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2012年06月04日

トライアンドエラー

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 「try and error」は正しい英語ではなく、正しくは「trial and error」が正しい言い方だそうです。「トライアルアンドエラー」が、日本語でいうところの「試行錯誤」という意味になります。
 中学高校生の時代は、「興味のあることに積極的に取り組むことが大切で、失敗を恐れないでやりなさい」といったりするときによく使われます。正しい英語表現ではないにしても、意味が通じるようになっていますし、日本語として定着しているように思います。
 本校の初代理事長鳥井信治郎氏の「やってみなはれ。」という有名なフレーズがあります。私たちも「やってみなはれ精神」として大切にしていますが、青少年にとっても非常に教育的で、示唆にとんだ言葉だと思います。これはと思ったことに、失敗を恐れず取り組んでみる。その中で新しい発見や物事の奥深さなどに気づき、さらに学びが深まっていく。失敗しても、どこに問題があり、どうすればうまくいくのかを考えられるようになる。学びの本質をついています。学習面だけでなく、大人へと成長していく過程でも大変重要なことです。友達同士のチョットしたトラブルや意見の違いから、ある時はエスカレートして喧嘩になることもあると思います。友達とのトラブルを恐れて、自分から引いてしまうということもあるかもしれませんが、実は、自分と他人の違いを探し、自分を見つけていく大変重要な過程で、これらを経験し、乗り越えて一人前の大人に成長していきます。
 「やりなさい。」ではなく「やってみなはれ。」あくまで「自分が選んでやる」、「自分の意志でやる」ことを明確にしたすばらしい名言です。

2012年02月24日

不況克服の心得十カ条

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  最近の世界各国の経済情勢を見ると、すべての地域で成長率に陰りが出てきており、不況と言える状況に陥っています。このような環境下にあっては、企業にとっても個人にとっても行動が萎縮しがちになってしまいます。〝ジャンプするためには一度しゃがまなければならない〟という言葉がありますが、このような時には右往左往するのではなく次なる飛躍を期して行動することが大切ではないかと思います。経営の神様と言われた松下幸之助氏は、ポイントを突いた短い言葉で『不況克服の心得十カ条』を記しています。以前にも紹介したかもしれませんが、これらは実に味わい深い言葉ですので、再度、掲載します。
  
    【不況克服の心得十カ条】
   第一条 「不況またよし」と考える
   第二条 原点に返って、志を堅持する
   第三条 再点検して、自らの力を正しくつかむ
   第四条 不退転の覚悟で取り組む
   第五条 旧来の慣習、慣行、常識を打ち破る
   第六条 時には一服して待つ
   第七条 人材育成に力を注ぐ
   第八条 「責任は我にあり」の自覚を
   第九条 打てば響く組織づくりを進める
   第十条 日頃からなすべきをなしておく

  この十か条をよく読み直してみると、単に不況時のみだけではなく、好況、不況を問わず、常に心がけておかなくてはならないことばかりです。これは最後(第十条)にあるように〝日頃からなすべきことをなしておく〟ということに集約されています。現在、本校では来年度に向けての経営計画づくりの検討に入っていますが、今一度、これらをしっかりと心に留めておきたいと思っています。

2012年01月03日

青春とは心の若さ~サミュエル・ウルマンの言葉

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  新年にあたって、それぞれ自分なりに今年の目標を定めた人も多いと思います。私も年頭にあたって、新聞やこれまで機会ある毎に書き留めてきたデータ・カードを読み返し、この一年をどのように過ごしていきたいかを考えることにしています。その中にサミュエル・ウルマンの青春に関する詩(作山宗久氏 訳)がありましたので、以下紹介します。
  
  青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を云う。
  薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
  たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
  ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
  年を重ねただけで人は老いない理想を失うとき初めて老いる。
  歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
  苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

  60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に惹かれる心、
  おさなごのような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。
  君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
  人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感をうける限り君は若い。

  霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ悲嘆の氷に閉ざされるとき、
  20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
  80歳であろうと人は青春にして已む。    
        ──サミュエル・ウルマン
  
  また、松下幸之助氏も〝青春〟という言葉を好んで色紙に書かれていました。そして、次のような言葉を残されています。
  
  青春とは心の若さである。
  信念と希望にあふれ、勇気にみちて、
  日に新たな活動を続けるかぎり、
  青春は永遠にその人のものである。

  一年経てば必ず一つ歳をとります。我々の年齢になると、健康には留意していても、年々確実に体力は衰えてきていますので、今まで以上に気力を充実させ、いつまでも若々しく生き抜きたいものです。

2011年12月17日

不況またよし

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  今年は、3月に東日本大震災が発生し、多数の尊い人命や貴重な財産の喪失等大きな被害をもたらしました。また、この地震に伴う原発事故やサプライチェーンの分断によって、日本経済は大きな打撃を受けることになりました。その後の懸命な努力によって、メーカーの生産体制が整い、増産を始めようとした矢先に、今度はタイでの大洪水が発生し、再び生産活動がストップするということになりました。更に、EUにおける財政・金融問題が加わり、企業経営は軒並み今期の業績の下方修正を余儀なくされています。最近の景況感を見ても景気が悪化するという見方が多くなってきています。まさに、経済の先行きはますます不透明な状況になってきています。
  ところで、松下幸之助氏の言葉に『好況よし、不況またよし』という言葉があります。常識的には、誰もが不況は嫌だ、避けたいということになると思いますが、どうして不況もよいということになるのでしょうか。この意味は、〝不況においては、好況の時には見えなかった部分が見えてくるため、目の前の事象に踊らされることなく、長期的な視点から経営を見直すことができるということです。言い換えると、過去の延長線上で取り組んできた活動内容を抜本的に見直すチャンスになるということになります。
  この経済情勢の変化は、当然のことながら私学経営にも影響を与えることになることが予想されます。
  今年も残り少なくなってきましたが、新しい年を迎えるにあたって、今一度、原点に戻って、すべての活動を見直していきたいと思っています。

2011年05月02日

血の滲むような努力~イチロー選手の偉業

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(http://www.s-hoshino.com/f_photo/reja/re_017.htmlより)


  今年は大震災の影響で、プロ野球の開幕は大幅に遅れることになりましたが、選手達は被災された方に何とか勇気を与えたいという気持で、例年以上に気合を込めて試合に臨んでいるようです。毎年、多くの新人がプロ野球の世界に飛び込んできますが、大きく期待されながら活躍できずにユニフォームを脱ぐ者がいる一方で、大して注目されなかったのにもかかわらず大活躍している者もいます。人間ですから当然のことながら好不調の波がありますが、常に好調を持続していくためには「日々の地道な努力」が不可欠です。
   「今、プロ野球界で最も活躍している人は誰ですか」という質問をすれば、ほとんどの人がイチロー選手の名をあげるのではないかと思います。イチローは昨年200安打を記録し、自らの記録を更新すると共に100年以上の歴史を持つ大リーグにおいて「10年連続」という回数でピート・ローズに並びました。この試合の後、イチローは「200安打が簡単ではないことは僕が一番知っている」と安堵(あんど)感を漂わせながら答えていましたが、単に1年間だけではなく10年間続けるということは日々の体調管理が万全でなければ達成できないことです。
  また、今シーズン、イチロー選手は37歳となりましたが、4月が終了した時点で、チーム唯一の全試合に出場、月間の自己タイとなる39安打と、14回の複数安打、10盗塁を記録し、今年の活躍も大いに期待できます。イチロー選手の偉大さは、 以前、マリナーズで同僚であった阪神タイガースの城島選手の「記録の更新は凄いが、これを達成するための努力はもっと凄い」という言葉に端的に表わされているように感じます。
  このように社会で注目を集めている人は誰も見ていないところで、血の滲むような努力を継続しているのです。私達は活躍している華やかな姿だけを見がちですが、その陰に隠れた努力を見逃してはいけないと思います。

2011年04月27日

ダム式経営の大切さ

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  本日、4月27日は松下幸之助氏の命日にあたります。松下氏が亡くなったのは平成元年(1989年)ですから、既に22年が経過したことになります。私はこれまで数々の優れた経営者の思想や行動、エピソード等を自分なりに書き留めていますが、松下氏と現在京都セラミックの名誉会長である稲盛和夫氏については特に関心を持っています。今日はこの二人の初めての出会いについてのエピソードを紹介します。
  それは、稲盛氏が京セラを創業して間もない頃のことです。松下幸之助氏が京都で『ダム式経営」というテーマでの講演をされました。この講演の中で、松下氏は会社を経営するにあたって大切なことはダムを作り、余裕のある時に日々水を蓄えるように、人材、資金、技術等を蓄えておき、これを使って川がいつも一定の水量で流れているように事業を進めていかなければならないと説かれました。そして、講演の後に質疑応答があり、聴衆の一人が「どのようにすればそのような余裕のあるダム式経営ができるのですか?」という質問をしました。
  松下氏は、「その答えは私も知りません。しかし、そのような経営が必要だと思わなければできませんな。」と答えました。これを聞いて聴衆の多くは笑いましたが、稲盛氏はこの言葉に「そうだ。まずダムを作ろうと思う気持ちがなければ絶対にダムはできない。」と深く心を動かされたと語っておられます。そして、これを機会にダムを作ろうと決意し、ついに京セラを世界に冠たるセラミック企業に育て上げることに成功されました。同じ物事をその場にいた人々が見聞きしていたはずなのに、稲盛氏だけがまったく逆の反応をしていたということです。
  二人の共通点は何としても高い目標を達成するという〝ゆるぎない志〟ですが、何事を行なうにもこの志が不可欠であると感じています。

2011年04月15日

日本の偉人~二宮尊徳④

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  これまで二宮尊徳について3回にわたって紹介してきましたが、これが最終回です。

  尊徳は一生のうちに数々の事業を行ない、これらをことごとく成功に導きましたが、彼の事業の進め方には共通点があったようです。その共通点は〝まず問題の地方の中から最も貧しい村を選び、すべての力をそこに集中するというやり方です。次に、その村の復興のためにその村の中で最悪人と言われている者を改心させることに注力しました。つまり、誰もが最も難しいと思っていることに果敢に挑戦したのです。これがクリアできると、後は自然に良い方に向かう力が働いて、復興に成功することになったようです。
  彼は「この方法を使えば全国を復興することができる。復興するには、これ以外に方法はない。」と身近な人に語っていたそうです。更に、金次郎は改革を実践するにあたって、自らその先頭に立って、現場を指導して回りました。そして、立てた計画を最初から最後まで責任をもって遂行するというスタイルを通したのです。やがて尊徳の成し遂げた復興の実績を参考にしながら、報徳の教えを実践するために地主や豪農が中心となり村民の自主的な組織である報徳結社が各地に設立されることになり、大きな成果を上げることになったのです。
  その後、明治時代になって、二宮尊徳(金次郎)は、経済行為の基礎としての道徳を説いたという点や孝行、学問、勤勉、精励、節倹等の多くの徳を備えた人物として、取り上げられることになりました。そして、昭和初年以降には、小学校校庭の「負薪読書」の金次郎像も一般化することになったのです。

  私も久しぶりに二宮尊徳の伝記を読み直して、戦後日本人が忘れかけてきている精神的な支柱の大切さを痛感しました。また現在、日本は大震災と原発事故からの復興という大きな試練の中にありますが、単に元に戻すという考え方ではなく、新たな視点に立って抜本的な手を打っていかなければいけないと思っています。

2011年04月06日

日本の偉人~二宮尊徳③

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  金次郎はさまざまな土地の復興を成し遂げましたが、58歳の時、徳川幕府より日光の復興を命じられました。この日光は徳川家康を祀る日光東照宮のある2万石の神領ですが、高地で起伏に富み、田畑にするようなところは少なく、領民は雑穀を日常に食していました。その上、天明の飢饉(1781-1787)以降、餓死者を多数出し、またこの地を離散する領民も多かったため、ますます人口が減少して耕地も荒れ果てていました。
  この地でまず金次郎が行なったことは、大谷川(だいやがわ)から水路を2里ばかり掘って、これを農業用水に利用する公共事業でした。これによって、荒れ地はたちまち農地となり、領民は自分たちが何をなすべきかという希望の未来が見えるようになり、自分のところに新用水を分けてくれるように申し出てきたのです。
  金次郎は領民に自信を持たせ、動機付けをすることに注力しました。そこで努力する者には直ちに5両、10両の褒賞を与え、どのように励めば豊かになるかを、数字を示しシンプルに語ったのです。

  大きな構想力を持ち、努力する者に対して褒賞し、成功体験を積ませることにより、これを広げていくという方策は、まさに経営そのものであると思います。今は何か新しいことを始めようとすると、すぐにできない理由や難しいという言葉が先行しますが、最も厳しい条件下のものを選んで成功に導き、この小さな成功体験を積み重ねて、大きな成果をあげるという手法は、まさに現代のあらゆる経営体にも当てはまることです。改めて二宮尊徳から学ぶべき点は非常に多くあるように感じています。
                              ≪続く≫
 

2011年04月05日

日本の偉人~二宮尊徳②

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  二宮尊徳(金次郎)の偉いところは、人を恨んだり自分の境遇を嘆いたりせず、努力を重ねたことです。彼には次から次へと困難や災難が降りかかってきますが、その都度不屈の精神で知恵を搾り出して人が手をつけなかった荒れ果てた土地を米が豊かに実る田んぼに生まれ変わらせました。そして、このようなたゆまぬ努力により自分の家を立て直したのです。
  この噂が小田原藩主の耳に入り、下野(しもつけ・栃木県)にある領地の再興を命じられることになります。この地はかつて戸数450、年貢米1万俵でしたが、その時には人口が3分の1、年貢米が5分の1にまで減り、貧乏と共に道徳的堕落がみなぎっていました。金次郎は、自分はただの百姓であり、このような仕事をしたことがないことを理由に、何度も藩主の申し出を断り続けましたが、ついに立ち上がります。そして、「金銭を与え、租税を免ずるのは彼らを救う道ではない。それはただ貪欲と無頼を招くだけであり、勤勉と自助だけがこれらの村を救う道である。」と言って再興に取り組みました。当時のエピソードが数多く残っていますので紹介します。
  ある農村の指導者が農民の信頼を失って金次郎のところに相談にやってきた時、彼はこのように諭したそうです。「自分が儲けようとして、他の人たちのことを考えないのは、動物と同じで人間として失格です。自分が得をしようとする気持ちを捨てて、全財産を村の人たちのために使うなら、あなたはきっと人々から信用されるようになるでしょう。」その指導者はこの言葉を聞いて迷った末に正直に実行しました。彼が全財産を投げ打って村人のために働いている間に、金次郎は自分の蓄えでもって彼の家族を助けたそうです。この結果、指導者は以前に増して豊かな生活を送れるようになったとのことです。
  彼はいつも農民達に「真面目にこつこつ努力すること」「無駄遣いせずに倹約すること」の大切さを語り続けました。そして、金次郎はこの指導者に教えたことを自ら実行に移すことによって、貧しい農村を豊かな村に復興させることに成功したのです。 ≪続く≫

