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2012年03月20日

春分の日を迎えて

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     《奈良・十輪院本堂》              《奈良町》
  3月20日(火)、本日は太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さが同じになる春分の日で、祝日になっています。
  また、昔からお彼岸の中日として春の訪れを祝い、先祖に感謝する日にあたっているため、私も朝からお墓参りに行き、墓前で近況を報告してきました。その後、久しぶりに〝奈良町〟を散策しましたが、本日は祝日ということで多くの家で日の丸を掲揚しており、バスも小さな日の丸の旗を掲げて走行しています。古都奈良ということもありますが、地域差が大きいように感じました。
  今日は週間天気予報では冷え込むとのことでしたが、日中は気温も上がりポカポカ陽気になりました。この春分の日は二十四節気のうちの一つであり、啓蟄(けいちつ・大地が温まり、冬眠していた虫が穴から出てくる)と清明(さまざまな花が咲き乱れお花見シーズンになる)の間に位置しています。既に立春から数えると一ヵ月半が経過し、桜の蕾も膨らみを増し、木々も新芽も吹き出す等、厳しい寒さに耐えてきた生き物が成長を始める兆しがいたるところに見られるようです。
  まさに春分の日は、〝自然をたたえ将来のために努力する〟と定められているように、暮らしの中で繊細かつ豊かな季節感を養ってきた日本人にとって、卒業・入学、転勤・就職といった別れと新たな出会いをもたらす節目の季節の訪れを告げる日であると言えます。祝日の意味をしっかりと理解していきたいものです。

2012年02月13日

祝日制定の趣旨を知る

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  2月11日は〝元日〟〝成人の日〟に続いて三番目の祝日となる〝建国記念の日〟でしたが、若い人の中でこの日の趣旨を知っている人はほとんどいないと思います。
  この日はかつて『日本書紀』が伝える神武天皇(初代天皇)即位の日として、1872年(明治5年)に制定された「紀元節」でした。この紀元節には全国の神社で「紀元節祭」と呼ばれ祭事が催されていたほか、庶民の間でも「建国祭」として祭典が行われていました。しかし太平洋戦戦争後「紀元節を認めることにより、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか」というGHQの意向で、1948年(昭和23年)に紀元節は廃止されました。しかし、間もなく紀元節を復興させようという動きが高まりましたが、反対の動きもあって、なかなか実現できず、名称を「建国記念日」に変える等、9回にわたる法案の提出と廃案をくり返しました。そして、やっと20年の歳月を経て、1966年(昭和41年)に、名称に「の」を挿入し『建国記念の日』として国民の祝日に認められ、翌年から適用されることになりました。
  現在、世界の国々を見ても、ほとんどの国で建国記念日が制定されていますが、自分達が生まれ育った国の歴史を理解するということは大切です。神武天皇即位の年月は歴史上、科学的に根拠が薄弱であるという意見もありますが、日本の歴史を紐解くためには日本神話や伊勢神宮、天皇制というものを研究することが必要です。戦後、日本の神話についてはほとんど語られなくなりましたが、世界で神話が残っているのは、日本だけだと言われています。
  また、現在の日本の公定休日は15日ありますが、その基本となっているのは太平洋戦争後の昭和23年(1948年)に公布、施行された「国民の祝日に関する法律」(略して祝日法)です。その後、この『建国記念の日』や『敬老の日』『体育の日』が追加され、平成になって、これまでの天皇誕生日が『みどりの日』に、皇太子誕生日が『天皇誕生日』になり、更に平成8年には『海の日』が加えられました。
  最近、色々な場面で感じるのはあまりにも日本のことを知らない人が増えてきているということです。祝日についても、昔のように各家庭で日の丸を掲揚することもほとんど見かけなくなり、その制定の趣旨について語られることもなくなってしまいました。そのため、〝単に休む日が増えた〟という感覚で過ごす人が大半ではないかと思いますが、これらの制定の趣旨を知ることが大切なのではないかと思っています。
  
  

2012年02月02日

節分を明日に控えて 

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  2月2日(火)、今週になって日本各地に寒波が到来し、雪による事故も報道されています。本日も早朝の登校指導をしましたが、寒風吹きすさぶ中、生徒達は元気に登校してきました。何気なく見上げると、この寒さにも耐えて学園の桜がしっかりと蕾をつけています。今週末には立春を迎えますが、その前日である明日は節分です。この日には「豆まき」や「恵方巻のまるかぶり」をする家庭も多いと思いますが、節分の意味を知らない人も多いようなので紹介します。
  日本には春夏秋冬という四つの季節があるため立春・立夏・立秋・立冬の前日を季節の分かれ目ということで「節分」と呼んでいました。ところが、旧暦では立春が新年の始まりと考えられていたことから次第に「節分」と言えば春の節分を指すことになったのです。この考えかたに立つと節分は大晦日ということになり、その年の邪気を祓うということで、さまざまな行事が行なわれています。そして、この代表的なものが豆まきです。
  豆まきの行事は平安時代から始まったようですが、「鬼は外、福は内」という大きな掛け声で豆をまき、その豆を自分の年齢に一つ加えた数だけ食べると無病息災になると言われています。そして、北東の方向は鬼が出入りするということから〝鬼門〟と呼ばれています。十二支は時間と方位を示すものですが、この鬼門という呼び方にも、この十二支の考え方がかかわっています。つまり東北というのは丑(うし)と寅(とら)の間にあたる艮(うしとら)にあたります。鬼は想像上の生き物ですが、鬼は牛の角を持ち虎皮のパンツをはいていると言われています。 また、鬼退治に出かける桃太郎伝説を見ても家来となるのは〝猿〟〝キジ(鳥)〟〝犬〟であり、これらは鬼門(東北)の反対の方角に位置しているのです。
  このように、日本には1年の節目にあたってさまざまな行事がありますが、常に邪気を払う、身を清める、神に感謝するといったことが盛り込まれています。 昨今、グローバル人材の育成ということが話題に上るようになってきましたが、日本人としての伝統や文化、精神といったものをしっかりと身につけておくことが大切であると思っています。

2012年01月29日

一休寺善哉の日

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  1月29日(日)、臨済宗大徳寺派の禅寺である酬恩庵で開催されている『一休善哉(ぜんざい)の日』の行事に参加しました。この寺はかつて妙勝寺と呼ばれ荒廃していましたが、〝とんち〟で名高い一休さんが再興されたため、一般的には一休寺と呼ばれています。一休禅師は大徳寺の住職からお餅の入った小豆汁(あずきじる)をご馳走になり、「善哉此汁(よきかなこのしる)」と言われたところから善哉(ぜんざい)となり、1月1日が同師の誕生日であったことから、8年前に1月の最後の日曜日を善哉の日に定めたとのことです。私も京田辺市に居住するようになってから毎年、訪問しています。
  最初に、絵馬に今年一年の「誓いごと」を書いた後、一休禅師像の前で般若心経を唱え、座禅を組んだ後、住職から「人間はもっと美しく生まれたら良かった。もっと頭が良く生まれたら・・・。もっとお金持ちの家に生まれたら・・・等と常に他人と比較しながら生活しているが、すべてのことに感謝することが大切である。皆さんのこの一年の行動宣言も日々の努力が前提になる。しっかりと精進して欲しい。」という話をお聞きし、絵馬を奉納しました。
  最後に『諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)』という掛け軸の掲げてある部屋で善哉(ぜんざい)をいただきました。そして、身も心も暖かになり、清々しい気持ちで帰宅しました。この『諸悪莫作 衆善奉行』に続いて次の言葉が記載されています。
〝悪いことはするな、善いことをせよ 仏教の大意 三歳の子どもでも知っているが八十の老人も実行できない。〟
   一休禅師は「頓知(とんち)の一休さん」として大変親しみを込めて知られており、境内にも一休禅師の像や〝このはしわたるべからず〟と書かれた立て札の橋があります。また、本堂をはじめ庫裏や方丈、唐門等の重要文化財も数多くあります。しかし、今、この寺が頭をいためているのは裏山の開発が進み、文化的自然環境が破壊されつつあることです。この景観を守るためのナショナルトラストの結成を目指しておられますので、協力していきたいと思っています。

