが、玉石混淆、数が多すぎて)要領を得ない。今、問題にしているのは「慶応義塾の『実学』の精神」だから、諭吉の真意は、やはり、ご本尊の本で確かめる他はありません。そこで、彼の代表作『学問ノススメ』で確かめてみることにしました。
書庫の中で汗だくになり、やっと探し当てて開いてみました。途端に、黴臭い匂いと共にその文体や語彙から旧幕から明治にかけての、古臭い匂いも漂ってきます。「実学」については初編にすぐ出てきます。「・・・学問とは、ただむづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上の実なき文学をいふにあらず。・・・古来世間の儒者・和学者などの申すやう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて、親心に心配する者あり。無理からぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして、日用の間に合はぬ証拠なり。されば今、かかる実なき学問はまづ次にし、もっぱら勤べきは、人間普通日用に近き実学なり・・・」
これで、彼の「実学」に寄せている意味が大体呑み込めました。明治以前、「学問」といえば、幕府の御用学問の朱子学をはじめとする、儒学のことを意味していたのでした。ですから明治初年辺りに「漢学者」とか「道学者先生」といえば、「迂闊」の代名詞として、あるいは、諭吉の「世帯持ちの上手」でないものの代表のように云われていました。漱石の小説(今は確かめている暇はありませんが)の中に『菜根譚』が好きで、座右の銘のように使っている男が出てきて、それを軽蔑風に描いていますが、当時の「空気」をよく伝えているように思います。そう云えば、漱石は慶応3年生まれです。
諭吉が目の敵にしたのはどうやら、儒学とか文学のようです。本当は彼の著作を4,5冊熟読しなければ云えないことで、乱暴な話ですが、今、引用した部分を敷衍していけば、諭吉の「実学」とは SCIENCE ということになります。科学といえば、現在、自然科学、社会科学、果ては人文科学と科学の花盛りです。従って、考えようによっては、現代の大学の風潮は諭吉が作ったということになりかねません。
ところで、SFCにおける実学というのは趣が違うようです。一般に実学といった場合、実社会に従属した形で、その働き手の養成をめざすといった意味合いがある。ところが、土屋先生の話を聞いていると、どうも違うらしいのです。働き手の養成をめざすといった下請的、従属的、消極的な行き方ではなく、むしろ、指導的立場に立とうとしている向きがある。現に、IT産業の起業家たち、指導者たちを多く輩出しているようで、大変な鼻息です。
ところで、受験生諸君にとって、実学、虚学の議論などはどうでもいいことかもしれません。しかし、一度立ち止まって考えるのも悪くないテーマだと思います。
「実学」のうち、諸君の興味のあるのは、絵に描いたような実学の学校である専門学校でしょう。専門学校は、現実の社会に密着して、現在行われている技術を習得しようとするものです。前回、「最近では技術革新が加速したため、新技術の寿命は短くなり、せいぜい10年といわれています」と、書きました。このことは、例えば、テレビ、パソコン、携帯電話などの身近の電気製品の変化の激しさをみれば分かると思います。従って、昔のように、一度、専門学校で見につけた技術で、一生食えるわけではありません。ただ、専門学校は、一口では云えないくらい、いろいろあって、すべてにこれが当てはまるものではありません。たとえば、ファッションは「流行」の意味ですから、もともと変化を前提にしたものです。ですから、専門学校の選択に当たっては十分検討して下さい。
「ダブルスクール」という手もあります。大学で勉強する一方、専門学校にも通うという方法です。お金も二重にかかる上、体力を要りますが、タフでリッチな人には向いているかもしれません。
文責:山本正彦