2011年04月04日

日本の偉人~二宮尊徳①

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  このたび、学園の正面玄関近くの広場に二宮尊徳の銅像を設置することになりました。この像は以前学園に建てられていたものですが、学園講堂を建設する際に取りはずされていたものです。最近は二宮尊徳と言っても知らない人が多いと思いますので、紹介したいと思います。正しい読み方は「たかのり」で、通称は金次郎です。

  二宮尊徳は1787年(天明7年)に相模の国(現在の神奈川県)小田原藩の農民の長男として生まれました。ところが暴風雨による洪水で田畑が流されてしまいました。その後父母が相次いで亡くなり、16歳で孤児となり父方の叔父のもとに引き取られることになったのです。そこで朝から晩まで働きましたが、文盲にはなりたくないという思いで孔子の『大学』を買って深夜に読むことにしました。しかし、叔父は貴重な油を使うからという理由で、これを禁じたのです。このため尊徳は持ち主のない川の堤防の上にアブラナの種を蒔き、一年の終わりに一俵の種を収穫し、これを油に代えて読書することにしたのですが、叔父は百姓に学問は要らないということで、この行為も禁じたのです。このため、やむを得ず尊徳は働きながら読書をすることにしました。たきぎを背負って本を読む銅像はこれを写し出しているのです。
  これだけでは苦学したということだけがクローズアップされますが、尊徳の功績は勤勉によって日本の農業のあり方を変えていったことにあると言われています。それでは尊徳はどのようにして改革を行なっていったのでしょうか。これから何回かに分けて紹介していきたいと思います。    ≪続く≫

2011年02月04日

日本の偉人~一休禅師

tusin175_193-2.jpg 一休禅師の銅像の前で

  2月4日(金)、二十四節気のひとつである立春を迎えました。旧暦では元日ということになります。これから次第に気温が上昇し、色々な植物の新芽が吹き出す季節を迎えます。お互いに心機一転新たな取り組みに挑戦していきたいものです。
  
  先週末に開催された社会科の研究発表においては、生徒達が歴史上の人物のことをテーマに上げて調べていました。本校では〝社会で活躍する人材の育成〟を教育方針に掲げていますが、最近はわが国の偉人について学習する機会が少なくなっているように感じています。しかし、これらの人の生き様を学ぶことは非常に参考になります。従って、これから折に触れ、偉人の考え方や生き方を取り上げていきたいと思っています。
  
  先日訪問した一休寺の一休禅師は「頓知(とんち)の一休さん」と呼ばれ親しまれていますが、地元に住みながらあまり詳しいことを知らないため調べてみました。これによると、一休禅師には全く別の顔があることが分かりました。
  実は、一休禅師は後小松天皇の皇子ですが、彼の生涯は決して平凡ではなかったようです。故あって母子ともに宮中を追われ、町屋において天皇の子として誕生、その後6歳にして京都安国寺において出家得度(とくど)しました。頓知の一休さんと呼ばれているのは、この安国寺における小僧時代の寓話が元になっているのです。そして、成人した一休禅師は頓知というよりも柔軟で既成の常識や権威を否定し、体制や権力に背を向けた生活を送ったようです。
  一休禅師の人柄は、伝説のとおり聡明で優しく人々に慕われたようで、応仁の乱の後81歳で大徳寺の住職となりましたが、一休寺が気に入りここに住みながら京まで通っていたようです。文明13年(1481年)禅師はここで88歳の天寿を完うし葬られましたが、天皇の皇子ということで墓所には菊のご紋章があり、宮内庁が管轄しています。そして、今年は禅師の没後530年にあたります。
  また、一休禅師がいよいよ最期の時を迎え、自分の死後揉め事が起こることを予想して、「ゆきづまった時やどうしようもなくなった時には、この遺書を読みなさい」と弟子の高僧に言って、遺書を本堂内に埋めたそうです。何年か後、その予想が的中し、弟子達がこの遺書を開いて見ると「心配するな なるようになる」と書かれていたとのことです。
この他にも一休禅師は多くの言葉を残していますので紹介します。

  ◇ 「有漏地(うろじ)より無漏地(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」  これは〝煩悩の世界から悟りの世界へ行っても一休みするだけで、私の居場所は雨風が吹き荒れる混沌とした世界だ〟という意味ですが、一休という名前の由来であると言われています。
  ◇ 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 」
  ◇ 「世の中は起きて稼いで寝て食って 後は死ぬを待つばかりなり 」
  ◇ 「南無釈迦じゃ  娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ  どうじゃこうじゃ というが愚かじゃ 」 
  これからも、この地元の偉人について色々なことを調べていきたいと思っています。

2010年11月13日

血の滲むような努力~イチロー選手の偉業

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  今年のプロ野球は、大リーグのワールドシリーズでのジャイアンツの優勝、日本シリーズでのロッテの優勝で一年間の幕を閉じました。毎年、この時期にはドラフト会議で注目を集め、多くの球団から指名されてプロ野球の世界に入る者がいる一方で、戦力外通告を受けて退団する者やトレードになる者等悲喜こもごもの状況です。期待されながら活躍できずにユニフォームを脱ぐ者と大して注目されなかったのにもかかわらず大活躍している者との違いは何かを一言で言い表すと「努力」ではないかと思います。
  「今、プロ野球界で最も活躍している人は誰ですか」という質問をすれば、ほとんどの人がイチロー選手の名をあげるのではないかと思います。イチローは今年200安打を記録し、自らの記録を更新すると共に100年以上の歴史を持つ大リーグにおいて「10年連続」という回数でピート・ローズに並びました。
この試合の後、イチローは「200安打が簡単ではないことは僕が一番知っている」と安堵(あんど)感を漂わせながら答えていましたが、単に1年間だけではなく10年間続けるということは日々の体調管理が万全でなければ達成できないことです。これは、以前マリナーズで同僚であった阪神タイガースの城島選手の「記録の更新は凄いが、これを達成するための努力はもっと凄い」という言葉に端的に表わされているように感じます。
  このように社会で注目を集めている人は誰も見ていないところで、血の滲むような努力を継続しているのです。私達は活躍している華やかな姿だけを見がちですが、その陰に隠れた努力を見逃してはいけないと思います。

2010年10月07日

雲雀丘学園の歴史を紐解く~模範を示す

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  前述の本校初代校長の板倉操平氏は更に『わが心の自叙伝』の中で、先生が模範を示すことの大切さを次のように語っておられます。

  〝模範を示すということは、吾々凡庸にはおこがましいが、あれかしと思うことはつとめて躬行(きゅうこう・身を持って実行すること)する。それが生徒に感染すること、伝染病の伝播よりも疾(はや)し。これは訓育ばかりではない。勉強も同様。先生が研究もせずして、生徒に勉強せよ、勉強せよと言っても生徒が勉強するようにはならぬ。教師自らたえず研究に従事している。机の上にはいつも専門書が開かれている。寸暇を見つけて、それを読んでいると、それが自然に生徒達にも及ぶものである。・・・・≪以下 略≫〟

  よく「後姿を大切にせよ」ということが言われますが、生徒達は家庭では親の背中、学校では先生の背中を見て育っていきます。従って、まず親や先生が自らの姿勢を正していくことが何よりも大切です。そのためには、挨拶の励行、キッチリした服装、時間厳守、規則・ルールの遵守、整理整頓、正しい生活・学習の習慣づくり等を実践していかなければなりません。
  私自身も最近、世の中の政治・経済のトレンドや企業・新技術の動向、教育問題、環境問題等さまざまなことについて勉強するようにしていますが、あまりにも知らないことが多く、更に努力の必要性を感じています。特に現在のように変化が大きい時代にあっては、絶えず自己研鑽していかなければ、知識や技術、ノウハウ等あらゆるものが陳腐化してしまうことになりかねません。 
  今一度、原点に立ち返って、本校の教育方針である〝家庭と学校の連携による『共育』〟と〝生徒・保護者・親が共に学ぶ『共学』〟について考えていきたいものです。

2010年10月04日

雲雀丘学園の歴史を紐解く~一以貫之

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  板倉操平氏は、前述の『わが心の自叙伝』の中で、一以貫之の大切さを訴えておられます。
 〝教育上やりたいこと、やらねばならぬことは山ほどある。それもこれもと手をつけると、それもこれも完成せぬ。そこで最も重要のこと一つを選んで、それから手をつけ、それができるまでは他のことはやらぬ。すると不思議なもので、それ一つが完成すると他のことは自然にできるものである。校庭に紙屑が散乱している。生徒が廊下を走る、教室の入口のドアーの開閉が乱暴である。便所がまたきたない。色々改善すべき点が多い。それを同時にやろうとすれば、どれも徹底せぬ。その内最も重要なことを選び、それ一つを完成するまで徹底する。例えば紙屑を落とさぬこと、落ちている紙屑を拾うこと、先生も生徒も紙屑が校庭に一つもなくなるように毎日毎日の紙屑を拾っていて、校舎内に紙屑が落ちていなくなる時には、他のことも自然にできるものだ。その学校の最大の欠点一つを徹底的に攻めると、他のこと全部も自然に改まる。之を「一以貫之」という。一つが完成すると不思議に万事が成る。教育の効果は「徹底」にあり、その手段は「一以貫之」にある。〟
  本校においては、人間教育に注力していますが、人間力向上のための特効薬はありません。これからも挨拶、服装、ルール・マナーに代表される〝当たり前のことを当たり前に行なう〟という凡事徹底を継続していきたいと思っています。

2010年10月03日

学園の歴史を紐解く~保護者が創業者

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  初代の中学・高校校長である板倉操平氏の「わが心の自叙伝」を読み返してみると、改めて本学園は他の私立学校のように校主によって造られた学校ではないということが解ります。

  板倉氏の自叙伝には「父兄(保護者)が創業者であり、先生が協力し、生徒が又一体となって造り上げた学校である。何等の設備もなく、教室さえ無い所から学校教育が始まった。小学校の当初は、既設の幼稚園に間借りし、工事事務所を買い取って学校とし、中学校も小学校の空教室へ新一年生を入れて授業を始め、時には物置までも教室にした。かかる教育を受けた第一回の入学生、それが小学校六年間、中高六年間、合して十二年の教育を終えて卒業した生徒達のその後の成績は如何、大学入試の難関といわれる、東大、京大、、阪大へも入学した。・・・(中略)・・・ 年次を加える毎に、先生も増員せられ、設備も一応は整ったが、しかし、既設の他の私立学校、公立学校に比ぶれば、職員組織も整わず、設備も不備であった当時の卒業生第一回、第二回の連中は其の後の成績は最も優秀であり、現在も社会で大いに活躍している。・・・(中略)・・・ 設備も整い職員組織も充実した其の後の生徒諸君、其の日の生活に安住していると、創業時代の卒業生に及ばぬ結果となる。今は守成時代に入ったが、飽くまで創業時代の意気込みを忘れてはならぬ、生徒先生も。」と叙述されています。

  中学校が創設されたのは学園創立3年後の昭和28年(1953年)であり、待望の鉄筋校舎(今回建て替えの対象になった高校校舎)の完成は翌年の昭和29年(1954年)です。この度、創立60周年を機にこの校舎の建て替えを行ない、校庭の芝生化を実現することができました。当時とは比較にならない素晴らしい教育環境になりましたが、今一度板倉先生の言葉を噛みしめていきたいものです。

2010年10月01日

雲雀丘学園の歴史を紐解く~小学校創設の経緯

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  本学園は今年創立60周年という記念すべき年を迎えましたが、創立当時の状況を知る人もごくわずかになってきているようです。創立記念日にあたって周年誌(20周年・30周年)を紐解いてみると次のように記されています。
 
  〝第二次世界大戦が終わって間もない昭和24年(1949年)2月、雲雀丘、花屋敷の住宅地の子ども達が多く通学していた隣の市の大阪第二師範学校付属小学校の入学試験に対する「文部次官通達」が出されました。この通達の内容は終戦後アメリカが日本の「教育の民主化」政策を進める中で、進駐軍の意向が強く反映されたものでした。即ち『付属小学校は富家の子弟ばかりの入学を認めているのが実態であり、一般の子どもの入学を認めて庶民教育をするべきである。志望者が多ければ抽選で入学者を決めよ』というものでした。この通達によって抽選が実施されたため、抽選にもれた雲雀丘、花屋敷地域の子どもが数多く出ることになりました。その結果、兄姉が付属に通っているのに弟妹が入学できないという事態になり、不幸にして入学できない子どもの保護者には、諦められないものがありました。“付属のような学校を設けたい”との意見が生まれることになりました。
  特に、当時この地域の子ども達が通園していた雲雀丘幼稚園の卒園児童から多数の不合格者が出ることになったため、大原たま園長らは地元の教育熱心な人達と共に、学校新設の世論を起こすことになりました。これが2月半ば過ぎのことです。そして、大阪第二師範学校( 校長・板倉操平、付属小学校主事・池上実)に援助を仰ぎ、新設のための運動が進められたのです。これから、わずか1ヵ月後の3月25日に第1回の公式会合が行なわれ、「雲雀丘小学校創立委員会」として発足しました。そして、委員長に鳥井信治郎氏(寿屋社長 現サントリー)・ 学校長に土井信男氏(師範学校付属小学校教官)を推すことが決められたのです。しかし、私立学校としては、基本金、書類等の設立準備が間に合わないので、とりあえず村立西谷村雲雀丘分教場として発足すること、但し、教育方針その他教育に関することは独自の立場をとること等の申し合わせができたのです。しかし、肝心の校舎をどうするのかは全く決まっていませんし、学校を建設するための資金も時間もありません。そこで、校舎は雲雀丘幼稚園の園舎を分教場として借用し、後に独立することになりました。
  その後、4月10日頃になって、ようやく4月15日の入学式の日取りが決定し、石黒冨貴子(師範学校付属小学校教官)の赴任も決まったのです。こうして、この学校が将来どうなるのかについては誰もが不安な気持ちを持ちながら、第1回目の入学式兼開校式が行なわれ、男子22名、女子14名、計36名の新1年生でスタートしたのです。

2010年09月30日

初代理事長のやってみなはれ精神

22.9-27.jpg 初代理事長 鳥井信治郎氏

  
  本学園の初代理事長であった鳥井信治郎氏は〝やってみなはれ。やらなわかりまへんで〟というのが口癖でした。実に簡潔な言葉ですが、挑戦することの大切さを見事に表わしています。いくら頭の中で考えていても実際に行動を起さないと何事も実現することはできません。
  最近の日本人に欠けているのは、このチャレンジ精神ではないかと思います。最初からできそうなことだけを選択しようとすると、どうしても低い目標設定になってしまいます。これからグローバル化がますます進展する一方で新しい技術やシステムが開発され、これまでになかったさまざまな仕事が生まれてきます。これらの仕事は定型化された単純なものだけではないため、自ら課題を見つけ出し、知恵を搾り出して大胆に行動し解決していかなければなりません。つまり、頭の中でいくら考えても実際にやってみなければ答えの出ないものが多いのです。
  高い学歴を有する人が陥りやすいのは、まず頭の中で考えて答えを導き出そうとすることです。そうするとすぐに〝難しいです〟とか〝できません〟という答えが返ってきます。また、〝失敗しないかどうか〟〝失敗した時にどうするか〟をついつい考えて腰が引けてしまうため、いつになっても行動に移すことができません。これでは決して成功することはできません。いつの時代にあっても、社会で活躍できるのは常に挑戦し続ける人であるのは間違いありません。何故なら何事も一度で成功することはまずありませんし、成功の裏には数多くの失敗がつきものだからです。言い換えると、成功するためには最も多くの失敗をすることが必要なのです。
  創立60周年にあたって、今一度、鳥井初代理事長の〝やってみなはれ〟精神を胸に刻んで、積極的に行動していきたいものです。