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2012年01月07日

人日の節句

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  1月7日(土)、9時から本年最初となる職員会議を開催しました。最初に私から年頭にあたっての所感と中学入試の志願状況を報告し、各部署から課題の説明を行ないました。中学前期A・B日程入試の志願者については既に昨年を上回っており、後期日程を含めた最終の受験者数は過去最高になるのではないかと期待しています。
  また、本日は『人日』という五節句の一つにあたり七草粥を食べる風習があるため七草の節句とも言われています。この五節句というのは奇数が重なる日になっており、3月3日(上巳・じょうみ・雛祭り・桃の節句)、5月5日(端午・たんご・菖蒲の節句) 、7月7日(七夕・しちせき・たなばた・星祭り)、9月9日(重陽・ちょうよう・菊の節句) となっていますが、1月だけは1日(元旦)を別格とし、7日の人日(じんじつ)になっています。人日とは文字通り〝人の日〟という意味ですが、この由来は古代の中国において、正月の1日を鶏、2日を狗(犬)、3日を猪(豚)、4日を羊、5日を牛、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにし獣畜の占いをたてていました。そして、7日は人の日として犯罪者に対する刑罰も行なわない慣わしであり、翌8日は穀を占っていたようです。このように奇数の重なる日が選ばれていますが、これらの行事が始まった理由は奇数(陽)が重なると陰になるため、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うということなのです。
  七草粥のルーツは平安時代の初期に中国から伝えられたと言われていますが、当時は「七種粥」と呼ばれており、七草ではなく米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で作られていました。その後、鎌倉時代になって、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろという七草を加えた粥を食べるようになりました。更に江戸時代になって1月7日が「人日」という一つの祝日に定められたこともあって、七草粥を食べる習慣が武家や庶民にも定着したようです。そして、この日は新年を無事に迎えられたということに対する神への感謝と邪気を払い、家族みんなが元気で一年の無病息災を願うことになっています。また、この時期に七草粥を食べるというのは、医学的にも正月のご馳走に疲れた胃腸を休めると共に野菜の乏しい冬にビタミンを補給するという効用があるということです。
  こういうところにも先人の知恵が生かされていることを知り、興味深く感じつつ七草粥をいただきました。

2011年12月31日

1年を振り返って~捲土重来を期す

除夜の鐘 年越しそば   
  いよいよ大晦日を迎え、間もなく激動の年が終わろうとしています。今年は日本経済にやや明るさが見え始めた矢先の3月に東日本大震災が発生し、尊い命や大切にしてきた財産が失われ、これに伴う原発事故によって、いまだに数多くの方が避難所生活を送っておられます。私達も義援金や文房具等を被災地にお送りする等の支援活動を行ないましたが、実際に現地でのボランティア活動までは結びつきませんでした。現在、復興に向けてのさまざまな活動が行なわれていますが、日本国民が力を合わせて支援活動を推進していかなければならないと思っています。
  また、今回の大震災は我々のこれまでの生き方や考え方を根本から見直す転機になりました。人と人との絆の大切さや節電をはじめとする無駄の削減、経済活動の抜本的な転換等の動きが出始めています。しかし、今日本は大幅な財政赤字を抱え、国際競争力が低下し、デフレ経済から脱却できず低成長が続いています。まさに正念場を迎えているのです。このことを自覚して危機感を持って、思い切った改革を進めていかなければなりません。

  ところで、大晦日の「みそか」は本来「三十日」と書き、月の三十番目の日ということですが、転じて月の最終日を指すことになりました。晦(つごもり)とは陰暦では十五日に満月となり、月末になると月が見えなくなってしまうため、月隠(つきごもり)が訛ったものです。そして一年の最後のことを「みそか」に「おお」つけて「おおみそか」「おおつごもり」というようになったようです。
  大晦日の夜を一年の日ごよみを除くという意味で除夜と言い、一年を締めくくり、暮れゆく年を惜しむということから色々な行事が行なわれてきています。その代表が除夜の鐘をつくというものですが、この風習は中国の宋の時代に起こり日本には鎌倉時代に伝来したと言われています。鐘をつく回数は108回ですが、これは人間の煩悩の数です。新たな思いで新年を迎えるために、今年一年の自分の行いを改めて振り返り、至らなさや愚かさをしみじみ反省しながら除夜の鐘と共に洗い流すという趣旨です。
  また、年越しそばを食べるという風習は江戸時代中期から始まりましたが、そばを食べるのはさまざまな理由があるようです。〝伸ばして細く長く伸びるので、寿命や身代、家運が長く伸びる〟〝金細工師が一年の作業を終える時に、そば粉を丸めて散らかった金粉を寄せ集めていたことからお金が集まる〟〝そばは切れやすいので、旧年の苦労や災厄を切り捨てる〟〝家族そろって食べることが多いことから末長く、そばにいたい〟等といった意味が込められているようです。また、〝そばは風雨にあたっても、翌日陽が射すと起き上がるということから捲土重来を期す〟という意味もあり、まさに今の日本にぴったりの表現です。
  今年も多くの皆さんに暖かなご支援をいただき心より感謝しています。実に厳しい一年でしたが、新たな気持で新年を迎えたいものです。

2011年12月28日

注連縄と門松

2010kadomatu.jpg 注連縄

  近年、お正月も単なる大型連休という色彩が濃くなってきました。年末年始を海外や帰省先で過ごす人が増え、取り立ててお正月の準備をする家庭も少なくなってきています。そのため、わが国の伝統的な行事や文化の意味を知らない若者も多いようです。
  お正月は気持ちを切り替えて、一年の計画を立てるという意味で重要な節目であるということから、これまで日本においては、新年を迎えるためのさまざまな行事や風習を行なってきました。主なものをあげると、〝煤(すす)払い〟を行ない、〝注連縄(しめなわ)〟を張り、〝門松〟や〝鏡餅〟を飾り、餅をつき、御節料理を作り、大晦日には年越しそばを食べるといったものです。最近はスーパーやデパート、コンビニ等でも御節料理やお餅を販売しているため、手軽に購入することができますが、私の幼少の頃はすべて手作りでした。そして、お正月には家族全員がお屠蘇でお祝いし、雑煮や御節料理を食べるというのが一般的でした。
  最初に注連縄と門松の由来について紹介します。
  玄関先に注連縄を張るのは、家の中に悪霊を入れず穢れ(けがれ)をぬぐい去り無病息災・家内安全を祈るものです。神社などで見られるように注連縄は神聖な場所に渡し、内(神域)と外(現実社会)を隔てて、不浄に触れさせないために用いられるものです。
  また、門松については平安時代に中国から伝わり、現在の様式が決まったのは室町時代であると言われています。つまり松、竹などを門口に立てることにより、それに神を降臨させて家の入り口を清め、新年を迎えるという意味なのです。最近は簡略化されたものがほとんどですが、本格的な門松には竹の先端が斜めにカットしてある「そぎ」と呼ばれるものがあります。この風習は徳川家康が始めたようです。家康は戦上手であったと伝えられていますが、生涯唯一の敗北として知られる「三方ヶ原の戦い」(1572年)では武田信玄の騎馬軍団に完膚なきまでに叩きのめされました。この戦いの後、信玄に対して次は斬るぞという念を込めたのがこのそぎの始まりであると言われています。
  このように、日本の風習には穢れを拭い、身を清めることを目的にしたものが数多くあります。また、常に八百万(やおよろず)の神を敬うことが基本になっているのです。
  なお、門松や注連縄を飾るのは29日と31日を避けるのが良いとされています。これは、29日は「二重苦」、9の末日ということで「苦待つ」に通じる、また31日は「一日飾り」と言って神をおろそかにするからです。 何気なく行なっているお正月の準備にもそれぞれ理由があり興味深く感じています。
   