2010年09月28日

雲雀丘学園の歴史を紐解く~創立記念日を迎えるにあたって

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  間もなく迎える10月1日は雲雀丘学園の60回目となる創立記念日にあたります。本年度は人間に例えると〝還暦〟という大きな節目ということになります。この日を迎えることができるのは、先輩諸兄をはじめ多くの関係者の努力やご支援のお蔭であると心から感謝すると共に、今一度原点に立ち返って、すべてのものを見直すという姿勢が大切です。そこで、この機会に創立当初の学園の状況やその後の歴史について触れてみたいと思います。
  
  創立された昭和二十年代の歴史を紐解くと、初代理事長である鳥井信治郎氏の「どうや、うまくいっているか、なんか困っている事はないか・・・」という心温まる言葉や支援を受けて、PTA・教職員・児童生徒が力を合わせて、学校をつくってきた様子が記されています。それぞれが土や砂を運び、草を刈って運動場や砂場をつくっていったようです。
  入学式や卒業式には、鳥井理事長が出席されて話をされましたが、その内容は決まって親孝行の話であり、朝起きたら、保護者に”お早う”、学校から帰ったら”ただ今”と言い、夜、寝るときは”お休みなさい”と挨拶しなさい。「親孝行の出来る人は、人間としても立派になれる」というものでありました。そして、今でも学園には鳥井先生の「親孝行な人は どんなことでも りっぱにできます。」という言葉が残っています。
  また、すべての学校には創立の精神があり、一般的には常に生徒の目に触れるところにおかれています。本校にも生徒の通学路に、次のような創立の精神が刻み込まれた記念碑が置かれています。

  〝孝道を人間の根本義と考え、社会のために尽くす精神を最も尊重し、より良い社会、国家を生み出すべく心を素直にもち、すべてに感謝の念を捧げ、健康な体力とたくましい実践力をもつ強い人間を創る事を念願しています。〟

  この冒頭に書かれているのが、親を大切にするという〝孝道〟です。また、理事長が社長を勤められていた寿屋(現サントリー)の新聞広告には「祝祭日には日の丸を掲げましょう」と必ず書いてあったそうです。
  これらの事からもわかるように、「保護者に孝行する人」「国を愛する国民」というのが鳥井初代理事長の精神であり、現在も雲雀丘学園の教育方針として受け継がれているのです。

2010年09月19日

挨拶を習慣化する

  以前ベストセラーになった「親の品格」(PHP 新書)の著者の板東眞理子さんはその著書の中で、「あいさつから始めよう。あいさつは相手を認め、相手を尊重し、相手と友好関係を結びたいという表明であるから、あいさつしても無視されるのは大変辛いものだ。また、家族の間のあいさつが習慣になると、自然に近所の人や顔見知りの人にあいさつができるようになってくるが、家庭でのあいさつができなければ、なかなか他へは波及しない。」と述べておられます。
  私は「あいさつ」はコミュニケーションを円滑にするというだけではなく、内面的な豊かさを育むことに繋がると思っています。温かな人間関係に満ちた集団では、相手を思いやる優しい気持ちがあいさつという形になって表われています。即ち「おはようございます」「ありがとうございます」「しつれいしました」「すみません」や「おつかれさま」「ごくろうさま」といった言葉がかわされているのです。
  すべての親は子ども達には心豊かな人間になって欲しいと願っておられると思います。そのためにはまず家庭において、いつも明るいさわやかなあいさつが交わされていることが必要です。そして、家庭や学校において、まず親や教師が子どもの「手本」であることを忘れることなく、明るい「あいさつ」ができる人間になることが大切であると思っています。

2010年09月18日

凡事徹底の大切さ~伸びる会社の条件

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 パナソニックの創業者である松下幸之助氏は”伸びる会社”の条件として
   ①元気でさわやかな挨拶
   ②キッチリとした整理整頓
   ③掃除のゆきとどいたトイレ
の3つをあげていましたが、本社勤務時代には、この一見経営と関係ないと思われる3つが、どうして大切なのか理解できませんでした。ところが事業部や支店の責任者として他社や販売会社、代理店、販売店への訪問をくり返すうちに、松下氏の言われていることがわかるようになってきました。
 朝、ある会社を訪問すると、社員が立ち上がって「おはようございます、いらっしゃいませ」という挨拶が返ってきます。また、机の上もきれいに片付いており、トイレも美しく掃除されています。このような会社は何故か業績が良いのです。逆に部課長が新聞を読みながら椅子に座ったままで立ち上がりもせず、しっかりとした挨拶もしたいという会社の業績は概して良くありません。また、机の上が乱雑になっている会社は倉庫の中の整理整頓もできていません。さまざまな商品のカタログや古いチラシが雑然と積み上げられていたり、旧商品が無造作に置かれています。このような会社では、請求書や支払い伝票の管理も不十分であり、会社全体のマネジメントもルーズになっています。
 挨拶や整理整頓、掃除など大したことではない。やろうと思えばいつでも出来るという考え方が駄目なのです。これは会社だけではなく、学校にも家庭にも個人にもあてはまります。当たり前のことをしっかりやるということを心がけていきたいものです。

2010年08月16日

成功の階段を昇る

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  このお盆休みには、家族旅行、帰省、休養等それぞれ充実した生活を送られたことと思います。私もこの休みには自宅の整理を重点的に行ない、不要なものを数多く処分しました。お蔭で身の回りが随分スッキリしましたが、同時に参考になる資料が数多く出てきました。
  この中の一つであるアメリカの〝ジョセフ・マーフィー博士の「願望達成の処方箋」としての7つの原則〟を紹介します。 同氏は、哲学、法学、薬理学などいくつもの博士号を持ち、教育家、講演家、カウンセラーとして幅広い活躍をされましたが、「あなたの人生はあなたの心に思い描いた通りになる」という偉大な法則が働くということを主張し、これを人生の黄金律<ゴールデンルール>と名付けました。
  言い換えると、成功するか否かは人生に立ち向かうライフスタイルの差であり、成功の階段を昇るためには次の7つがあげられる。
  ①人生の目標を持つ。この目標は具体的なものであること。
  ②計画を立てる。これには「いつまで」という期限と「いかにして」という手段
   を明確にすること。
  ③実現を信じる。実現した姿をいつも頭の中に思い浮かべること。
  ④集中力を養う。「われを忘れる」「無我夢中」「没頭した」といえる時間を
   増やすこと。
  ⑤あきらめない。計画倒れにならないように、余計なことを考えずに繰り返しに
   強くなること。
  ⑥否定語は無視する。「無理だ」「できっこない」「やめたほうがいい」という
   言葉は悪魔のささやきと心得ること。肯定語だけに耳を傾けること。
  ⑦失敗を恐れない。「失敗しない者はついに何事もなしえない」と考えること。
 すべてあたり前のことですが、自分の人生は自分で切り開いていくという気持ちが大切であると思います。

2010年07月18日

奇跡のリンゴ

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  この夏休みに是非読んで欲しい本があります。それはリンゴ農家の木村秋則さんが絶対に不可能であると思われていた肥料や農薬を全く使わないリンゴづくりの挑戦体験を綴った〝奇跡のリンゴ〟という本です。木村さんがリンゴを無肥料・無農薬で栽培しようと考えたきっかけは20数年前、たまたま入った本屋の一番上の棚にあった「自然農法論」という書物との出会いでした。この本には米を無肥料・無農薬で作ったことが紹介されていました。木村さんはこれに強い刺激を受け、リンゴでも出来ないだろうかと思ったのです。元来勤勉で好奇心が旺盛であった木村さんは、片っ端から農業関係の本を読みあさりました。
  しかし、それは全く先の見えない苦悩と挫折のドラマの始まりであったのです。初夏になると葉が黄ばみ落葉を始め、本来5月中旬に咲く花が9月に咲き、10月に小梅のような実がなりましたが、これはまずくて渋く食べられるものではありませんでした。それから7年間、葉は出てくるが花は咲かず害虫と病気の闘いで、全くリンゴが採れず収入のない生活が続き、子どもにノートを買ってあげることも出来なくなり、昼は自分のリンゴ園、夜は弘前の繁華街で働くという生活を余儀なくされたのです。そして、世間からも変人扱いされ、全く生きる自信をなくし自殺しようと思って岩木山に登りました。そこで、弘前の夜景を眺め本当にきれいだと思いながら、しばらく佇み、しゃがんで土をすくってみました。すると、この土は畑とはぜんぜん違う匂いであり、畑の草は簡単に抜けてしまうのに、木は根っこが張って抜けませんでした。これがヒントになり、木村さんは大事なのは土の中だと気づき、土作りに注力することにしました。この努力が実を結び、8年目に一本の木にだけ7個の花が咲き、その翌年畑一面にリンゴの白い花が咲き乱れ、ついに無農薬のリンゴを完成させたのです。このエピソードはまさにチャレンジすることの大切さを私達に教えてくれています。

2010年04月22日

「知る」ことの大切さ

  私の好きな書物の一つに古代中国の兵法の書である『孫子』があります。この書物には戦いに勝つための戦略や戦術が詳しく叙述されており、経営のあり方を考える際に時々紐解いています。しかし、この書物が長い間多くの人に愛読されているのは、単に戦いに臨んでの心構えというだけではなく、人間学についてさまざまなことを説いているからではないかと思います。つまり、人生をいかに生きるかを考える際に参考となる数々の味わい深い言葉が記されているのです。
  この中で、特に有名なのは「知る」ということの大切さについて述べられた「彼を知り己を知らば、百戦して殆(あや)うからず」という言葉です。この意味は「相手を知り、自分をよく知っていれば、物事はすべてうまくいく」ということです。そして、この相手というのは必ずしも人間とは限りません。
  本校では〝将来社会で役立つ人材の育成〟を教育方針に掲げており、先日の入学式後の新入生保護者オリエンテーションや高校1年生の宿泊研修等を通じて「社会で役立つ力」というテーマで話をしてきました。しかし、社会というものがしっかりと認識されているかどうかは疑問です。この認識なしに、〝将来社会で役立つ〟ということを取り上げても、具体的に何をすれば良いのかは目に見えてこないと思います。
  従って、まず現在の日本や世界の現状がどのようになっているかを知り、次にこれからどのように変わっていくのか、更にこの社会ではどのようなものが必要になってくるのかを予測して自分なりに把握しておくことが必要です。
  そのため、これから何回かに分けて、現在と将来の社会について詳しく説明していきたいと考えています。

2010年04月18日

混迷の世に志を抱く

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  以前この校長通信の中でも紹介したことのある小野晋也氏は、現在愛媛県で〝混迷の世に志を抱く〟ということで毎月一回『志の道を歩く会』の開催や月刊誌『OAK・TREE』の発刊を通じて時代を動かす人物育成活動を推進されています。私もこの月刊誌の届くのを楽しみにしていますが、人間の生き方や考え方、幸福を考える上で感銘をうけることが数多くあります。
  小野氏は常々〝人間が人生を力強く生きていくためには、心の中に元気がなくてはならない。この心の中の力さえ備わっていれば、多少の問題があっても敢為の気力で問題を乗り越えて進んでいける〟と語ってきておられますが、先日の『OAK・TREE』にも安岡正篤氏の「照心語録」の中の言葉が掲載されています。

  〝民族や個人にとって、根本的なものは気力の如何である。政策やイデオロギー、或いは知性・技能といったものは全て気力の影響を受ける。いかなる長所があろうとも気力が弱ければ大した価値もないし、逆に気力さえ旺盛であれば多少の欠陥など、それほど気にする必要もない。〟
  
  そして、小野氏はここに示されている気力というものは元気とほぼ同じ意味で使われており、この元気は人と人との心の響きあいから生まれてくる。自分の人生を振り返ってみて、何かの失敗や人間関係のもつれで意気消沈している時など沈んだ気持を切り替えて、再び困難に立ち向かってゆこうとする勇気を与えられるのは、心の共鳴を引き起こしてくれる〝人との出会い〟が何よりも大切であると言っておられます。
  昔から「人生において会いたいと思う人には必ず会える」と言われていますが、混迷の時代にあって、色々な人との出会いを通じて人間力を磨き、高い志を持って生き抜いていきたいものです。

2010年04月16日

入学式の式辞から~③凡事徹底の大切さ

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  高校の入学式においては、パナソニックの創業者である松下幸之助氏の2つのエピソードを取り上げましたが、今回はそのうちの一つを紹介します。
  〝今から丁度30年前になりますが、昭和55年(1980年)に松下氏は突如として、〝将来の日本を背負って立つ政治家を自ら育てる〟と宣言しました。しかし、その時松下氏は既に85歳になっており、その上声も十分に出ないという状態でした。何故、今更この年になって、政治のことを言い出すのか。今、日本はうまくいっているではないか、と多くの人が感じており、松下氏のまわりにいる多くの人がこの考えに反対しました。なぜなら、当時の日本は卓越した製造力を有しており、世界中から羨望のまなざしで見られるような繁栄をしていたからです。しかし、松下氏は「このままでは、日本はいずれゆきづまる。何故なら、今の日本には目先のことしか考えていない人間、自分の損得だけを考えて行動している人間が多すぎる。そして、国家百年の計がない。だから政治家を育てるのだ。」と言って、資産を投げ打って、松下政経塾をつくったのです。
  このことが発表されると、日本全国から入塾したいという人が続々と集まってきました。そして、その中から選び抜かれた塾生に対する入塾式が行なわれました。入塾者達は、松下氏がどのような話をするのか固唾を飲んで聞き入っていました。その時に言われたことは「まず、自分の身のまわりをしっかり掃除しなさい、整理整頓しなさい。自分の身のまわりを美しくすることができない人間に政治という大きなことは絶対にできない。」ということでした。この話を聞いて正直なところ、がっかりした人もいたようです。しかし松下氏は、永年の経験から「簡単なことの出来ない人間に決して難しいことはできない」ということを確信されていたのです。
  伸びる会社は、訪問すればすぐわかる。「いらっしゃいませ、おはようございますという爽やかな挨拶が返ってくる会社」、「事務所や工場がキッチリと整理整頓されている会社」「トイレの掃除がゆきとどいている会社」。この三つのことができている会社は間違いなく伸びる。逆に、これらが出来ていない会社は、今、ある程度の業績であっても、必ず駄目になる。そして、このことは人にもあてはまる。当たり前のこと、簡単なことをしっかりやり続けている人は、間違いなく成長する。〟逆に凡事徹底ができない人は絶対に伸びないということでした。松下氏はこのことをいい続けると共に自分自身も実践されていたのです。〟

  私達は日常の生活において、小さなことをおろそかにしがちですが、誰にでもできる凡事を徹底してやりぬく姿勢が何よりも大切であると思っています。

2010年04月12日

入学式の式辞から~②習慣づくり

  中学の入学式においては、『毎日毎日が習慣づくり』という詩を引用して、良い習慣をつくることの大切さをお話しました。これは随分前に読んだ本の中に載っていたもので、私自身が日頃心がけなければならないと思って、書き抜いていた詩です。

〝勉強をサボるという習慣    勉強を真剣にやるという習慣
 本を読まないという習慣    本を読むという習慣
 字を乱雑に書くという習慣   字を丁寧に書くという習慣
 小さな声でぼそぼそと言う習慣  はっきりした声でしっかり言う習慣
 毎日毎日が習慣づくり
 挨拶をしないという習慣    挨拶をするという習慣
 他の人の言葉に耳を傾けないという習慣  耳を傾けるという習慣
 人の悪いところを見つけようとする習慣 人の良いところを見つけようとする習慣
 自分のことを優先しようとする習慣  他の人のことを優先しようとする習慣
 何気ない一回一回のこと    何気ない一日一日の積み重ね、
 その中で、今のあなたは作られてきたし、これからも作られていくのです。
 どんな習慣を自分のものにしていくか
 何気ない一回一回のこと    何気ない一日一日の積み重ね、
 その中にこそ、あなたがいるのです〟

  悪い習慣と良い習慣が交互に書かれていますが、最初から良い習慣が身についている人はほとんどないと思います。大切なことは常に〝悪い習慣を改め、良い習慣は継続する〟という姿勢です。この習慣づくりができれば、勉強でもスポーツでも将来社会に出てからの仕事でも立派にやれるようになると思います。
  今回、新入生には入学式後、クラス担任を通じてこの詩のコピーを配布していただきました。できれば、目につくところに掲示していただき、日常の行動を見つめ直して欲しいと思っています。

       


2010年04月11日

入学式の式辞から~①学園設立の経緯と鳥井信治郎氏

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  中学の入学式では学園設立の経緯と鳥井信治郎氏について次のような話をしました。
〝この学園ができたのは第2次世界大戦が終わって間もない昭和25年(1950年)です。そして、雲雀丘学園は、今年創立60周年という記念すべき年を迎えます。当時、この雲雀丘や花屋敷には小学校がなく、この地に住む子ども達は池田にある師範学校の附属小学校(今の大阪教育大学附属池田小学校)に通っていました。ところが、この小学校への入学は抽選によって決められるということになりました。そうするとお兄さん、お姉さんは師範学校の附属小学校に行っているのに、弟や妹は行けないということになってしまいました。そのため、何とかこの地に小学校をつくりたいという声が起こり、地元の皆さんが協力して、雲雀丘学園小学校を創設したのです。そして、この運動の中心になって色々と力を尽くされたのが、サントリーの創業者である鳥井信治郎氏です。その後、中学ができ、高校ができ、現在に至っています。〟

  現在、残されている「周年記念誌」を紐解くと雲雀丘学園の設立から草創期の歴史が詳しく記されていますが、これによると、本学園はサントリーの創始者である鳥井信治郎氏による絶大な支援があったということがわかります。すなわち、私立学校として学園を創立する場合には理事会組織が必要となるため、当時川西市寺畑に在住されていた寿屋( 現サントリー株式会社 )の創始者であった鳥井信治郎氏に是非理事として名前を連ねていただきたいと懇願したところ、快くご承諾いただいたようです。
  その後、学園の発展につれて、多大の経費が必要になりましたが、すべて鳥井理事長にお願いすることが多くなったようです。例えば、現在の高校校舎から中央棟・校庭にいたるあたりは鳥井理事長の私有地でしたが、昭和28年度に学園中学校創設にあたって、11,079㎡(約3千坪)を校地として学園に寄贈していただきました。今回、建て替えた高校の旧校舎は当初中学校舎として建設されたものです。このように、雲雀丘学園の経費の多くの部分や土地、建築費などが理事長の【陰徳】としての出資であったことが分かります。
  このように、雲雀丘学園は、鳥井理事長をはじめ保護者・教職員全体の協力で出来た学園であり、当時の「新聞」紙上では本学園を称して“持ち寄り学校”と書かれた記事があるぐらいです。そして、創立後現在に至るまで、本学園はサントリー株式会社からさまざまな支援をいただいているのです。

2010年03月29日

雲雀丘学園の歴史~鳥井信治郎氏による支援

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  学園の創立にあたっては「雲雀丘小学校創立委員会」のメンバーによる多大のご尽力がありました。とりわけこの委員会のまとめ役として、物心両面においてご支援いただいたのが、当時の壽屋(現サントリー)の創業社長であり、学園創立にあたって初代理事長に就任された鳥井信治郎氏です。昭和二十年代の学園の歴史を紐解くと、鳥井信治郎氏の「どうや、うまくいっているか、なんか困っている事はないか」という心温まる言葉や支援を受けて、PTA・教職員・児童生徒が力を合わせて、学校をつくってきた様子が記されています。一例を挙げると、それぞれが土や砂を運び、草を刈って運動場や砂場をつくっていったようです。まさに、雲雀丘学園は〝手作りの学校〟であったと言えるのではないでしょうか。今回の高校の新校舎の建設にあたっても、この伝統は引き継がれてきたように思っています。
  また、入学式や卒業式には、鳥井理事長が出席されて話をされましたが、その内容は決まって親孝行の話であり、「朝起きたら、保護者に”お早う”、学校から帰ったら”ただ今”と言い、夜、寝るときは”お休みなさい”と挨拶しなさい。〝親孝行の出来る人は、人間としても立派になれる。〟」というものでした。そして、創立の精神にもこのことが明確に表記されています。
  〝孝道を人間の根本義と考え、社会のために尽くす精神を最も尊重し、より良い社会、国家を生み出すべく心を素直にもち、すべてに感謝の念を捧げ、健康な体力とたくましい実践力をもつ強い人間を創る事を念願しています。〟
  よく雲雀丘学園の良き伝統ということが話題になりますが、今一度鳥井理事長の言葉や創立の精神の持つ意味をしっかりと胸に刻んでいきたいものです。

2010年03月28日

学園の歴史~創設の経緯

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  雲雀丘学園は地元の皆さんの総力で創設された学園ですが、当時の状況については周年記念誌に掲載されていますので、紹介します。
 
  〝第二次世界大戦が終わって間もない昭和24年(1949)2月、雲雀丘、花屋敷の住宅地の子ども達が多く通学していた隣の市の大阪第二師範学校付属小学校の入学試験に対する「文部次官通達」が出されました。この通達は終戦後アメリカが日本の「教育の民主化」政策を進める中で、進駐軍の意向が強く反映されたものでした。即ち『付属小学校は富家の子弟ばかりの入学を認めているのが実態であり、一般の子どもの入学を認めて庶民教育をするべきである。志望者が多ければ抽選で入学者を決めよ』という内容でした。
  この通達によって入試が実施されたため、雲雀丘、花屋敷地域の子ども達の多くが抽選に漏れるということになってしまいました。とりわけ雲雀丘幼稚園の卒園児童の中には、兄姉が付属に通っているのに弟妹が入学できないという事態が起こってしまったのです。そのため、彼らの保護者の中に“付属のような学校を設けたい”との意見が数多く出されました。この動きを受けて、大原たま園長らは地元の教育熱心な人達と共に大阪第二師範学校(校長・板倉操平氏、付属小学校主事・池上実氏)に援助を仰ぎ、新設のための運動を進めることにしたのです。そして、これからわずか1ヵ月後の3月25日に第1回の公式会合が行なわれ「雲雀丘小学校創立委員会」が発足し、委員長鳥井信治郎(寿屋社長 現サントリー)・学校長土井信男(師範学校付属小学校教官)等が決められたのです。
  その後、西谷村雲雀丘分教場として雲雀丘幼稚園の園舎内に学校が設立され、昭和24年(1949年)4月15日に入学式兼開校式が行なわれました。2月21日に付属小学校の合格発表があってから、わずか2カ月足らずという短期間での設立で、新1年生は男子22名、女子14名、計36名、先生は学校長兼土井信男、石黒冨貴子(師範学校付属小学校教官)の2名でのスタートでした。〟
  

2010年03月27日

雲雀丘学園の歴史を知る

昭和63年頃の高校校舎.jpg ≪昭和63年当時の校舎≫                     
 
  雲雀丘学園は本年、人間で言えば還暦にあたる「創立60周年」を迎えますが、まさに激変する環境下にあって、創立の原点に立って新たな第一歩を踏み出すことが必要であると感じています。60年という歳月は2世代にあたるため、当時のことを知っておられる人はほとんどおられないと思います。私自身も本学園での勤務が4年ということで、正直なところ過去のことは皆目解りません。そこで、創立の精神を確認するため、初代の中学・高校校長である板倉操平氏の「わが心の自叙伝」を読み返してみました。この中で、改めて本学園は他の私立学校のように校主によって造られた学校ではないということを痛感しました。
  板倉氏の自叙伝には「父兄(保護者)が創業者であり、先生が協力し、生徒が又一体となって造り上げた学校である。何等の設備もなく、教室さえ無い所から学校教育が始まった。小学校の当初は、既設の幼稚園に間借りし、工事事務所を買い取って学校とし、中学校も小学校の空教室へ新一年生を入れて授業を始め、時には物置までも教室にした。・・・(中略)・・・ 年次を加える毎に、先生も増員せられ、設備も一応は整ったが、しかし、既設の他の私立学校、公立学校に比ぶれば、職員組織も整わず、設備も不備であった当時の卒業生第一回、第二回の連中は其の後の成績は最も優秀であり、現在も社会で大いに活躍している。・・・(中略)・・・ 設備も整い職員組織も充実した其の後の生徒諸君、其の日の生活に安住していると、創業時代の卒業生に及ばぬ結果となる。今は守成時代に入ったが、あくまで創業時代の意気込みを忘れてはならぬ、生徒先生も。」と叙述されています。
  中学校が創設されたのは学園創立3年後の昭和28年(1953年)であり、翌年の昭和29年(1954年)には鉄筋校舎(旧の高校校舎)が完成しています。それから56年が経過し、今回の新校舎が建設されることになったのです。
  この創立60周年という節目にあたって、本学園の創立の精神や歴史を学び、語りついでいかなければと思っています。

2010年03月09日

あきらめた時が失敗

  社会で活躍している人に共通しているのは〝たゆまぬチャレンジ精神〟ではないかと思います。何事も高い目標を達成することは容易ではありません。懸命に努力してもうまくいかないことの方が多いのです。このような状況に陥った時にどのような気持ちになるかによって、人生は大きく変わると言っても過言ではありません。すぐに諦めてしまう人や目標を達成可能なレベルにまで引き下げる人も多いと思います。また、再チャレンジしても挫折してしまうこともあるでしょう。そして、二度、三度と挫折を繰り返して、最終的にはあきらめてしまうことが多いのではないかと思います。
  パナソニックの創業者であった松下幸之助氏は〝僕には失敗はない。何故なら成功するまでやり続けるからだ。〟と言って、決して諦めることはありませんでした。また、京セラの名誉会長である稲盛和夫氏は〝世の中に失敗というものはない。チャレンジしているうちは失敗はない。あきらめた時が失敗である。〟という言葉を残しておられます。
  このように社会で成功されている人は、何事に対しても諦めずに挑戦し続ける姿勢を有しておられます。まさに、できるかできないかは能力の差ではなく、執念の差であるということです。
  最近の風潮は「目標を持たない」「仮に目標を持っていても達成可能な低いレベルで留まっている」また「すぐに諦めて目標を切り下げてしまう」ということではないかと感じます。しかしこれでは、最終的に成功することはできませんし、人間的に成長するということも期待できません。学習にしてもスポーツにしても高い目標を設定し、これを何とか達成しようと努力することによって成長がはかれるのです。
  今はまさに受験シーズンの真只中であり、努力してもすべてがうまくいくということはないかも知れませんが、成功するまで挑戦し続けて欲しいと思っています。

2010年03月02日

稲盛和夫氏の言葉

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  高等学校の卒業式でも取り上げた稲盛和夫氏のエピソードを紹介します。
  稲盛氏は28歳の時、わずか28名の従業員で京都市中京区の西の京原町という京都のはずれにあったある配電盤メーカーの倉庫を間借りして京セラを創業されました。そして、その当時には従業員の前で「西の京原町で一番の会社になろう。ここで一番になったら中京区で一番になろう。次は京都で、更に日本一になり、世界一を目指そう。」とことある毎に語りかけておられました。
  しかし、西ノ京原町には京都機械工具という自動車の整備に使うスパナやレンチをつくっている会社があり、更に中京区には島津製作所があったのです。これらの会社を抜くということは、当時の京セラの実力からすれば、誰が見ても全く身の程知らずのものだったのです。それでも〝京都一・〝日本一の企業になる〟と毎日思い続けていくうちに、いつの間にか自分自身でもあたり前のように思えてきた。そして、ついに目標どおり、京セラを世界一のセラミックメーカーにまで育てあげることができたとのことです。
  稲盛氏は夢を実現するために、次のような言葉を残されています。
 〝どんな遠い夢も、思わない限りはかなわないし、そうありたいと強く心が求めたものだけを私達は手に入れることができる。そのためには潜在意識にしみこむまで、思って、思って、思い続ける・・・夢を語ることはその行為の一つであり、実際に私達はそうすることによって大きすぎる夢を実現してきた。 
  強く思わなければ何事も成就しないのは当然です。実現するかしないか、成功するかしないかは能力の差ではなく、まさに執念の差であると言っても過言ではないと思っています。

2010年02月22日

卒業生に贈る~自分なりの人生哲学を持つ

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  卒業式の式辞の中でお話ししたことを紹介します。
  一つ目は『自分なりのしっかりとした人生哲学を持つ』ということです。
私はこれまで、社会で活躍している数多くの人を見てきましたが、これらの人に共通しているのは〝自分なりの人生哲学を持っておられる〟ということです。
その中で、本日は、京都セラミックの名誉会長で、現在日本を代表する経営者の一人である稲盛和夫氏の人生哲学を紹介したいと思います。
  稲盛氏は今回日本航空の再建にもあたられることになりましたが、その人生は決して平坦なものではありませんでした。
  若い頃には結核にかかり健康面で大きな不安を抱え、大学も第一志望は不合格で鹿児島大学に進学されました。大学卒業後も、仕事がなかなか見つからず、いつ潰れても不思議ではない会社に就職されました。その後二十八歳で京都セラミックを創業され、さまざまな苦労を重ねつつ、世界に冠たるセラミック企業に育て上げられたのです。更にKDDIの会長として、日本の情報通信事業の発展に大きな貢献を果たされました。それだけに稲盛氏のいかに人生を生きるかという考え方には共感するものがあります。稲盛氏は「成功の理由をあえて挙げるとすれば、私には才能は不足していたかも知れないが、人間として正しいことを追求するという単純なしかし力強い指針があったからだと思う」と語っておられます。
  そして、自らの体験に基づき人生が成功するための方程式を示しておられます。これによると人生や仕事の成果というものは三つの要素でできている。この三つというのは「考え方」と「熱意」と「能力」であり、人生が成功するための方程式というのはこの三つの要素の掛け算でできている。つまり、人生は『考え方×熱意×能力』で決まるということです。これは足し算ではありません。従って、能力があっても熱意に欠ければ決していい結果は出ません。逆に能力がなくてもそのことを自覚して人生や仕事に燃えるような情熱であたれば先天的な能力に恵まれた人よりはるかにいい結果を得られます。そして、最初の「考え方」というものは三つの要素の中では最も大事なもので、この考え方次第で人生は決まってしまうと言っても過言ではありません。何故なら考え方にはプラス百点からマイナス百点の幅があるからです。自分さえ良ければ他人はどうなっても良いというような考え方では必ず人生は行き詰まることになります。
  この正しい考え方というものは本校の校是である高い志につながります。皆さんは単にお金や利己的な満足や、うたかたのように消えてしまう名誉や名声を得るというのではなく〝人間として世のため、人のため、未来のためにいかに尽くすか〝 という姿勢を貫いてください。