2011年11月24日

平成23年 勤労感謝の日にあたって

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  昨今、学校で日本の祝日について教えることがなくなってしまいました。また家庭でも祝日に日の丸を揚げることもなくなりました。そのため子ども達は何故学校が休みなのかも分からないまま、休んでいるというのが現状の姿です。これでは日本の伝統や文化、歴史を知らない人が増えてくるのは当然です。従って、このブログでは極力祝日についての意味を掲載するようにしてきました。
  昨日(11月23日)は『勤労感謝の日』でした。この日は戦後国民の祝日が定められた際(1948年)に「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ということで制定されました。戦前、この日は「新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)」が行なわれていました。「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことを指し、新嘗祭は天皇が国民を代表して農作物の恵みに感謝する式典として古くから国家の重要な儀式でした。そのため、勤労感謝の日を設定する際には、「新嘗祭」として祝いたいという意見もありました。しかし、働くというのは農業に限ったことではなく、二次産業や三次産業等も含めた幅広い意味を持つということから、最終的に勤労感謝の日ということになったのです。
  働くということは〝傍を楽にする〟と言われるように、世の中のためになるということが大切です。しかし、最近は働きたくても働くことができない人が増える一方で、農業や漁業や水産業に従事するする人が少なくなり、高齢化が進んでいます。とりわけ日本では農業に従事する人は年々減少し、約260万人で平均年齢は65.8歳になっています。現在、わが国は先進国の中でも極端に低い食料自給率になっており、このまま放置することはできません。今一度、働くという意義を考えていきたいものです。

2011年11月13日

漢字の成り立ちを知る

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  最近、テレビでも漢字に関する番組が増えてきており、その影響もあって書店でも漢字に関する本が数多く並んでいます。この中で、是非一度読んでいただきたいのが、『白川静さんに学ぶ~漢字は楽しい』です。この本は著者である文字文化研究所の小山鉄郎氏が共同通信社の企画として、白川氏から漢字の成り立ちや体系を一つ一つ教えてもらい、全国の新聞に連載されたものをまとめたものです。
  白川静氏は漢字が持つ体系的なつながりを明らかにして文化勲章を受章された漢字学の第一人者ですが、〝漢字という文字は、その成り立ちをきちんと学べば、これらのすべてがお互いに繋がって関連性を持ち、一貫した体系で構成されている。従って、難しい漢字を一つ一つ暗記しなくても容易に漢字を理解することができる〟と書かれています。この続編として『白川静さんに学ぶ~漢字は怖い』も出版されており、興味深い内容が盛り込まれています。私も普段使っている漢字について、知らないことがあまりにも多くあることが分かりました。
  現在の漢字教育は、学年が上がるにつれて、画数の少ない漢字から多い漢字へ習得するシステムになっています。また、戦後、複雑な漢字の簡略化が行なわれた結果、本来の漢字が持つ意味がわからなくなってきています。そのため、学校では漢字を丸暗記させるということになりがちですが、これが子どもたちの漢字嫌いに繋がっているのではないかと思っています。
  また、漢字というと、どうしても中国から借りてきたものという意識がありますが、日本人は借りてきた漢字をそのまま使ったのではなく、数々の言葉を作り出しています。一度、漢字を違った角度から見直していただきたいものです。

2011年11月04日

読書のすすめ~日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか

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  東日本大震災後の被災者の立ち振る舞いを見て世界中から賞賛の声が寄せられました。海外に行って外から日本を見ると、日本という国は本当に素晴らしいと感じる人も多いと思います。また、世界の人達からもこれまで日本は高く評価されてきています。しかし、今の日本では残念なことに、あまりにも日本人としての誇りを持たず、国の将来についても悲観的な考え方をしている人が増えてきているようです。
  このような中で、世界の人達が日本のことをどのように見ているのかを解りやすく紹介しているのが『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』ー竹田恒泰著ーです。
  本書の冒頭には、平成18年(2006年)、英国のBBC放送が33カ国で約4万人を対象に行なった世論調査の結果が取り上げられています。これによると、最も高く評価されたのが日本であり、実に33カ国中31の国で、肯定が否定を上回り、うち20カ国で肯定が50%を上回っています。そして、全体では肯定が実に55%(否定は18%)を占めています。否定が肯定を上回ったのは中国と韓国の2カ国、逆に日本を最も高く評価したのはインドネシア(85%)、次いでフィリピン(79%)となっています。そして、日本のイメージとしては「自然の美しい国」「経済力・技術力の高い国」「きまりを守る国」「豊かな伝統と文化を持つ国」等が上げられています。
  また、平成21年に世界最大級のオンライン旅行会社のエクスペディアが、世界のホテルマネージャーに対して、各国観光客の国別の評判を調査した結果においても、ベストツーリストに選ばれたのは日本人で3年連続であったとのことです。
  この本では、続いて、「頂きます」「匠(たくみ)」「勿体ない」「和み(なごみ)」等のテーマで世界に誇れる日本の文化や伝統の叙述がなされています。我々は日常生活において、数々の問題点を指摘し、批判を続け、不平不満を口にしていますが、今一度、足元をしっかりと見つめることによって、日本の良さを認識しておきたいものです。

2011年11月03日

読書のすすめ~わが子に語りたい日本人の物語~

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  今、日本はまさに正念場を迎えています。世界各国の競争力のランクを見ても、日本は1989年~1903年の5年間はトップでした。その後、゛`94年(3位)、‘95年(4位)、‘96(4位)、‘97(9位)となり、‘98年以降はベストテンにも入れず、ついに2010年には27位ということになりました。更に、本年3月には大震災とこれに伴う原発事故に見舞われました。現在、総力を結集して復興に向けての取り組みを行なっていますが、恐らく来年以降は更にランクは低下することが予想されます。
  しかし、第二次世界大戦後の悲惨な状況の中から、日本は世界中から〝奇跡〟と言われる経済復興を遂げたのです。この原動力になったのは取りも直さず、われわれ日本人の中に脈々と流れる素晴らしい精神力ではないかと思います。従って、大震災以降は意識して日本の伝統や日本人の心といった内容の書物を紐解くことにしています。その中で、最近私が感銘を受けた本を何冊か紹介します。
  まず、最初に取り上げるのは『別冊 正論』~幕末維新、大戦、大震災…苦難の中で光り輝く 《わが子に語りたい 知られざる 日本人の物語》ー産経新聞社発行ーです。
  この本の冒頭には〝苦難を乗り越える力は歴史の中にある〟ということで、今こそ、どんな時代、どんな立場にあっても、それぞれの本分や人を尽くした日本人の物語を胸に刻みたい・・・と記されています。そして、歴史上のさまざまな出来事や人物が24人の著者によって紹介されています。恥ずかしい話ですが、この中で私が知っているのは約半数しかなく、わが子に語るより前に自分自身が、もっと勉強しなければならないと感じました。
  これからグローバル化がますます進展することになり、異なる価値観や文化、宗教を持つ人達との交流が増えてきますが、真の国際人とは日本や日本人について誇りを持って語ることができる人であると思っています。今は読書週間です。是非、暇を見つけて、本書を読んでいただきたいものです。   

2011年09月25日

おはぎとぼた餅

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  昨今、いたるところでグローバル社会で活躍できる人材の必要性が叫ばれています。グローバル人材というと、すぐに世界的な視野を有するとか語学力に長けているという意見が出てきますが、私は日本の歴史や文化や伝統、思想といったことをしっかりと身につけておくことが何よりも大切であると思っています。
  日本には世界に誇れるものが数多くありますが、残念なことにこれらの素晴らしさを知らない人が増えてきているようです。その一つが日本の食文化であり、今、世界から注目を集めています。日本の食は宗教との結びつきが非常に強いのが特徴です。食事の前に手を合わせて「いただきます」というのは、生き物の命をいただくということですし、お節料理に代表されるように季節毎に神への収穫を感謝して食事の工夫がなされています。
  ところで、彼岸にはご飯の代わりに仏壇に「ぼたもち」や「おはぎ」をお供えされる家庭も多いと思います。この二つはもち米とあんこで作られており、本来同じ食べ物ですが、食べる時期が異なるため呼び方が異なっているのです。昔からおもちは五穀豊穣、小豆の赤い色は魔除けに通じることもあって、日本の行事に欠かせないものでした。つまり、甘いものが貴重だったため、ぼたもちといえばご馳走で、大切なお客様やお祝い、寄り合いの時などでふるまわれていました。これは労せずして思いがけない幸運がめぐってくることの例えとして「棚からぼたもち」という言葉になっていることからも、生活と深いかかわりを持っていたことが分かります。
  しかし、ぼたもちとおはぎは、それぞれの季節を意識して同じ食べ物にもかかわらず、春はぼたもち・「牡丹餅」、秋はおはぎ・「御萩」という季節の花の名前がつけられています。そして、牡丹餅にはこしあん、お萩にはつぶあんが使われますが、これにも理由があります。材料となる小豆は秋に収穫されるため、獲れたての小豆が使える秋は、皮ごと使った粒あんに、冬を越した春は、固くなった皮を取ってこしあんにして使っていました。このように古来より、日本では食に対するきめ細かい心配りをしてきているのです。 