2010年02月21日

卒業生に贈る~三つの実践

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  今回の卒業式では、52期生の皆さんにこの門出にあたって三つのことを心がけて欲しいということをお話しました。その一つ目は『自分なりのしっかりとした人生哲学を持つ』、二つ目は『前向きに挑戦する』、三つ目は『親を大切にし、感謝の気持ちを持つ』、というものです。
  私は心を込めて卒業生にこれらの思いを伝えようとしましたが、人から聞く話というのはその時はしっかりと受け止めていても、時間が経つに連れて薄らいでくることが多いものです。そのため、この三つを色紙に書いて卒業式後にクラス担任を通じてお渡ししました。
  最初に書いてある『高志・自律・努力』という言葉は雲雀丘学園中学・高等学校の校是であり、各教室に掲載されており、生徒達が毎日見てきたものです。一つ目の「人生哲学を持つ」については京セラの稲盛和夫名誉会長、二つ目の「挑戦する」と三つ目の「親を大切にする」は本学園の初代理事長である鳥井信治郎氏の言葉を参考にさせていただきました。
  これらの校是や三つのことは生徒達だけではなく、我々大人も含めすべての人にとって大切なことです。しかし、昨今、あまりにもこれらとかけ離れたことが世の中で起こっています。また、これらのことが実践できていない人が多いのも事実です。このように言っている私自身もこれらのことがしっかりとできている訳ではありません。毎日の生活の中で、これらのことを心がけていかなければならないと思っています。
  本校は〝人間教育の充実〟と〝学力の向上〟を教育の基本方針に掲げていますが、学校に集う生徒、保護者、教職員全員が日々これらの実践をはかっていきたいものです。

2010年01月31日

先人の言葉(佐藤一斎)

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  人間力を磨くためのヒントは社会に貢献されている人の話を直接聞くか、書物を通じて先人の教えを知ることが大切ではないかと思います。私もこれまでこのようなことを実践してきたつもりですが、まだまだ多くの面で未熟であると感じています。最近、休日には以前読んだ本を読み返していますが、是非教育の仕事に従事されている方や色々な分野の指導者の方にお奨めしたいのが、江戸時代末期の佐藤一斎先生が書かれた『言志四録』です。
  これは佐藤一斎が42歳から82歳までの後半生の40余年にわたって書いた語録で、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の全四巻、1133条におよぶ修養処世の心得です。佐藤一斎の門下生として学び、語録によって影響を受けた人々の中には、佐久間象山、勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰、木戸孝允、西郷南州、伊藤博文等数多くの明治の先覚者の名前があげられます。また、小泉元総理大臣が教育関連法案の審議の際、取り上げたため注目されるようになりました。
  この中のいくつかを紹介します。
◇「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず」
  少年時に学べば壮年になって何かをなし、壮年時に学んでおけば老年になっても気力のおとろえはない。老いても学んでおれば社会に役立ち名の朽ちることはない。
◇「学は立志より要なるはなし・・・」
  学問をするには、目的を抱きこれを果たそうとする心を固めることほど大切なことはない。 他から強制されることではなく自分の本心から出たものでなければならない。
◇「艱難汝を玉にす」
  我々が出会う苦しみや悩み、困難のすべては自分の才能を伸ばすために天から与えられたものである。これらを避けるのではなくどう克服するかを考えて行動すれば必ず自己成長をはかることができる。
  
  原書を読むのは大変ですが、多くの解説書が出ていますので、是非一読してください。

2010年01月27日

先人の言葉(森信三 Ⅱ)

  本校の校訓は『高志・自律・努力』ですが、いつの時代にあってもこの三つは人間として非常に大切なものではないかと思います。とりわけ志を立てるということがすべての源であるのは間違いありませんし、過去・現在を問わず社会で認められている人は例外なく高い志を有しています。私の座右の銘の一つは民間企業に勤務している時から『高い志が道を拓く』というものでしたが、本校の校訓の一番目が〝高志〟であるということを知って不思議な縁を感じました。
  今、世の中は大きく変わりつつあり、かつての日本の元気な姿が見られなくなってきていますが、これと共に高い志を持った人も少なくなってきているように思えてなりません。周囲のことや後世のことを考えずに自分の損得や目の前のことだけにとらわれて行動していると、何事もうまくいかなくなってくると思います。
  私は、これまで見聞きした志に関する先人の言葉を書き留めてきました。昨年末からこれらのカードや手帳を取り出して整理していますが、参考になるものがたくさんありますので、順次紹介していくことにします。先般も紹介した教育界の大巨人であった森信三氏は『修身教授録』の中で、次のように語っておられます。
  
  〝私は、人生の真の出発は、志を立てることによって始まると考えるものです。 (中略) 人間はいかにいきるべきであるか、人生をいかに生き貫くべきであるかという一般的心理を自分自身の上に落としてきて、この二度とない人生をいかに生きるかという根本目標を打ち立てることによって、初めて私達の真の人生は始まると思うのです。人間が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは火を点けられて初めて光を放つものです。同様にまた人間は、その志を立てて初めてその人の真価が現れるのです。志を立てない人間というものは、いかに才能のある人でも、結局は酔生夢死の徒にすぎないのです。〟
  実に味わい深い言葉だと思います。

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2010年01月10日

先人の言葉(森 信三 )

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  森信三氏は、戦前・戦後を通じて日本の教育界最大の人物と言われています。その提唱する哲学は実践を重んじ、一年の半数以上をかけて全国行脚を行ない「人間の生き方」を懇切・平易に説き多くの人に感化を与えました。とりわけ「しつけの三原則」「学校職場の再建三原則」を提唱し、主体的人間になるための「立腰教育」等を広めました。例えば、しつけの三原則としては「ハイの返事」「あいさつ」「履物を揃える」の三つであり、これだけをやれば他のしつけはできるようになるというものです。また、膨大な著書を執筆されていますが、とりわけ啓蒙書としての「修身教授録」「幻の講話」は人間の生き方の根幹として広く読まれており、私も手元において時々紐解いています。
 
  この中で印象に残る言葉を紹介します。すべてが分かりやすい言葉で表現されており、凡事徹底の大切さを教示しています。
「人生二度なし」「両方よいことはない」「世の中正直・天は公平」
「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたら、もうだめなんだ」
「結局最後は、『世のため人のため』という所がなくては、真の意味で志とは言いがたい」
「人間、本当にやる気があれば、たいがいのことはできるはずです。できないというのは、本当にする気がないからです」
「一生の志を立てることが根本です。 つまり自分の生涯を貫く志を打ち立てるということです」
「一日は一生の縮図なり」

  本当に一つ一つが味わい深い言葉であり、実践していきたいものです。


2010年01月04日

先人の言葉(王陽明)

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  1月4日(月)、本日から多くの職場で仕事が始まりましたが、皆さんはこの年末年始休暇には帰省、旅行、家の片付けや掃除、読書、学習等それぞれの思いを持って過ごされたのではないかと思います。
  私も今回の休暇にあたっては近くの神社に初詣に出かけた以外はほとんど外出せず、普段できなかった身の回りの掃除や切り抜いた新聞記事の整理や読書をして過ごしました。これまで読んだ本も何冊か読み直してみましたが、人間としてこの世に生を受け充実した人生を送るためには改めて『志を持つ』ことが大切であると感じました。
  このことはいかなる時代にあっても普遍的なものですが、特に現下の混迷する時代を生き抜くためには不可欠のものであると思います。先般、このブログで何回か〝成功者の言葉〟を紹介させていただきましたが、これらの人に共通しているキイワードは〝ゆるぎない志〟です。また、歴史上の人物の書物を紐解いても〝志を立てる〟という言葉が形を変えて随所に出てきます。そして、これらは仕事や勉強に行き詰まった時や弱気になった時に我々を勇気づけてくれると思いますので、これから何回かに分けて紹介していくことにします。
  最初は王陽明の言葉 (明代の儒学者で陽明学の始祖)です。
〝 志が立たないと何事も始まらないし、できない。どんな仕事でも志に基づかないものはない。学問を修め自分を磨こうとせっかく決意しても、ただ漠然と日を過ごして、成果をあげることができないのは、しっかりと志が立っていないからである。志を立てないで事をなすのは、丁度舵のない船やくつわのない馬のようなものである。船が波の間に漂ったり、馬が勝手に走り出してしまったりしてどこへ辿り着くか分らないことになる。従って、学問を修めて自分を磨くためには、何よりもまず志を立てることが大切である。
志が立っていないのは、根の生えていない植物にやたらに水をかけているようなもので、苦労ばかり多くて、一向に成果があがらないものだ。〟

2009年12月18日

成功者の言葉~野口英世博士~

  本日は有名な細菌学者であり、今の千円札の顔にもなっている野口英世博士について紹介します。彼の伝記を読まれた人も多いのではないかと思いますが、野口氏は1876年(明治9年)に福島県で生まれました。
  不幸なことに、幼い頃、いろりに左手を突っ込んで大火傷を負ってしまいます。当時は家にろくなお薬がなかったため、母親は泣きながら毎日神様に必死にお祈りを続けましたが、母親の祈りもむなしく英世の左手はくっついたままになってしまいました。やがて英世は学校に通い始めましたが、左手のことでいじめに遭います。それでも母親は英世を必死で励まし続け、英世はこれに応えて雨の日も、雪の日も、勉強を一生懸命がんばり、恩師となる小林先生と出会います。当時は、身分に限らず、勉強すれば世にはばたくチャンスがある時代であり、先生は英世の才能を見出し、進学のお金を出してくれたのです。 
  進学してからも、英世は一心不乱に勉強に打ち込みます。この姿に胸を打たれた先生や同級生からお金の援助を得て、英世は左手の手術を受け、左手が動くようになります。これに感動した英世は、医者を志します。
  医者を目指し旅立つ際、英世は家の柱に成功するまでふるさとには帰らないという強い決意を込め、「志を得ざれば 再び此地を踏まず」という言葉を残しました。
  その後彼は、より多くの人々を救いたいと考え、世界中で多くの人の力を借りて細菌の研究を重ねました。そして、幾多の挫折や困難を乗り越え、ついに歴史上の大発見と言われる「梅毒スペロヒータ」という細菌を見つけたのです。これにより、非常に多くの人々が救われ、ノーベル賞の候補にもなりました。その後、黄熱病の研究のためアフリカへ向かいましたが、志半ばでその黄熱病にかかり、51歳という若さで亡くなりました。
  また、彼は次のような言葉を残しています。  
〝生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。〟〝努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。〟〝絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。〟
 
  何よりも 「忍耐」「努力」「勉強」の3つを大切にしていたことが分かります。

2009年12月17日

成功者の言葉~三浦綾子氏~

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  今回は、小説家である三浦綾子さんの言葉を紹介します。彼女は1922年(大正11年)に北海道旭川(あさひかわ)市に生まれ、1939年(昭和14年)旭川市立高等女学校を卒業、17歳から7年間小学校教員を勤めました。しかし、間もなく肺結核と脊椎カリエスを併発して13年間の闘病生活を余儀なくされることになりました。この苦しみの中、病床でキリスト教に目覚め受洗され、三浦光世と結婚しました。その後1964年(昭和39年)、朝日新聞社募集の1000万円懸賞小説に『氷点(ひょうてん)』が入選し、斬新な新聞小説として一躍脚光を浴びることになりました。
  彼女は自らを〝病気のデパート〟と呼ぶくらい、肺結核と脊椎カリエスの他、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病等、度重なる病魔に襲われました。それでも常に人生を前向きにとらえ、クリスチャンとしての信仰に根ざした作家活動を積極的に続けられ、『積木の箱』『塩狩峠(しおかりとうげ)』『細川ガラシャ夫人』『天北(てんぽく)原野』『銃口』等、作者の敬虔(けいけん)な信仰世界を投影した作品やエッセイを数多く発表されたのです。
  人間は逆境に陥るとどうしても気持ちが落ち込んでしまいます。特に彼女のように次々と重い病気にかかると、生きる意欲もなくしてしまいがちです。それだけに、彼女の言葉は我々を大いに勇気づけてくれます。

  〝よい習慣を身につけて生活をいっそう充実させ、豊かな人生を送るようにしたい。 一見、マイナスと見える体験というものが、どんなに人を育てるために大事な体験であることか。そのマイナスの体験が、やがて、多くのプラスに変わるのではないだろうか。「死ぬよりほか道がない」などと考えるのは、いかに人間が傲漫であるかということの証左である。道は幾つもある。生きようとする時、必ず道はひらけるのだ。人生には、学ぶべき教材がごろごろところがっている。学校を出ていないということもまた、一つの教材である。貧しいことも、体の弱いことも、失敗も失恋も人との不和も、そしてまた、順境も逆境も、学ぼうと思えば、すべてが教材なのである。〟
 
  このように成功者は例外なく現状を容認し、プラス思考で前向きに行動されています。私も三浦さんの作品を何冊か読みましたが、どれも心に残る素晴らしいものばかりでした。皆さんも是非一度時間を見つけて読まれることをお薦めします。

2009年12月14日

成功者の言葉~松下幸之助氏~

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  一代で松下電器(現、パナソニック)を築いた松下幸之助氏が亡くなられて既に20年以上が経過しましたが、今の混迷した時代の中で松下氏の著書が再び多くの人に読まれているようです。私もかつて数十冊の著書を読みましたが、最近これらを読み返しています。松下氏は小学校しか出ていませんし、体も弱くお金もありませんでした。それだけに松下氏の成功に対する言葉には重みがあります。
  
  〝考えても答えが出ないものもある。答えの出ないものは、自分の足を運んでいって尋ねるとか、なんぼでも方法はあるわけや。君に志があればな。 しかし、志がなかったらあかんわな。 むこうから来てやってくれへんからな。「君こうしたらいい」というようなことは誰も言わへんから、暇を見て、君が足を運んで、教えを請うというようにやらないといかん。 そういうことの有無で違ってくるわけやな。ぼくが松下電器をつくったのは、百円の元手やった。技術も何もあらへん、学校へ行ってへんからな。 それがいつの間にか今日の松下電器ができたわけや。 最初に松下電器をつくったときにそんな夢を言っていたらみんな笑いよったやろうな。 しかし日がたったらできたわけや。だからね、できないことはあらへん。
  「ただぼくが成功できたのは、最初にこれをやろうと思ったことは、志を変えなかったからや。六十五年間、商売というものを一回もやめなかった。もうそれ一筋にやってきたわけや。金が払えん、非常に困ったというときでも、一向に迷わんとやってきた。それでついに今日の松下電器ができたわけや。」・・"志"を立てることに、お金も、学歴も、いらない。〟
  また、松下氏は成功の条件として〝めげることなく辛抱強く、地道な努力を重ねていくことではじめて物事を成し遂げることができる。そしてひとたび志をたてた以上、道にかなったことである限りは、最後の最後まであきらめない。「成功とは成功するまで続けることである」ということを心に止めて生きていくべきである〟と訴えています。
 
  最近は苦しいことを避け、安易な道を選ぼうとする傾向が強くなってきていますが、これでは絶対に成功者になることはできません。現在、受験を間近に控えている人達にとっても、就職活動を行なっている人達にとっても、新たな仕事に取り組んでいる人達にとっても厳しい状況が続いていますが、自らが成長するチャンスであると前向きに受け止め、絶対に諦めず最後までチャレンジし続けて欲しいと思っています。

2009年12月13日

成功者の言葉~本田宗一郎氏~

  本田宗一郎氏は戦後、ゼロから出発した企業を、「世界のホンダ」といわれるまでに育て上げ、日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たすなど、海外での評価の高い技術者であり経営者です。最近の不況下にあっても、ホンダ(本田技研)は比較的元気ですが、「模倣に走らず、独自技術を生み出す」、「人間のために心の通う技術を開発する」という思想は、今でもホンダには脈々と受け継がれているようです。
  本田氏は次の言葉を残しています。
  〝何もやらず、頭から「出来るわけが無い」と決めて掛かる発想が私は一番嫌いである。出来るか否か?って事は、やってみなければわからない事であり、こういうスタンスで挑戦し続ける事が大切です。やる前から「出来る訳が無い」と諦める人は、何事においても「出来るわけが無い」という理由で挑戦すらしません。可能性はゼロ!なんです。「出来るはずだ」と考えてチャレンジする人が、いつの時代も道を切り開いて成果をあげているんですよね。〟また、成功と失敗については発明家のエジソンと全く同じ言葉を残しています。
  〝多くの人々は皆成功を夢見、望んでいるが、成功とは99%の失敗に支えられた1%だと考える〟。つまり、能力の限り未知の荒野に飛び込み、失敗しても原因を徹底的に分析していくことで最後の成功という結果に達することができるのだということです。本田は何度となく逆境に立たされ、それを克服してきました。ホンダが技術水準をあげ、輸出できるような二輪車を製造するため、3、4億もする設備を買い込み、これに販売不振が加わり資金繰りが苦しくなり倒産寸前まで追い詰められていたことがありました。この時、ホンダは 国際的なオートバイレースである「マン島T・Tレース」へ出場するという大きな目標を掲げたのです。当時日本のオートバイの技術は低く、業界は無謀な挑戦と嘲笑したが、「大変な目標だからこそチャレンジする」と激を飛ばし、悪戦苦闘しながらもついには6年後にはグランプリを獲得し、これを契機にホンダのバイクは世界を席巻することになりました。
  以前、松下電器に勤務している時に『班長交流研修』を行なうということで、約一ヵ月ホンダの鈴鹿製作所で勤務したことがありますが、仕事を進める際にはチャレンジの姿勢を基本にしており、「失敗」に対しても表彰しているということを知って驚いたことがあります。
  この例は成功のためには失敗を恐れず挑戦していくことが不可欠であるということを示唆していると思います。

2009年12月12日

成功者の言葉~トーマス・エジソン

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  皆さんもご存じのことと思いますが、トーマス・エジソンは生涯において実に1,300もの発明を行った、アメリカの発明家です。
  エジソンの発明では特に白熱電球が有名ですが、日本との関わりは深いようです。彼は1879年10月、綿糸に煤(すす)とタールを塗って炭化させたフィラメントを使い、45時間輝く白熱電灯の製作に成功しました。しかし、耐久時間45時間では短すぎるため、商品化するには最低600時間は必要と考え、世界中から6,000種類もの材料を取り寄せ実験をしました。そして、ついに京都男山の岩清水八幡の真竹で作ったフィラメントの電球が、2,450時間灯ることを発見しました。八幡の竹は‘94年にセルローズのフィラメントに取って代られるまで、エジソン電灯会社に輸出され、この竹を用いた白熱電球が、毎年2-3000万個世界各国に輸出されるようになったのです。
  エジソンは、竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても、挫折せずに努力し続けたと言われています。これを成功させた時に、「私は実験において失敗など一度たりともしていない。これでは電球は光らないという発見を今までに、1万回してきたのだ。」と語ったと言います。
また、エジソンの有名な言葉に「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」があります。我々は〝あの人は天才で自分とは違う〟と簡単に片付けてしまいがちですが、天才と呼ばれている人の共通点は桁外れの努力にあるのは間違いないように思います。

2009年12月09日

成功者の言葉 ~マイケル・ジョーダン

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  昨日の校長通信で伝えしたように、本日より何回かに分けて成功者の言葉を紹介しますが、最初から成功が約束されていた人は誰もいません。彼らの言葉からは例外なく失敗をし、それを乗り越えることによって成功者になっていることがお解りいただけると思います。
  皆さんはマイケル・ジョーダンという選手を知っていますか?。彼はアメリカ・プロバスケットボール・リーグのスーパースターとしてNBA最優秀選手 5回、シカゴ・ブルズNBA優勝 6回、NBAファイナル最優秀選手 6回という輝かしい経歴の持ち主です。身長は198cm、体重90kg、手のサイズ24cm、靴のサイズ31cmという体格ですが、垂直とびは122㎝、助走をすると150cmという桁外れのジャンプ力を持っており『バスケットの神様』と言われていました。
  このジョーダン選手は「私は9千本以上のシュートをミスした。300の試合に負けた。ウイニングショットを26回もはずした。私は生涯の中で、何度も何度も失敗を繰り返してきた。」と自分の失敗を明確に語っていますが、この言葉の最後は「そして、それが私の成功の理由だ。」という言葉で締めくくられています。
  また彼は「成功の反対は失敗ではない。挑戦しないことである」「新しいことを始めるのは怖くない。怖いのは、新しいことを始めなくなることだ。」「まだできるとわかっていて去ることを選んだ。ずっと辞めるときはそうしたいと思ってきた。」「飛んでいるかどうかは分からないけど、足に小さな翼がついているように感じることは時々ある。 」「僕の闘争心は、これまでに会った誰よりも遙かにすごいと感じている。 」「才能は勝利をもたらすが、チームワークと知性は優勝をもたらす。」という数々の名言も残しています。
  マイケル・ジョーダンは身体的な能力もさることながら、負けず嫌いと精神力はずば抜けたものがあったようです。大切なのは心の持ち方です。皆さんにはどうか失敗を恐れず勇気を出して何事にも挑戦し、たとえ失敗してもくじけず再挑戦して欲しいと思っています。

2009年12月08日

人生は成功と失敗の連続

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  今年も残り少なくなってまいりました。今は上級学校への受験を目指す人、就職活動をする人、資格取得を目指す人、企業の経営改善に取り組む人等それぞれの立場で懸命に努力されていると思いますが、人生においては努力してもなかなか思い通りの成果に結びつかないということも多いのです。 しかし、この時にどういう行動をとるかによって、その後成功するか失敗するかが決まることになります。
 古今東西、成功者といわれている人は、どういう状況になっても前向きに受け止め、決して諦めることはありません。うまくいかないとすぐ諦めてしまう人がいますが、これでは自ら成功への道を閉ざしてしまうことになるのです。
 人間の一生は成功と失敗の連続です。成功し続けることも失敗し続けることもありません。また、高い目標を設定すればするほど失敗のリスクは高まってきます。ミスや失敗は決して喜ぶべきものではありませんが、何事をするにも、失敗したらどうしようという思いが先に立つとなかなか手を出せなくなりますし、往々にして達成可能なレベルまで目標を引き下げることになりがちです。このことを繰り返していては決して充実した人生を送ることはできないでしょう。
 目標に近づこうとする過程においては、失敗することがあるかも知れませんが、失敗があるから次の成功があることを忘れてはなりません。"失敗の後の一歩から道が拓ける〟のです。成功者は例外なく〝成功した理由は失敗してきたから〟と言っています。
 皆さんは是非高い目標を持って失敗を恐れずチャレンジして欲しいものです。そのため、これから何回かに分けて成功者の考え方や行動を紹介していきたいと思っています。

2009年11月27日

一商人たるの観念

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  11月27日(金)はパナソニック(前、松下電器)の創業者である松下幸之助氏の誕生日であり、この日はかつて電器店の間で『商いの日』と呼ばれていたようです。今回は松下氏に関するエピソードを紹介します。
  松下氏は創業間もない頃〝松下電器が将来いかに大をなすとも一商人たるの観念を忘れず・・・〟ということを常に言っておられたようです。ある時マスコミの方から「一商人とはどういうことなのか」という質問をされ、次のように答えました。
  一つ目は、商売の何たるかを誰よりも良く知っている。
言い換えると〝仕事のプロ〟ということです。
  二つ目は、相手の立場に立って物事を考え行動するということです。
  三つ目は、相手様よりも深々と頭を下げることができる。
つまり〝感謝とおわびの気持ち〟を持つということです。
  この三つのことは別に商人に限ったことではなくすべての仕事にあてはまると思っています。
〝自分の担当している仕事のプロとは〟〝相手の立場に立つとは〟〝感謝とおわびとは〟どういうことなのか、各人が今一度考えてみたいものです。

2009年10月23日

安岡正篤氏について

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  昨日、小野晋也氏が取り上げた九人の先達の中で、安岡正篤氏についてはあまり知らないと答えた人が多かったようです。安岡正篤氏は人の道・国家と指導者のあり方を説き不朽の人間学によって社会を啓発した人間学・陽明学者であり、昭和の碩学(学識の広く深い人)です。
  安岡正篤は、孔子・孟子や老子・荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理についての造詣が深く、そのテーマは国家治乱興亡の歴史、英雄・先覚者の人間像、科学と産業、教育と道徳、人生と家庭、経営と行政、自然と環境など、実に多くの領域にわたっています。その凝縮したものが人の道と指導者のあり方に関する教えであり、安岡人間学(人物学)と言われています。そして、吉田茂や佐藤栄作、中曽根康弘といった昭和を代表する歴代の首相や三菱グループ、住友グループ、近鉄グループ、東京電力等の多くの財界人に師と仰がれました。また、「平成」の元号の考案者でもあります。
同氏は「思考の三原則」として次の三つのことを取り上げておられます。
  一、目先にとらわれず、長い目で見ること
  二、物事の一面だけを見ないで、出来るだけ多面的全面的に観察すること
  三、枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察すること
  まさに、現在のような混迷かつ激動の時代には非常に大切な味わい深いものがあります。我々の周りを見ると、あまりにも目先のことにとらわれ、物事の一面だけを見、枝葉末節なことにこだわっていることが多いように感じています。今一度、自分自身の言動を見つめ直してみることが必要ではないかと思っています。

2009年10月22日

本物に学ぶ生き方

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  この度、旧知の小野晋也氏より『本物に学ぶ生き方(致知出版社)』を恵贈いただきました。同氏は1955年愛媛県の新居浜市生まれで東京大学の航空学専修修士課程を終了後、松下政経塾に第一期生として入塾、その後愛媛県の県会議員を経て1993年38歳で衆議院議員に初当選、5期勤められ、この度の衆議院選では立候補せず引退されました。この間人間教育と新しい文明創出を目的とする『OAK TREE運動(思いやりある政治、足で歩く政治、考える政治)』を主催されており、月刊誌OAKを発刊されています。また、人間の生き方や考え方、幸福を考える『永田町人間講座』を主催し、超党派の国会議員や政治関係者と共に「人間学」の普及、啓蒙活動を展開してこられました。今回の著書には人間力養成の道として九人の先達の教えが紹介されています。私も一気に読破しましたが、実に数多くの味わい深い内容が盛り込まれており、感銘を受けました。
  この後、身近な10数人の方にこれらの人を知っているかどうかを質問しましたが、すべて知っているという人は皆無でした。その九人とは、安岡正篤、新渡戸稲造、吉田松陰、森信三、山田方谷、伊庭貞剛、二宮尊徳、石田梅岩、西郷隆盛です。
  皆さんも機会があれば一度この本を読んでいただきたいものです。きっと得るところがあると思っています。

2009年09月27日

イチロー選手の習慣

  今年も大リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手が「前人未到の9年連続の200本安打」を達成しました。彼はこれまで数々の記録を塗り替えてきていますが、その度のコメントを聞くと実に参考になる内容が含まれています。そのいくつかを以下に紹介します。
    ①日米通産2000本安打を達成/2004年5月
      〝次の目標は次のヒットです〟
    ②メジャー最高の258安打を達成/2004年10月
      〝小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道〟
    ③9年連続メジャー年間200安打を達成/2009年9月
      〝夢や目標を達成するには一つしか方法はない。
       小さなことを積み重ねること。
       200本の達成にはそこに至る199本のプロセスが重要だった。〟
  これからも分かるようにイチロー選手は常に同じ状態で打席に入り、同じように安打を重ねることを心がけているようですが、試合のある日の生活パターンも全く変わらないようです。
  10:30起床、 12:00昼食(いつもカレー)、13:00自宅を出発、
  13:30 個人練習(一人でストレッチ、マッサージ )、
  15:30 他の選手が到着、16:30 全体練習、
  17:30食事(いつもおにぎり)、19:00試合開始、 22:00試合終了、
  23:00 帰宅、23:30食事・トレーニング、1:30就寝(9時間睡眠)
また、遠征中の食事は必ず30分以内にトレーニング施設のある所で摂る、試合のない日もトレーニングを欠かさない、決して夜遊びはしない、とのことです。イチロー選手はトレーニングしなければならないとか努力しているという思いはなく、習慣化されているのです。
  このように良い習慣をつけることができれば私達もきっと大きな目標を達成できるのではないかと思います。

2009年09月24日

高い目標を掲げ共有する

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  90カ国以上の首脳が参加した『国連気候変動サミット』において、鳩山首相は〝2020年までに温室効果ガスを1990年比25%削減する〟ということを宣言しました。この数値については日本経団連をはじめ経済界からは大きな反発があることは事実ですし、チャレンジャブルな目標であるのは間違いありません。しかし、日本が国際公約したことは事実であり、この目標は何としても達成しなければなりません。もし、この目標が未達成ということになれば日本は完全に国際社会から信用されなくなってしまいます。
  私が以前勤務していたパナソニックの創業者である松下幸之助氏は、貿易自由化という大きな潮流の中でトヨタからカーラジオの納入価格について即刻5%、半年後に20%という大幅値引きを要求され、幹部社員が困っていた際、次のように答えたそうです。〝松下がトヨタさんの立場であれば同じ要求をしていたかも知れない。コストダウンというのは5~10%を目標にしていたのでは安い材料に変えるといった小手先だけの対応になってしまう。ゼロベースから設計を見直すことが大切である。これを達成できればトヨタさんだけでなく世界中で通用する商品になる。これは松下にとっては大チャンスである。〟
  