   

2011年09月24日

秋彼岸にあたって

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  昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と言われていますが、朝晩は随分冷え込んできました。昨日(9月23日)は「秋分の日」で祝日でしたが、この日を中日として前後3日間は彼岸(秋彼岸)と呼ばれており、この期間には先祖の霊の供養を行なうことになっています。私も奈良の十輪院にある先祖のお墓参りに行ってきましたが、多くの方が家族でお参りにこられていました。
  ところで、彼岸というのはもともと古代インドの梵(サンスクリット)語からきた言葉で、本来は「到彼岸」波羅蜜(パーラミータ)が語源です。日本では圧倒的に仏教の家庭が多いのですが、戦後、一部の私学を除いて学校での宗教教育を行わなくなったこともあって、彼岸の意味を知らない人も多くなっています。
  仏教では、私達が住む迷いや煩悩に満ちた世界は「此岸(しがん)」、一方苦しみのない涅槃常楽(ねはんじょうらく)な悟りの世界を「彼岸(ひがん)」と呼んでいます。そして、到彼岸というのは〝彼岸に到る〟という意味で、「悟りの世界」へ渡ることを願って、行いを慎むことなのです。このために六つの修行(六波羅蜜)を行なうように定められていますが、分かりやすく示すと次のようになります。
 
◇布施:他人に対して財や行ないによって施しをする
◇持戒:自分を戒め、迷惑をかけず、日常生活の諸規則を守って人間らしく生きる。
◇忍辱:不平不満を言わず、苦しいことがあってもじっと耐える。
◇精進:心身を精励し、あらゆる努力を惜しまない。
◇禅定:心を乱さず現在していることに心を集中させ、日常の一挙手・一投足を大切にする。
◇智慧:様々な修行を通し自分本来の姿に目覚める知慧(ちえ)を理解し、上記五つの実践を支える。

  また、世界にはさまざまな宗教がありますが、表現の仕方は違っても共通する点が多いように思います。本来、これらの実践は彼岸の時期だけではなく日常から心がけておかなくてはならないものです。一人ひとりがこれらの実践を通じて、人間力を高めていきたいものです。

2011年08月16日

お盆の供養

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  お盆の行事は8月15日を中心に13日から16日までに行なわれるのが一般的で、かつてはお正月と共にお盆が重要な休みということになっていました。しかし、最近はお盆休みという言葉はほとんど聞かれなくなり、夏季休暇に変わったということもあって、この時期には帰省や旅行に出かける人も多いようです。
  お盆は〝正式には仏教における盂蘭盆会ですが、インドの古語であるサンスクリット語のUllambana(ウランバナ)がなまって、漢字に音写した〝盂蘭盆〟を略したものです。このウランバナというのはもともと〝逆さづり〟という意味で、地獄の苦しみを受けている人を功徳によって救うという行事ですが、先祖を崇拝し死後の悪い世界に堕ちないようにするという日本固有の心とが融合してお盆の行事が生まれたようです。
  一般的にはまず仏壇を掃除し、季節の果物、野菜、餅菓子等のご馳走を供える家庭が多いようですが、お盆でのお供え物の基本は五供(ごく)と言われています。これは「香」・「明かり」・「花」・「水」・「食べ物」の5種類です。このうち、明かりは灯燭(とうしょく)で仏前を明るくし、水は浄水(じょうすい)と呼ばれ、お盆の期間毎日、取替えます。また、食べ物のお供え物は、日常に食べるようなものをお供えしますが、袋物や封がされている物等は、口を開けてお供えすることになっています。
  更に先祖が乗ってくるということでキュウリとナスで馬と牛を作り供えると共に盆提灯や盆灯篭を飾ります。キュウリは先祖の霊を早く迎えるための馬、ナスはゆっくりお送りするための牛を表しています。この後、13日の夕方には家族でお墓参りをして火を焚いて祖先の霊を迎えることになりますが、現在はほとんどの家が墓地と離れているため、野外で迎え火をたき、先祖や亡くなった人を迎え、16日の夕方には送り火をたいてお送りすることになっています。
  また、お盆には日本各地で色々な催しが行なわれますが、有名な伝統行事のひとつに お盆に迎えた精霊を送る京都の大文字焼きがあります。正式には「京都五山送り火」と言われ、お盆に16日夜、京都市内の各地で催されます。
  最近は、お盆に先祖の供養をするという意識も薄らいできているようですが、我々の命は何代にわたる先祖の方々の命を受け継いできているのです。お盆は今日で終了しますが、日頃からご先祖を尊ぶという気持ちを忘れないようにしていきたいものです。

2011年08月15日

第66回終戦記念日にあたって

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  8月15日(月)、本日は66回目となる終戦記念日を迎えることになり、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、天皇、皇后両陛下と菅直人首相、遺族や政府関係者らが参列されました。
  式典では冒頭に菅首相が式辞を述べ、正午に1分間黙とう。天皇陛下のお言葉に続き、父がフィリピン東方海域で戦死した甲府市の河西佐智子さん(67)が遺族代表として、追悼の辞を読み上げました。
 厚生労働省によると、〝日中戦争と第二次大戦の戦没者は、軍人・軍属約230万人、民間約80万人の約310万人。遺族の高齢化に伴い参列者の世代交代が進んできており、10年前に548人だった戦没者の妻は減少し、今年はわずか43人(参列予定者数)で過去最少となり、父母は2年ぶりにゼロになった。そして、参列者の約3分の2を戦没者の子供と孫が占めることになり、子供の世代も約6割が70歳以上になった。〟とのことです。
  この状況を見ても、これから戦争を全く体験したことのない人が増加し、日本人の大半を占めるようになってきます。これは取りも直さず戦争の悲惨さを知る人が年々少なくなってくることを意味しますが、戦争が人々を幸せにすることは絶対にありません。この戦争では日本を含めたアジアの国々を中心に約1680万人の死者が発生しました。これらの中には、戦争による劣悪な生活環境の下での餓死者や病死者も多数含まれています。また、東京や大阪といった大都市を中心に無差別爆撃が行なわれ、広島や長崎に大量殺戮兵器である原子爆弾が投下されました。しかし、年月が過ぎ被災した人の平均年齢は70歳をはるかに超え、この出来事が風化されようとしています。忘れてならないのは日本は世界で唯一の原子爆弾被爆国です。また、今回深刻な原発事故に遭遇し、放射能の危機にさらされています。
  今、世界ではいたるところで紛争が発生し、核を保有する国も増え、テロのニュースも後を絶ちません。仮に核戦争になれば人類が滅亡するばかりでなく、地球そのものが消滅してしまう恐れもあります。終戦記念日にあたって、世界の平和を願い、核廃絶を強く訴えると共に、我々の生活のあり方についても今一度見直していきたいものです。