  このエピソードは何事においても前向きに考え行動することが大切であることを我々に示唆しています。今回の温室効果ガスの削減目標について異を唱えているだけではいつまで経っても前には進みません。国際社会における地位が年々低下している日本の存在感を示すためにも全国民がこの目標を共有し取り組んでいかなければならないと思っています。

2009年08月01日

松原泰道氏の教え~明珠在掌

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  私の愛読書の一つに『致知』があります。この本は人間学を学ぶ月刊誌ですが、一般の書店には販売されていません。私がこの本と出会ったのは10年以上前になりますが、安岡正篤先生をはじめさまざまな人物の考えや生き様が紹介されており、非常に学ぶことが多いように感じています。
  毎月、巻頭の言葉が紹介されますが、最近はウシオ電機会長の牛尾治朗氏、アサヒビール名誉顧問の中條高徳氏、それに仏教の宗派を超えて「つじ説法」を行なう『南無の会』会長の松原泰道氏の3人がリレーで執筆されています。
  今月号は松原泰道氏でしたが『明珠在掌(みょうじゅざいしょう)』という禅の言葉が紹介されていました。これは〝その大切な象徴が手のひら、至近の距離の中にある〟ことを説いている禅語です。今回、同氏は幸せの青い鳥を求めて旅に出たチルチルとミチルが旅の末に幸せは身近なところにあることに気づく『青い鳥』という童話や〝極楽は眉毛の上のつるしもの あまり近さに見つけざりけり〟という道元禅師の言葉を引用されています。そして、「私達は肝心の《いま、ここ》を捨て、どこかよそに幸せを求めていきがちであるが、それは決して幸福を得る道ではない。幸福とは他から与えられるものではなく、自ら発見してつかみとっていくものである。与えられるものを待っているのではなく、マイナスの中にプラスを発見し、耕していくところに人生の生きがいはある。両手の掌に鋤(すき)や鍬(くわ)を持って一所懸命に耕していくことによって掌の中に明珠がつくられていく。幸福は足下にあり。このことを忘れず日々の生活の中から幸福を見出し、豊かな人生を築いていきたいものです。」という言葉で締めくくられています。
  私はこの言葉に大いに感銘を受けましたが、これが松原泰道氏の最後の巻頭言になりました。同氏は7月29日に肺炎のため101歳の生涯を閉じられたのです。数多くの著書がありますが、代表作である『般若心経入門』を一度紐解いてみてください。


    

2009年05月14日

伸るか 反るかの体験

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  人の人生は一回きりで後戻りはできませんが、人生を送るにあたって何事に対しても挑戦する姿勢をとる人と失敗することを恐れて挑戦することを避ける人がいます。挑戦しなければ失敗することはないかもしれませんが、このような姿勢をとり続ける限り最終的に成功することは絶対にありません。人は伸るか(のるか)反るか(そるか)という経験を積まなければ人間的に成長することは絶対にできません。何故なら挑戦しないということは自らの潜在能力を殺してしまうことになるのです。昨今は経済不況という世相を反映して、一人ひとりの行動が縮こまっている、言い換えると〝石橋を叩いても渡らない〟というケースが散見されます。しかし、このような時にこそ新たなことに果敢に挑戦していくことが必要なのです。本学園の初代理事長である鳥井信治郎氏はチャレンジすることの大切さを訴えられ、常に「やってみなはれ。やらな わかりまへんで。」ということを言い続けておられました。
  今、実社会において何か新しいことに取り組もうとすると、即座に「難しい」という答えが返ってくる場合が往々にしてあります。そして、「人がいない。お金がない。モノがない。時間がない。」というできない理由が次々と出てきます。このくり返しではいつまで経っても状況は変わりません。行動に起こさなければ、問題を先送りするだけです。特に現代のように変化の激しい時代には新たなことに取り組んでいくという姿勢が何よりも大切であると感じています。

2009年03月27日

成功者と失敗者の条件

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  先日、あるお店に入ると『成功者と失敗者の条件』という言葉が掲げられていました。なかなか参考になる内容なので、紹介したいと思います。
 成功者は              失敗者は  
  人間的成長を求め続ける。      条件に甘える。現状から逃げる。
  自信と誇りを持つ。           ぐちっぽくなり、言い訳を言う。
  常に明確な目標を指向する。     目標が漠然としている。
  他人の幸福に役立つ喜びを持つ。  自分が傷つくことは回避する。
  自己訓練を習慣化する。        気まぐれで場当たり的。
  失敗も成功のプロセスと受け取る。  失敗を恐れて何もしない。
  今ここに全力投球する。         いつかやるといって引き延ばす。
  自己投資を続ける。           途中で投げ出す。
  何事も信じ行動することができる。  不信感が先に立ち行動できない。
  時間を有効に活用、段取りする。   時間を主体的に創ろうとしない。
  できる方法を考える。          できない理由が先にでる。
  可能性に挑戦し続ける。        安全圏の殻に閉じこもって不可能と思う。
 自分自身の日常の行動を今一度振り返ってみたいものです。

2009年03月18日

2つの耳鳴り~松下幸之助氏の憂い

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  上甲晃氏にとって、もう1つの耳鳴りは松下幸之助氏の憂いの声です。数十年前、松下幸之助氏は自らの経験と直感から〝自分のことしか考えられなくなったら必ずゆきづまる。これは人間でも会社でも国家でも同じことである。今は残念ながら目先のことしか考えない人が増えてきているし、本来日本という国の進路を示す立場の政治家も将来のことを考えていない。言い換えると『国家百年の計』を持った政治家がいない。このままの政治が続けば必ず日本は衰退する。〟と今日の日本の危機的状況を予見しておられたようです。この危機感が募り、1980年に70億円という私財を投げ打って松下政経塾を開塾されることになったのです。
  また、松下氏は〝これまでの世界の歴史を見ると、繁栄は古代オリエントからヨーロッパへ、更にアメリカへと西に移ってきている。大きな歴史の流れから見ると21世紀は東アジアが中心になるのは間違いない。ここに位置する日本は大繁栄を遂げるはずである。但し、その前提は日本が国家百年の計を有しているかどうか、つまり、日本をどのような国にするのかという国家の理念と方針が明確になっているということである。〟と言っておられました。現在、松下政経塾出身者の多くは国、地方で政治に携わっておられますが、果たして松下氏の熱い思いが伝わっているのでしょうか。
  今の日本の政治を見ると、経済、防衛、福祉、医療、教育、食料・エネルギーなど多くの分野において非常事態にもかかわらず、国家としてのビジョンが明確になっているとは思えません。また、言葉尻を捉えたり、人の失策を暴き立てるような現象が目に付きます。まさに日本丸という船が進むべき方向がわからず迷走しているように思えてなりません。今こそ、国民一人ひとりがしっかりと自立し、自分のことだけではなく、まわりのことを考えて行動していかなければならないのではないかと感じています。

2009年03月17日

二つの耳鳴り~会田雄次氏の憂い

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  箱根会議において、上甲晃氏が話された『二つの耳鳴り』について紹介します。
  "私は60歳を超えてから、2つの耳鳴りが始まったが、最近とみにこれが大きくなってきている。 一つは、大学時代の恩師である会田雄次氏が語っておられた言葉であり、もう一つは松下政経塾での松下幸之助氏の言葉である。
  会田先生は当時学生であった私達に対し「君達が日本を動かすようになる時のことを本当に心配している」と常に言っておられた。最初は何のことか解らず、あまり気にもかけていなかったが、最近になってこの意味が解るようになってきた。私は小泉元首相や麻生首相と同じ年であるが、会田先生が一番心配しておられた世代が今、日本を動かす立場になってきている。
  我々の世代がこれまでの世代と決定的に違うのは、戦後の教育を受けてきたということである。戦後アメリカが日本という国に対して考えたのは「二度と日本がアメリカに刃向かうことのないようにする」ということであった。端的に言うとそれは日本人を骨抜きにすることであり、日本人としての精神的支柱を取り除くということであった。そのために最重点として行ったのが、戦後の教育に関して「してはならない」という三つのタブーを作るということであった。これらは ①日本人としての誇りを感じる「歴史教育」をしてはならない ②修身といわれる「道徳教育」をしてはならない ③人間を超える偉大な存在である神や仏を尊ぶという「宗教教育」をしてはならない というものであった。
  正しい歴史観を持つ、人の道をはずさない、神や天が見ている、という三つのことは、人間としての基本である。戦前の教育はこの三つをベースとして構成されていた。しかし最近は、残念なことに自分の国のことを悪く言い、人の嫌がることを平気で行ない、やさしさや思いやりや感謝の気持ちを持たず、自分のことしか考えない人間が増えてきている。さまざまな偽装事件が起きるのは当たり前であると思う。"
  昔から「ある国を滅ぼそうと思ったら武器は要らない。教育を駄目にすれば良い」ということが言われていますが、私もこの言葉の重みを痛感しています。本来、日本は世界で一番古い伝統を持つ国であり、日本人は清らかで思いやりや優しさの心を持つ国民であったはずです。日本の良き伝統や高邁な精神を取り戻し、誇りと自信を持っていきたいものです。
   ≪会田雄次≫ 1916~1997年、 歴史学者、京都大学名誉教授、
             主な著書 日本の運命、日本人の生き方、アーロン収容所等

2009年03月04日

前向きに行動する

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  本学園の初代理事長である鳥井信治郎氏はチャレンジすることの大切さを常々「やってみなはれ。やらな わかりまへんで。」という言葉で語られていました。また、松下幸之助氏も「砂糖の甘さ 塩の辛さはなめてみないとわからない。いくら水泳の講義を聞き畳の上で練習を重ねたとしても やはり実際に水につかり 不覚の水も飲まないと泳ぎは身につかない。」と行動することの尊さを訴えておられました。このように、社会で活躍してきた人は例外なく失敗を恐れずに、常にチャレンジする気持ちで積極的な人生を歩んでこられたように思います。
  しかし、実社会において何か新しいことに取り組もうとすると、即座に「難しい」という答えが返ってくる場合が往々にしてあります。そして、「人がいない。お金がない。モノがない。時間がない。」というできない理由が次々と出てきます。このくり返しではいつまで経っても状況は変わりません。〝進歩なきものは退歩である〟という言葉がありますが、特に現代のように変化の激しい時代には新たなことに取り組んでいくという姿勢が不可欠です。
  昨今、同じ業界や分野を見ても、うまくいっているところとうまくいっていないところの差が大きくなってきています。つまり二極(分)化が進んできているのです。このような時代にはまずやってみる。もし出された案に賛同できないなら〝自分ならこうする〟という代替案を示し、前向きに行動していくことが必要です。
  将来、生徒達が実社会で活躍していくためにも、学校生活においてこのような姿勢を身につけさせていきたいと思っています。

2009年02月18日

強い思いを持ち、諦めずに続ける

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  2月18日(水)、本年度最後となる中学生対象の全校朝礼を行ないました。
月日の経つのは早いもので、あと1ヶ月で3年生はいよいよ中学を卒業することになります。そして4月にはそれぞれの学年の生徒は2年生、3年生に進級し、新たに1年生を迎えることになります。
そのため、全生徒にこれからの1ヶ月、しっかりと学校生活を送るようにお願いした後、バレンタインデーの由来と何故この日に日本でチョコレートを贈るようになったかについて話をしました。(バレンタインデーの由来については以前このブログで紹介しているため省略)
  〝バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は日本独自のものです。この習慣を根付かせるまでにはチョコレートメーカーの必死の取り組みがありました。今から51年前のことです。日本では羊羹や饅頭といったお菓子が中心でチョコレートの売り上げは今一歩という状況であったため、メーカーとしては何とか売り上げを伸ばしたいと考えていました。そのような時に、メリーチョコレートの原邦生氏のところにパリの先輩から一枚の絵葉書が贈られてきました。その葉書には「ヨーロッパではバレンタインデーに花やケーキなどの贈り物をする」ということが書かれてあったのです。これにヒントを得て新宿の伊勢丹デパートで売り出しを行ないましたが、この企画は売り上げがわずか170円という惨憺たる結果に終わりました。それでも原氏はその翌年にハート型のチョコレートを作り、「女性から男化性へ、年一度の愛を告白する日」というカードを添えて売り出したのです。また、森永製菓が新聞でバレンタイン特集を組む等メーカーがさまざまな宣伝を行ないました。こういった永年の努力が実を結び、今ではバレンタイン関連だけで年間売り上げの12%~15%を占めるまでになってきました。そして、創意工夫を生かした色々なチョコレートが作られるようになってきたのです。
  販売を伸ばしたいという強い気持ちがなければこの習慣は根付かなかったでしょう。この例でも解るように、何事にもしっかりとした思いを持つことが大切です。また、一度くらい失敗したと言って諦めてしまえば、絶対に成功することはありません。自分が〝こうしたい、このようになりたいという強い思い〟を持っていれば、ヒントはどこにでもあります。また目標が高ければ一度で成功するということはまずありません。
  皆さんはしっかりとした目標を持ち、例え失敗してもくじけずにやり続けるという姿勢を貫いてください。そうすれば自ずと道は拓けると思います。〟

2009年02月08日

紙一重の差

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  何事を行なうにもしっかりとした目標を持つということは非常に大切ですが、血のにじむような努力しても目標が達成できないこともあれば、ごく通常の努力が報われて達成できることもあります。このように必ず物事には〝できた、できなかった〟〝うまくいった、いかなかった〟というように「成功と失敗」「達成と未達成」といった結果が生じます。そして、有頂天になったり逆に落ち込んだりしがちですが、この時の受け止め方で今後その人が成長するか否かが決まるのです。例え失敗してもその原因を素直に受け止め、〝これは非常に良い体験だった〟〝貴重な教訓になった〟〝高い授業料だったが次に活かそう〟というところまで心を開く人は後日間違いなく進歩し成長します。一方、失敗を他の責任や運の悪さに転嫁する人は決して成長は期待できません。
  また、気をつけなくてはならないのは失敗した時よりもむしろ成功した時かも知れません。成功してもある人は〝これで十分だ〟と考え、もう一人は〝たまたま運が良かった。まだ足りないところがあったのではないか。足りないところは更に改善しよう〟と考える。このような言わば『紙一重の差』が大きな成果の違いを生むことになるのです。これで十分だと思うと努力を怠り成長や進歩はとまってしまいます。何事も百点満点ということはないのです。
  永い人生においては失敗し続けることもなければ、成功し続けることもありません。言い換えると失敗と成功の繰り返しではないかと思います。失敗しても成功しても、常に謙虚な姿勢で素直に反省し日々努力を傾注していきたいものです。