2011年07月18日

海の日にあたって~海は資源の宝庫

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           海洋風力発電

  本日(7月18日)は海の日で、祝日になっています。この日は海洋国家として広く日本国民に海への理解と関心を求めることを目的としており、「海の恩恵に感謝し海洋日本への繁栄を願う日」と定義されています。
  もともとは1876年に明治天皇が明治丸を使って東北巡幸された後、7月20日に横浜港に入港されたことに因んで、1941年にこの日を「海の記念日」と定められたのが始まりです。その後、この日を祝日にしたいという運動が続けられ、1996年には『海の日』(祝日)に制定されました。そして、2003年(平成15年)からは7月の第3月曜日ということになり、今日に至っています。
 海は地球上の面積の約7割を占めていますが、陸地に比べるとまだまだ未知の部分が多く、これから地球環境の保全・海洋資源の活用・海水の利用等のさまざまな面で海の役割がさらに高まってくると思われます。
  日本の国土面積は世界で61番目ですが、国土はすべて海に囲まれているため、排他的経済水域では世界6位となる海洋国家です。これまで、日本は広大な国土も大した資源もないと言われてきましたが、近年、海には大きな資源が眠っていることが分かってきました。世界の多くの地域では現在、海底油田が数多く開発されていますし、日本近海にはメタンがシャーベット状になったメタン・ハイドレートやさまざまな金属が海底から噴出している熱鉱床が発見されています。また、安定的な風力が得られる海洋風力発電や潮力発電等の技術も実用化されてきています。勿論、食料としての魚介類も日本にとっては大切な資源です。このように海洋は素晴らしい資源の宝庫なのです。
  日本は、これから海を最大の財産と考え、海との共生をはかっていくことが大切であると思っています。

2011年05月05日

ゴールデンウィークの祝日~『こどもの日』にあたって

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   『こどもの日』は昭和23年(1948年)に〝こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日〟ということで定められましたが、もともとは中国の暦法で定められていた五節句の一つであり、「端午の節句」・「菖蒲〔しょうぶ〕の節句」とも言われます。  
  端午の節句は、もともと奈良時代から続く古い行事でした。端午というのは〝月の端(はじめ)の午(うま)の日〟という意味で5月に限ったものではありませんでした。やがて午(ご)と五(ご)の音が同じなので毎月5日を指すようになり、ついには5月5日になったと言われています。その後、鎌倉時代頃から「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣の形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになりました。更に江戸時代には鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾るようになり、〝登竜という激流(登竜門)を鯉が登ると竜になって天をかける〟という中国の故事を受け立身出世を願って庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てるようになったのです。
  端午の節句には、今でも地方によって無病息災を祈って香気を持つ菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に吊るしたり、田の神を迎えるための禊(みそぎ)の名残として菖蒲湯に入るという風習があります。更にこの日に柏餅を食べる習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていったようです。
  なお、五節句というのは暦の中で陽である奇数が重なると陰になるため、邪気を祓うということで、人日(じんじつ・1月7日)、上巳(じょうし・3月3日)、端午(たんご・5月5日)、七夕(たなばた・7月7日)、重陽(ちょうよう・9月9日)の五つを指しますが、1月だけは例外の扱いになっています。この他にもわが国の暦には、常に身の回りを清めておくというさまざまな行事が取り入れられているのです。今一度、日本の伝統や文化について認識しておきたいものです。

2011年05月04日

ゴールデン・ウィークの祝日~『みどりの日』にあたって

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  本日(5月4日)は〝自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ〝という「みどりの日」に定められていますが、このように決定されるまでには色々な経緯がありました。
  1948年の祝日法施行以来、昭和天皇の誕生日である4月29日は、国民の祝日である「天皇誕生日」とされていました。その後1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇の崩御に伴い今上天皇が即位され、天皇誕生日は今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなりました。しかし、ゴールデン・ウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響が懸念されたことから、4月29日を「みどりの日」と改めた上で祝日として存続させることとなりました。この「みどりの日」という名前の由来は、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛されたことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨です。その後、4月29日を「昭和の日」として制定しようという動きが生じ、2005年に正式決定になりましたが、同時にみどりの日を5月4日に移行させることになったのです。

  わが家の庭や菜園もこの数ヶ月放置したままの状態でしたが、雑草が生い茂る中に気がつくと色々な野草が花をつけ、バラの蕾も膨らみ始めてきています。今日は、みどりの日ということもあって、久しぶりに手入れをし、茄子、キュウリ、シシトウ、ゴーヤの苗を植えつけました。私も毎日、慌しい生活を送っていますが、自然に親しみ、自然に感謝するという気持ちを持つことの大切さを実感しました。

  また、この日は”みどり”という名称からも『植物園の日』にも設定され、植物や森林へ親しみや関心を持ってもらうことを目的として、多くの植物園や庭園などが無料開放されたり、全国各地で苗木の配布等のイベントが実施されているようです。

2011年05月03日

ゴールデン・ウィークの祝日~『憲法記念日』にあたって

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  5月3日から5日までは『憲法記念日』『みどりの日』『こどもの日』と祝日が3日続きます。
  本日は〝日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する〟という『憲法記念日』です。現在の日本国憲法は、第二次世界大戦で敗戦し、その後アメリカによる占領が続いていた1946年(昭和21年)11月3日に大日本帝国憲法の改正手続を経て公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行されたものです。そして、新しい憲法が施行された日こそ「祝日」にふさわしいということで、1948年に国民の祝日に制定されました。
  それから現在まで64年にわたってこの憲法は全く改正を加えられることなく継続しています。そのため日本国憲法の原本の漢字表記は、当用漢字以前の旧漢字体になっており、その前文には『われらは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ』と記載されています。
  現行の日本国憲法は十一章、百三条から構成されています。日本国民の中でこの詳細を知っている人は少ないと思いますが、特色として三つの柱を持っています。
  ◇一つ目は〝天皇は象徴であり国を治める主権は国民にあるという「国民主権」〟
  ◇二つ目は〝人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保障する「基本的人権の尊重」〟
  ◇三つ目は〝世界の平和を永久に守るため、外国との争いが起きても戦争をしないで平和的に解決するという「平和主義」〟です。
  現在最大の討論の的になっているのは「平和主義」に基づく憲法9条の問題ですが、自分の国は自分で守るという自衛の姿勢は不可欠です。いつも自衛隊のあり方が論議されますが、今回のような自然災害やテロといったことがいつ起こるかも知れません。この時に自分達の命や財産、生活をどのようにして守るのかは真剣に考えておかなければならないと思います。
  憲法の改正手続きについては第96条において〝この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。〟と定められています。
  憲法は日本の国にとってはすべての法律の基礎となる最も重要なものです。内容についてしっかりとした理解をしておきたいものです。

2011年04月29日

ゴールデン・ウィークの祝日~昭和の日

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  4月29日(金)、本日よりゴールデン・ウィークが始まりました。今年は東北・関東大震災で多くの部品メーカーが被災し、基幹部品が十分供給されないため自動車やエレクトロニクスメーカーでは大型連休になるところも多いようです。
  学校は暦どおりにしているため、本校も4月30日と5月2日は通常通り授業を行ないますが、何故休みが続くのかを知らない生徒達が多いように思います。私が幼少の頃には、それぞれの家で祝日に日の丸(国旗)を掲揚し、親から〝今日は何の祝日なのか〟ということを聞かされていました。ところが、最近気になるのは祝日でも国旗を掲揚している家はほとんどありませんし、祝日に関する話題も出ないのではないかと思います。
  本日は『昭和の日』ですが、もともと昭和の時代には天皇誕生日という祝日でした。しかし、昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御されたことを受け、年号が平成に改められることになりました。そして、これと共に平成元年からこの日は『みどりの日』ということになりました。その後、〝激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす〟という趣旨で『昭和の日』を制定しようという動きが起こり、平成19年に4月29日が昭和の日に制定され、今日に至っています。これに伴って『みどりの日』は憲法記念日(5月3日)とこどもの日(5月5日)の間の5月4日に移され、三連休となっています。
  現在、昭和元年(1926年)生まれの人は85歳です。そして、本校の生徒達はすべて平成生まれとなっています。この『昭和の日』を、昭和という時代の繁栄と苦難を偲ぶ記念日として子ども達に語り継ぐ日にしたいものです。

2011年03月06日

啓蟄(けいちつ)の日にあたって

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  3月6日(日)は二十四節気(にじゅうしせっき)のうちの啓蟄と呼ばれる日にあたっています。日本の暦の素晴らしいのは、一年を二十四に分けてそれぞれ名前をつけ季節の移り変わりを表していることです。
  
  これらの等分点は立春・雨水・『啓蟄』・春分・清明・穀雨・ 立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒と名付けられています。これらを見ると立春や春分、立秋、大寒というものも二十四節気のうちの一つであるということが理解できるのではないかと思います。

  この啓蟄というのはあまり馴染みがないと思いますが、“啓”は『ひらく、開放する、(夜が)明ける』、“蟄”は『土中で冬ごもりしている虫』の意味で、 文字通り地中で冬ごもりしていた虫が春の暖かさを感じ、地上へ這い出してくるという意味です。
  生徒達が新入生を迎えるために毎年植えてくれているチューリップも芽が出はじめています。家の庭もよく見るとふきのとうの花も咲き出し、木々やバラの新芽も吹き出し始めました。これから一雨ごとに気温が上がり、桜前線が北上し本格的な春が訪れてきます。
  春は多くの人が卒業や入学、就職、転勤等新しい生活をスタートさせる時期です。新たな気持ちで前向きに取り組んでいきたいものです。

2011年03月03日

上巳の節句の由来

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  今年は殊の外寒さが厳しく、3月に入ってからもコート姿の人が目につきますが、日毎に春の足音が近づいてきているようです。
  本日、3月3日(木)は五節句のひとつである「上巳(じょうし・じょうみ)の節句」ですが、一般的には桃の花にちなんだ「桃の節句」と呼ばれています。
  これまでも五節句については、この校長通信でも何度か紹介してきていますが、この上巳のほかに、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽・ちょうよう)というように、奇数月の月と同じ数の日ということになっています。中国では奇数は陽、偶数は陰を意味しますが、奇数(陽)が重なると逆に陰になります。そして、季節や物事の節目には災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていました。この邪気を避けるための行事(邪避)として、中国では上巳節というものがあり、これが遣唐使によって日本に伝えられたのです。このため、昔から川の水に心身の穢れ(けがれ)を流して厄を祓う行事や杯を水に流して宴を催す曲水の宴等が行なわれてきたのです。
  また、この日に行なわれる「雛祭り」は、女の子の成長を祈る行事ですが、もともとは平安時代に公家の子女が行なっていた「雛あそび」が起源であると言われています。〝身に降りかかる災厄を人形に肩代わりしてもらう〟という祭礼的な意味合いをこめて、やがて武家に広まり、江戸時代には庶民にまで広まることとなりました。最近は雛祭りの風習も廃れてきましたが、以前は各家において代々伝わってきたお雛様を飾り、菱餅、ひなあられ、白酒、引千切、散らし寿司、鯛や蛤などを食べていました。そして、飾ったお雛様は翌日に片付けるのがきまりになっています。
  なお、五節句のうち1月だけは例外として1月7日(人日の節句)となっています。また、日本では9月9日(重陽の節句)はあまり知られていませんが、中国では最も大きい奇数である9が重なるということで、五節句のうちでも特に重要な節句になっています。

2011年02月28日

何故2月は28日なのか

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  今日で2月も終了しますが、何故2月だけが28日しかないのか疑問を持つ人もあると思います。私の知人に世界の国々の暦を調べている人がいますが、なかなか興味深い内容が盛り込まれているようです。
  現在使われている暦のルーツは、古代ローマの共和制の末期にユリウス・カエサル(英名 ジュリアス・シーザー)が採用した新年のスタートを3月とするユリウス暦に遡ります。ユリウスはこれと同時に7月Quintilisの名称を自分の家門の名前であるJuliusに変更しましたが、これが現在の英語名のJulyになっているのです。このユリウス暦は大の月(31日)と小の月(30日)が交互に配置され、最後の月である2月は29日ということになっていました。
  その後、ユリウスの養子で皇帝になったオクタヴィアヌス(アウグストゥス)が自分の誕生月である8月を大の月にし、名称を自分の名前Augustusに変更しました。しかし、この結果、7月、8月、9月と大の月が3ヵ月続くことになるので9月以降12月までの日数を入れ替えたのです。このため、もともとは30日だった10月と12月が31日に、31日あった9月と11月が30日にされることになり、平年では更に1日減らす必要が生じて、もともとは29日だった2月が28日になりました。そして、閏(うるう)年だけを29日にするということになったのです。
  現在、September(9月)は7番目、October(10月)は8番目、November(11月)は9番目、December(12月)は10番目ということになっているのは、ローマ暦が3月起算になっていた名残なのです。ローマ時代に一人の皇帝によって変更された暦が現在に至るまで、そのままの姿で続いていることに驚きを感じています。

2011年02月14日

バレンタインデーにあたって

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  2月14日はバレンタインデーと呼ばれていますが、このバレンタインというのはローマ時代の司祭の名前なのです。今の日本では考えられないことですが、269年、ローマ帝国の皇帝であったクラウディウスⅡ世は「自由結婚禁止令」という法律を制定しました。しかし、当時のローマにあっては異郷とされていたキリスト教の司祭 聖バレンティノ(英語名:バレンタイン)はこれに背いて、愛し合う2人の若者のために結婚式をあげさせました。このことが皇帝の逆鱗に触れバレンタインは処刑されてしまったのです。その後、彼の命日にあたるこの日が「恋人達の日」=「バレンタインデー」ということになり、恋人達や親しい人に花やケーキやカードを贈る習慣が生まれたのです。
  ところで、日本ではバレンタインデーに女性から男性にチョコレートを贈る習慣があり、何と驚くべきことにこの日に関連して売れるチョコレートの量は年間の12~15パーセントと言われています。また高級品を扱っている店では年間売り上げの実に30%を超えるところもあるようです。私も昨日、近くのスーパーに行きましたが、特設コーナーが設けられさまざまな工夫を凝らしたギフトのセットが並べられていました。菓子離れが進む業界にとっては、バレンタイン商戦の成否が経営に大きな影響を与えることになるため、各メーカーが競い合って新しい企画を考案し、販売を伸ばそうとしているのが現状です。
  今年、プランタン銀座が行った「バレンタインデー」に対する女性の意識調査によると、チョコレートの予算は、本命が平均3325円、義理が1172円、自分用が3167円となり、昨年に比べてすべて金額がアップしています。そして、せめてこの日くらいは贅沢をしたいという気持ちからか、とりわけ自分用に買う「自分チョコ」については469円も上がっているようです。
  また、最近では女性が同姓の友達に贈る「友チョコ」や男性から女性に贈る「逆チョコ」が増えてきているとのことです。この現象を見ても、1960年代から「女性がチョコレートを贈ることによって男性に愛を告白する」ということで成熟してきた日本独自のバレンタイン市場にも変化の兆しが見られてきており、今後新たな需要が生まれてくる可能性が出てきたのではないかと感じています。

2011年02月12日

建国記念の日の由来

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  2月11日は「建国記念の日」ですが、マスコミではほとんど取り上げられていません。昨日の新聞を見ても一面の片隅に「きょうは建国記念の日のため夕刊は休みます」という記事が掲載されているだけです。また、テレビでは「三連休となる日本列島ですが寒波のため・・・・・」といった報道だけがなされています。このため、建国記念の日について説明できる人はほとんどいないのではないかと思います。

  この日は、かつて『日本書紀』が伝える神武天皇(初代天皇)即位の日として、1872年(明治5年)に制定された「紀元節」でした。この紀元節には全国の神社で「紀元節祭」と呼ばれ祭事が催されていたほか、庶民の間でも「建国祭」として祭典が行われていました。しかし太平洋戦戦争後「紀元節を認めることにより、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか」というGHQの意向で、1948年(昭和23年)に紀元節は廃止されました。
  その後間もなく紀元節を復活させようという動きが高まり、テレビ局が行ったアンケート調査でも全国民の80%以上の人が「建国を記念する日」を望んでいるということがわかり、一気にこの動きが加速されたのです。しかし、反対する動きもあってなかなか実現せず、9回にわたる法案の提出と廃案をくり返しました。そして、やっと1966年(昭和41年)に、建国を記念するための祝日として、名称に「の」を挿入し『建国記念の日』として国民の祝日に認められ、翌年から適用されることになりました。実に20年近い歳月が費やされたということになります。
  自分達が生まれ育った国の歴史を理解するということは大切であると思います。神武天皇即位の年月は歴史上、科学的に根拠が薄弱であるという意見もありますが、日本の歴史を紐解くためには日本神話と呼ばれるものを研究することが必要です。 ところが、これらの伝承は大部分が『古事記』や『日本書紀』および各地方の『風土記』にみられる記述をもとにしているのです。
  なお、江戸時代初期までは『日本書紀』が中心でしたが、江戸中期以降の国学の発展によって、現在は日本書紀よりも古いとされる『古事記』の方が重視されるようになってきています。これには『古事記伝』を著した本居宣長の功績が大きいと言われています。私も残念ながらこの本を熟読したことはありませんので、一度時間を見つけて読んでみたいと思っています。