2009年01月26日

ポジティブ・シンキングの薦め

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  私達の思想は得てしてネガティブな場合が多いのですが、昨今の世相を反映して、この傾向はますます強まってきているように思います。そのため何かに挑もうとしても失敗することを恐れて、ついしり込みしてしまうケースが多いようです。
  先日、手帳を整理していると以前に読んだノーマン・ビンセント・ピール博士の『積極的考え方の力』(1964年:相沢勉氏訳 ダイヤモンド社)の中にある「幸せな人生を送るためには自分自身を信じなさい。つまり〝自分はできる、だからそれに挑むのだ〟というポジティブ・シンキングによって人生が変わる。」という言葉を見つけました。ピール博士はアメリカの有名な牧師であり、1952年に『The Power of Positive Thinking』を出版されましたが、これを和訳したのが、前述の「積極的考え方の力」です。
  人生を送るに当たって挑戦しなければ失敗することはないかもしれませんが、成功することは絶対にありません。更に挑戦しないのは自らの潜在能力を殺してしまうことになるということに気がつかなくてはなりません。やろうか、やるまいかどうかを迷った時は〝やる〟、行こうか、行くまいかどうかを迷った時には〝行く〟といった積極的な行動をとっていくことが充実した人生を送るためには 非常に大切であると思っています。

2009年01月25日

なるようになる

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  毎年1月最後の日曜日には酬恩庵一休寺で『一休善哉(ぜんざい)の日』の行事が開催されます。今日は日頃の運動不足の解消も兼ねて徒歩で50分かけて参加しました。この寺はかつて妙勝寺と呼ばれ荒廃していましたが、〝とんち〟で名高い一休さんが再興されたため、一般的には一休寺と呼ばれており、現在は臨済宗大徳寺派の禅寺になっています。
  一休禅師は大徳寺の住職からお餅の入った小豆汁をご馳走になり善哉此汁(よきかな この汁)と言われたことから善哉と呼ばれるようになったようです。
最初にいただいた絵馬に今年一年の誓いを書き、一休禅師像の前で般若心経を唱え、続いて座禅を組みました。この後、住職から一休さんのエピソードを含めたお話をいただきました。
  〝一休さんは88歳で亡くなりましたが、自分の死後揉め事が起こることを予想して、「ゆきづまった時やどうしようもなくなった時には、この遺書を読みなさい」と言って、遺書を本堂内に埋めたそうです。その予想が的中し、弟子達がこの遺書を開いて見ると「心配するな なるようになる」と書かれていたとのことです。現在は厳しい状況ですが、単に誓いを掲げお願いするだけではなく、精進することが大切です。是非皆さんも日々研鑽を続けてください。〟
  最後に世界の平和を祈った絵馬を奉納し、温かい善哉をいただきすっきりとした気持ちで帰途に着きました。どのような逆境であっても前向きに努力することによって、道を切り開いていくことが大切であると感じています。
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2009年01月03日

今年の行動指針

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  〝一年の計は元旦にあり〟という言葉がありますが、新しい年を迎えて自分なりの決意を胸にスタートされた人も多いのではないかと思います。私もこれまで毎年年頭に行動指針を決めていますが、正直なところなかなか適切な言葉が見つからず、一時は昨年の行動指針である『一灯照隅 活機応変』を継続しようと考えていました。しかし、現在の経済情勢はまさに100年に一度の世界同時大不況であり、ほとんどの人がこのような経験をしたことがないものです。
  『漢書』律暦志によると、今年の干支である「丑」は「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)で、芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされており、これから世界や日本経済がどのように推移していくのかは全く予断を許さない状況です。このような中ではともすると不安ばかりが先行し、あれこれと頭の中で考え行動が萎縮することになりがちですが、これではこの難局を乗り切ることはできません。大切なことは課題を先送りせずまず勇気を持って行動することではないかと考え、今年の行動指針を『動中の工夫は静中に勝ること百千億倍』ということにしました。この言葉は江戸時代中期の臨済禅の復興者と言われている白隠禅師の言葉ですが、〝現状をリスクととらまえるのではなくチャンスであると前向きに受け止め、行動を起こし視野を広げていくことが新しい発想を生み出すことになる〟という意味です。  
  今年一年は未来を切り拓くという積極的な姿勢で行動していきたいと思っています。

2008年12月05日

自分の頭で考えなはれ~上甲晃先生の講演から

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  先日の上甲晃先生の講演では、人を育てるさまざまなキーワードが示されました。その中で印象に残った一つが松下幸之助氏の口癖であった“自分の頭で考えなはれ”という言葉です。松下政経塾の教育方針も“自修自得”つまり自ら問いを発し自ら考えるということであったようです。
  今の学校教育の最大の弱点は“与えられた問題をいかに的確に解くか”という能力が重要視されるあまり、自ら課題を見つけ出して解決するという能力が身についていないということです。学校では、先生は常に問題を出します。解らない事があれば生徒はすぐに先生に質問をし、先生は生徒達に答えを教えています。通常直ちに答えを教えてくれる先生は良い先生であり、そうでない先生は人気がありませんが、これでは本当の学力は身につきません。
  生徒達はやがて社会人となりますが、一般社会では答えを自ら導き出さなければなりません。言い換えると自ら問題を作り出し、その上で自ら答えを見つけ出していく力が大切なのです。わかりやすいようにメーカーの新製品開発を例にとると、どのような商品が売れるのかを自ら考えていかなければなりません。お客様がどのような商品を望んでいるのか、今はどういうことに不満を持っているのか、安い価格、安心、安全、快適を追求するためにはどうすれば良いのか等、智恵を絞り出していかなければなりません。また、正しい答えが一つということではなく数多くあるのです。
  本校の教育方針は〝将来社会で活躍する人材の育成〟ですが、“社会で役立つ力”を育てるためには、先生がすぐに答えを示すのではなく、自分の頭で考え抜くという習慣を身につけさせることが不可欠です。このために今後カリキュラムや授業の見直しをはかっていきたいと思っています。

2008年10月06日

鳥井信治郎理事長の話

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  学園が創立された昭和二十年代の歴史を紐解くと、初代理事長である鳥井信治郎氏の「どうや、うまくいっているか、なんか困っている事はないか・・・」という心温まる言葉や支援を受けて、PTA・教職員・児童生徒が力を合わせて、学校をつくってきた様子が記されています。それぞれが土や砂を運び、草を刈って運動場や砂場をつくっていったようです。
  入学式や卒業式には、鳥井理事長が出席されて話をされましたが、その内容は決まって親孝行の話であり、朝起きたら、保護者に”お早う”、学校から帰ったら”ただ今”と言い、夜、寝るときは”お休みなさい”と挨拶しなさい。「親孝行の出来る人は、人間としても立派になれる」というものでありました。
今でも学園には鳥井先生の「親孝行な人は どんなことでも りっぱにできます。」という言葉が残っていますし、創立の精神にもこのことが明確に表記されていますので次に全文を掲げてみます。

  〝孝道を人間の根本義と考え、社会のために尽くす精神を最も尊重し、より良い社会、国家を生み出すべく心を素直にもち、すべてに感謝の念を捧げ、健康な体力とたくましい実践力をもつ強い人間を創る事を念願しています。〟

  また、理事長が社長を勤められていた寿屋(現サントリー)の新聞広告には「祝祭日には日の丸を掲げましょう」と必ず書いてあったそうです。
  以上の事からもわかるように、「保護者に孝行する人」「国を愛する国民」というのが鳥井理事長の精神であり、現在も雲雀丘学園の教育方針として受け継がれています。
よく雲雀丘学園の良き伝統ということが話題になりますが、今一度創立の精神の持つ意味をしっかりと見つめ直してみたいものです。

2008年10月05日

初代理事長鳥井信治郎氏について

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  雲雀丘学園の歴史を紐解くとサントリーの創始者である鳥井信治郎氏による絶大な支援があったということがわかります。 この鳥井信治郎先生が雲雀丘学園の初代理事長に就任するに至った経緯とその後の学園との関わりについて紹介します。
  私立学校として学園創立にあたっては、理事会組織が必要となります。そこで、当時川西市寺畑に在住されていた当時寿屋( 現サントリー株式会社 )の創始者であった鳥井信治郎氏に是非理事として名前を連ねていただきたいと懇願したところ、快くご承諾いただきました。
  その後、学園の発展につれて、多大の経費が必要になったが、すべて鳥井理事長にお願いすることが多くなったようです。例えば、現在の高校校舎から中央棟・校庭にいたるあたりは鳥井理事長の私有地であったが、昭和28年度に学園中学校創設あたり、11,079㎡(約3千坪)を校地として学園に寄贈されている。(当時は中学校用地として活用された。現在の高校校舎は当時建てられた中学校校舎です。)
  すなわち、雲雀丘学園の経費の多くの部分、土地や建築費などが理事長の【陰徳】としての出資であったと言っても過言ではないでしょう。
  このように、雲雀丘学園は、鳥井理事長をはじめ保護者・教職員全体の協力で出来た学園です。当時の「新聞」紙上では本学園を称して“持ち寄り学校”と書かれた記事があるぐらいです。  従って、以上のような学園成立・運営の実態から学園理念の「生徒」・「保護者」・「教師」 三位一体の理念が育まれたと考えられます。
                            《続く》

2008年04月28日

凡事徹底~成長する人と会社

  前回、紹介した鍵山秀三郎氏は自らの掃除の体験を通じて、次のように語られています。
「人間は自分の眼でみているもの、感じているものに気持ちがだんだん似ていくのです。どんなに貧しくてもきれいにすることは誰でも出来ることなんです。私は心の荒みが大嫌いで、どれだけ財を手にしても心が荒んでいてはいけない。汚いところをきれいにすれば心の荒みというのは消えていくと思っています。どんなにまずしくても、その貧しい中で、できるだけきれいにして、整頓していくと心というものは清々しくなっていきます。そんなになりたいなあと思って今まで生きてきました。」
  そして、「誰もがやろうとすれば出来る平凡なことを、人が驚くほど続けている人が偉大な人間である。」と言っておられます。
  また、鍵山氏は〝人に迷惑をかけない。人を喜ばせる。〟という信条がベースになっています。この基本の考え方は、仕事は相手に喜んでもらうということが大切であるという会社経営の姿勢にも現れています。今でも語り継がれている次のような有名なエピソードがあります。
  創業されて間もない頃、車のタイヤの交換に来られたお客様に、前輪と後輪を入れ替えてもう少し、長く使われることを勧めて、無料でタイヤの交換をしてあげられました。後になって、そのお客様の会社の車の新しいタイヤとの交換はすべて鍵山さんの会社に依頼されることになったとのことです。
  このように、凡事徹底を大切にしている個人や会社は例外なく成長していくという事実を受け止めておきたいものです。

2008年04月27日

凡事徹底~トイレを磨く

  鍵山秀三郎氏はイエローハットを設立、一代で東証一部上場企業に育て上げられ、現在同社の相談役として後進の指導にあたられています。また、「日本を美しくする会」を通じて、人々に掃除の大切さを訴えておられます。
  鍵山氏は1933年(昭和8年)5人兄弟の末っ子として生まれ、1953年に単身東京に出てデトロイト商会に入社し、1961年に退社。株式会社ローヤル(後のイエローハット)を設立されました。鍵山氏は「トイレが汚れていると人の心が荒む」という考えに立って、自分の会社のトイレを従業員と共に磨き続けました。その後1993年(平成5年)岐阜県明智町「日本大正村」という山間の小さな町のある集まりに参加され「トイレがきれいになると会社が変わる」と話されたところ、「この明智町でやりたい」ということになり、掃除の会を開催されました。これが契機となって学校のトイレ掃除の活動が始まり「日本を美しくする会」となって全国に広まり、現在では日本全国47都道府県の98ヶ所のみならず、その輪は海外にまで広がり、ブラジル・中国・ニューヨーク・台湾にも設立され、10万人が参加されています。
  「掃除に学ぶ会」の趣旨は、掃除を通じて自己修練を行ない、平凡なことを徹底して行ない「凡事徹底」「人を喜ばす」「気づく人になる」という、人間性の確立を目指すというものです。簡単なこと、当たり前のことを続けていくことが、人間として成長することに繋がると痛感しています。

2008年04月25日

凡事徹底~身のまわりの掃除

  これまで、凡事徹底することの大切さをお話してきましたが、もう一度松下幸之助氏と上甲晃氏のエピソードを紹介します。松下氏は、昭和55年(1980年)、85歳の時に〝百年かけてどういう日本をつくるかという根本の設計図を書ける政治家を育てる。〟という強い思いで、私財70億円を投じ、松下政経塾の開塾を発表しました。この呼びかけに応じて、日本全国から多数の応募者があり、厳しい選考の後、第一期となる入塾者が決定しました。そして、世間が注目する中、いよいよ入塾式の日を迎えることになり、塾生達は松下氏がどのような話をされるのか、一言一句聞き漏らすまいという気持ちで、入塾式に臨んだようです。ところが、松下氏からは次のような思いがけない言葉が発せられました。「君達はまず自分の身のまわりを掃除することから始めなさい。」この言葉を聞いた人の中には、正直言ってがっかりした人もあったようです。しかし、松下氏が言いたかったのは、〝政治家になるためには、自分の身辺をきれいにしておかなければならない。自分の身のまわりを美しくするという簡単なことができない人が立派な政治家になれるはずがない。〟ということだったのです。
  この後、松下政経塾では、朝起きてきっちりと掃除するということが日課になったようですが、なかなかこの簡単なことが徹底できなかったようです。ある日、松下氏は上甲氏に向かって、〝3年経っても、これくらいの掃除しかできないのか。〟と言われたそうです。この言葉を聞いて、上甲氏は何とかしなければと大いに悩み、ある方の紹介でイエローハットの相談役である鍵山秀三郎氏に教えを乞いに行かれたとのことです。
  鍵山氏については、後日紹介したいと思っています。

2008年04月24日

凡事徹底~素直初段

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  これまで校長通信に何回か紹介した上甲晃氏は松下政経塾の在任中に松下幸之助氏から実に多くのことを学ばれたようですが、デイリーメッセージの掲載五千回を達成された時、手弁当(交通費・宿泊代を自己負担)で、全国各地で記念講演を開催されました。私も大阪での会場での講演会に出席させていただきましたが、その時に次のようなエピソードを紹介されました。
  〝ある時、松下氏は上甲氏に対して、「僕も三十年間、毎日素直になろうと思って努力してきたが、やっと素直初段になることができた。」と言われたようです。よく聞いてみると、将棋や囲碁について全くずぶの素人であっても、一万回対局すれば初段になる。このように考えると、三十年間では一万回を超すことになる。だから、僕はやっと初段になれたということだったようです。
この言葉を現在の自分に置き換えて見ると、これまで十五年間デイリーメッセージを書き続けてきたが、まだ五千回に到達したに過ぎない。つまり、レベル的には一級ということになる。これからも初段を目指して毎日精進していきたい。〟とのことでした。
  通常、三十年もひとつの事を続けていると、その道の達人になったと思い勝ちです。しかし、その瞬間に成長が止まってしまうということになります。社会で活躍されている人は決して現状に驕ることなく、更に努力を続けて、より高いレベルを追究していこうとする謙虚な姿勢を有しておられます。
  我々もこのような人達から凡事徹底の素晴らしさを学び実践していきたいものです。