2011年01月30日

一休善哉(ぜんざい)の日

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  1月30日(日)、臨済宗大徳寺派の禅寺である酬恩庵一休寺を訪れました。1月最後の日曜日には『一休善哉(ぜんざい)の日』の行事が開催されており、観光バスや自家用車等でこられている数多くの方の姿が目に付きました。この寺はかつて妙勝寺と呼ばれ荒廃していましたが、〝とんち〟で名高い一休さんが再興されたため、一般的には一休寺と呼ばれています。
  最初に、絵馬に今年一年の「誓いごと」を書いた後、一休禅師像の前で般若心経を唱え、座禅を組みました。続いて、住職から一休さんのエピソードを含めたお話をいただきました。本堂には〝みる(見る)ごとに みなそのままのすがた(姿)なり 柳はみどり(緑) 花はくれない(紅)〟という一休禅師の歌が掲げられていました。素直に物事を見て自然に生きることが大切であるという意味ですが、人間はともすると柳を紅、花を緑に見がちです。
  この日には善哉(ぜんざい)が振舞われますが、この呼び名は大徳寺の住職からお餅の入った小豆汁をご馳走になった一休禅師が、あまりの美味しさに仏教の言葉で〝善哉此汁(よきかな この汁)〟と言われたことが始まりのようです。
  一休禅師は「頓知(とんち)の一休さん」として大変親しみを込めて知られており、境内にも一休禅師の像や〝このはしわたるべからず〟と書かれた立て札の橋があります。また、本堂をはじめ庫裏や方丈、唐門等の重要文化財も数多くあります。これらを見学した後、絵馬を奉納し、温かい善哉をいただき、清々しい気持ちで寺を後にしました。
  今、この寺が抱えている問題は一休寺裏山の開発が進み、文化的自然環境が消失しつつあることです。この景観を守るための運動が推進されていますので、地元住民として協力したいと思っています。

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2011年01月10日

平成23年成人の日にあたって

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  1月10日(月)、本日は元日に続く2番目の祝日となる『成人の日』です。この日は〝おとなになったことを自覚し自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます〟ということで、1948年(昭和23年)に施行された「祝日法」により制定されました。世界的に見ても、このような祝日は珍しいと言われていますが、太平洋戦争後、国土が荒廃し物資も食料も不足していた時代に最も必要とされていたのは「国を再建していく人材」でした。良い「国家」を作っていくためには、国民自身が成長していかなくてはならないと考え、〝こどもから大人になった自覚を持ってほしい〟と願ってこの日を祝日にしたと伝えられています。そして、当初は古来より元服の儀式が行われていた小正月の1月15日になっていましたが、2000年の「ハッピーマンデー法」により1月の第2月曜日に改正され、現在に至っています。
  今年の新成人は124万人(男性63万人、女性 61万人)で、総人口1億2736万人に占める割合は0.97%ということになり、総務省が新成人の人口推計を始めた1968年(昭和43年)以降、初めて1%を割り込むことになりました。
  インターネットの調査会社であるマクロミルの発表によると、今年成人式を迎える新成人の90%が日本の将来に不安を感じており、この理由(自由回答)としては不景気や就職難を挙げる声が多いようです。そして、日本が取り組むべきこととしては「雇用対策」(75%)、「景気対策」(70%)という回答が高率になっており、低迷する日本経済状況を反映しています。しかし、一方で頼もしいと感じるのは「自分達の世代で日本を変えていきたい」と思っている人が68%に上り、経済、政治に関心があると答えた人の割合はそれぞれ82%、75%と非常に高くなっていることです。
  これまでの歴史を振り返ると、明治維新も戦後の日本も若い人達のエネルギーが国を変えてきています。今年の新成人は全員が平成生まれで、日本の高度成長期や「メイド・イン・ジャパン」が世界を席巻していた右肩上がりの時代を全く体験しておらず、生まれてから今日まで、ずっと経済の低迷の中で生活してきています。そして、グローバル化が進む中で就職の氷河期が彼らを襲ってきているのです。
  我々の世代は、チャレンジしない、元気がない等といった批判をするのではなく、若者のおかれている社会の現状を理解し、若者が力を存分に発揮できるような環境づくりをしていかなければならないと思っています。

2011年01月07日

日本の文化と伝統~人日の節句

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  本日(1月7日)は五節句の一つにあたる『人日』の節句です。五節句というのは3月3日(上巳・じょうみ・雛祭り・桃の節句)、5月5日(端午・たんご・菖蒲の節句) 、7月7日(七夕・しちせき・たなばた・星祭り)、9月9日(重陽・ちょうよう・菊の節句) のように奇数の重なる日が選ばれていますが、これらの行事が始まった理由は奇数(陽)が重なると陰になるため、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うということなのです。しかし、1月だけは1日(元旦)を別格とし、7日の人日(じんじつ)になっています。そして、新年を無事に迎えられたということに対する神への感謝と邪気を払い、家族みんなが元気で一年の無病息災を願うことになっています。
  人日とは文字通り〝人の日〟という意味ですが、この由来は古代の中国において、正月の1日を鶏、2日を狗(犬)、3日を猪(豚)、4日を羊、5日を牛、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにし獣畜の占いをたてていました。そして、7日は人の日として犯罪者に対する刑罰も行なわない慣わしでした。
  この日は七草粥を食べる風習があるため七草の節句とも言われていますが、この七草粥は平安時代の初期に中国から伝えられたものです。当時は「七種粥」と呼ばれており、七草ではなく米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で作られていました。その後、鎌倉時代になって、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろという七草を加えるようになり、更に江戸時代になって1月7日が「人日」という一つの祝日に定められたこともあって、七草粥を食べる習慣が武家や庶民にも定着したようです。また、この時期に七草粥を食べるというのは、医学的にも正月のご馳走に疲れた胃腸を休めると共に野菜の乏しい冬にビタミンを補給するという効用があるとのことです。私も明日の始業式に備えて、夕食には七草粥を食べて英気を養いました。生徒達が元気に登校してくれることを願っています。

2011年01月05日

日本の文化と伝統~年賀状の由来

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  お正月の楽しみの一つは年賀状です。私も以前は年末に徹夜で年賀状を書いていましたが、パソコンを使って年賀状を作成するようになり、時間的には随分楽になりました。今年も元日には多くの年賀状が届けられましたが、何年もお会いしていない人のもの、年賀の挨拶だけのもの、近況が詳しく書かれているもの、直筆の書や絵が描かれているもの等さまざまです。しかし、毎年いただく人から年賀状が届かないと何か気になります。
  年賀状の由来は〝年始の挨拶回り〟が姿を変えたものです。わが国では古くは平安時代から明治時代にかけて正月の1日から15日までの間、主君や父母、親戚、お世話になった人に対して年始の挨拶に回ることになっていました。ところが交際の範囲が広がるにつれて、遠くで挨拶に行けない人に年始の挨拶を書いた手紙を送るということが始まりました。最初は新年になった1月2日の書初めの日に書状を認(したた)めていたようです。
  その後、明治4年(1871年)に郵便制度が発足し、明治6年(1873年)に全国一律料金の葉書が発売されることになり、この制度の定着と日本に古くからあった「年賀状」の伝統とが結びつくことになったのです。当初は、上流階級や知識人が和紙などに書いた年賀の言葉を封書で送っていましたが、はがきが普及するにつれて、これが主流になりました。そして、賀詞と名前だけでも成り立つ賀状は、誰でも簡単に書くことができるため、一般庶民にも身近な存在になっていきました。ところが、数が増えすぎて処理できないという困った問題が起こってきたため、明治32年(1899年)に年賀状は特別扱いとなり、前年に出したものが元日に届けられるようになったのです。
 一時、この制度は中止されていましたが、戦後の昭和24年(1949年)にお年玉つき年賀はがきが発売されると、爆発的な勢いで日本全国に広がり、ついに平成16年には発売枚数が44億超とピークを迎えました。その後、インターネットや携帯端末の普及に伴い、年賀状の発行枚数も減少傾向にありますが、今年も国民一人あたりでは16通の年賀状を出していることになるようです。
  お正月に届く年賀状はメールとは異なる紙の趣もあります。また日頃疎遠にしている間柄であってもお互いの消息も分かるため、なお根強い人気があるのです。

2011年01月04日

日本の文化と伝統~干支の由来

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  現在、干支というと〝鼠、牛、虎、兎、・・・・・犬、猪〟と動物を指すのが一般的で、年末には虎から兎への引き継ぎ式が行なわれています。今年は兎年ということで、いただいた年賀状にも兎の絵柄が多く見られました。しかし、本来の意味は“干支”という字を見ても解るように干(かん)と支(し)の組み合わせのことなのです。干支はもともと中国から伝わったものなので、古代中国においては十干(10進法)と十二支(12進法)によって、年・月・日・時・方位・角度・物事の順序等多くのことに使っていました。 
  『十二支』は本来「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」で表されていましたが、王充(おういつ)という人が民衆に十二支を浸透させるために、抽象的な数詞を覚えやすく馴染み易い動物に替えて文献を書いたことから始まります。
  一方、『十干』というのは五行陰陽思想によるもので、自然界は木、火、土、金(ごん)、水の五つの要素で構成されており、更にこれらを“陽”を表す兄(え)と“陰”を表す弟(と)に分けるという考え方が基本になっています。つまり、木の兄(きのえ=甲)・木の弟(きのと=乙)、火の兄(ひのえ=丙)・火の弟(ひのと=丁)、土の兄(つちのえ=戊)・土の弟(つちのと=己)、金の兄(かのえ=庚)・金の弟(かのと=辛)、水の兄(みずのえ=壬)・水の弟(みずのと=癸)の十になります。そして、この十干と十二支の組み合わせによって毎年の干支が決まることになっているのです。そして、この組み合わせは、〝10と12の最小公倍数の60通り〟あるということになります。
  このようにして、甲子(きのえね)から始まり癸亥(みずのとい)までの組み合わせが生まれます。そして60年経つと暦が元(生まれた年)の干支に戻ることになるのです。これが還暦(本圭還り・ほんけがえり)であり、〝再び赤ん坊に戻る〟ということで、赤いちゃんちゃんこを着てお祝いをするのです。
  因(ちな)みに本年の干支は「辛卯(かのとう)」で、組み合わせでいくと28番目となり、昨年の干支である「寅」は春が来て草木が生ずる状態であるのに続いて、草木が地面を覆うという意味です。
 なお、甲子園球場ができたのは大正13年(1924年)、暦の最初である甲子(きのえね)の年です。歴史上の出来事の中にも干支で表されているものがありますので、壬申の乱(672年)、戊辰戦争(1868年)、辛亥革命(1911年)等についても一度、確認しておいてください。

  平成16年 2004年   甲 (木兄:きのえ)   申 (さる) 
  平成17年 2005年   乙 (木弟:きのと)   酉 (とり) 
  平成18年 2006年   丙 (火兄:ひのえ)   戌 (いぬ) 
  平成19年 2007年   丁 (火弟:ひのと)   亥 (い)  
  平成20年 2008年   戊 (土兄:つちのえ)  子 (ね) 
  平成21年 2009年   己 (土弟:つちのと)  丑 (うし) 
  平成22年 2010年   庚 (金兄:かのえ)   寅 (とら) 
  平成23年 2011年   辛 (金弟:かのと)   卯 (う)  
  平成24年 2012年   壬 (水兄:みずのえ)  辰(たつ) 
  平成25年 2013年   葵  (水弟:みずのと)  巳(み)
  平成26年 2014年   甲  (木兄:きのえ)   午(うま)
  平成27年 2015年   乙 (木弟:きのと)   未(ひつじ)


2011年01月03日

日本の文化と伝統~初詣の由来

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  元旦に屠蘇と雑煮で正月を祝った後、近くの神社へ初詣に行きましたが、多くの家族連れの姿が目につきました。日本人は外国から伝来したものを受け入れ、日本流に焼き直す能力に長けていると言われており、家の中では仏壇と神棚を祀り、七五三のお祝いに神社に出かけ、結婚式は教会であげるといったことを、ごくあたり前のように行なっています。こういうことから、初詣の対象は神社・寺院のいずれでもかまわないということになっており、年が改まった節目である正月に、今年の願いを神仏に祈るということが一般的な行事になってきているのです。
  私達が毎年行なっている初詣の由来には二つあると考えられています。
  一つは、「年籠(としごも)り」と言って、一家の主人が、先祖の加護を願い、大晦日の夕方から元日の朝にかけて氏神の社に籠ったり、神社の前で夜を明かすという慣わしがありました。やがて、この年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」の二つに分かれることになりました。そして、元日詣が今日の初詣の原形となり、これが次第に家族総出の初詣になっていったようです。
  もう一つは、「恵方詣(えほうもうで)」と言われるものです。恵方とはその年の歳徳神(としとくしん)がいて、たたり神が来ない良い方向と考えられていました。そして、毎年の恵方は干支(えと)によって決まり、江戸時代には元日の恵方にあたる神社に参詣する恵方詣が盛んでした。このような初詣、恵方詣は明治以降に徐々に廃(すた)れていきましたが、新年の寺社にお参りする風習だけは残ったようです。なお、今年の恵方はおおよそ南南東(南微東)です。
  皆さんの中にも初詣に行かれた方が多いと思いますが、神仏にお願いするだけでは、自分の目標が達成できるということはありません。また、おみくじを引いて一喜一憂していても何の解決にもなりません。神仏の前で自分の気持ちをしっかりと固める。そして、目標を必達するために具体的な行動に落とし込み、日々実践していくことが何よりも大切であると思います。

2011年01月02日

日本の文化と伝統~御節料理

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  本来御節(おせち)というのは中国から伝えられた暦の上の節目つまり季節の変わり目などにあたる節日(せつにち)・節句のことを指します。これが移り変わる季節の節目を感じとり日本流にアレンジされ、それぞれの節句には御節料理を作ってお祝いするという風習になりました。節句というのは中国から伝えられた暦の上の風習ですが、移り変わる季節の節目を感じとり日本流にアレンジされたもので、現在残っているのは次の五節句です。
  ◇人日(じんじつ)1月7日 七草 ◇上巳(じょうみ)3月3日 桃の節句 雛祭り ◇端午(たんご)5月5日 菖蒲の節句 ◇七夕(しちせき)7月7日 たなばた 星まつり ◇重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句で、一月を除いてはすべて奇数の重複する日になっています。この節日を節句といって祝膳を神に供えていましたが、一般に祝う節句は正月のみになり、御節は正月に作られる料理のことを指すようになったのです。近年、スーパーやデパート、コンビニ等で簡単に御節料理を入手することができるようになった結果、御節料理を作る家庭が少なくなり、その意味も薄らいできています。

  御節料理の基本は、お屠蘇、祝肴三種、雑煮、煮しめですが、正月には火の神である荒神を怒らせないため、台所で火を使うことを避けるという意味から、正月料理には火を通したり、干したり、酢に漬けたり、味を濃くする等日持ちする物が多く、それぞれには縁起や願いが込められています。
  田作り(たづくり)   田畑の高級肥料としての鰯を使用し豊作を願う
  数の子(かずのこ)  卵の数が多いということで子孫繁栄を願う
  黒豆(くろまめ)    黒色には魔よけの力があり、まめ(勤勉)に働く
  昆布巻(こぶまき)  よろこぶという語呂合わせ
  鯛(たい)       めでたいという語呂合わせ
  海老(えび)      腰の曲がった老人を連想させることから長寿を願う
  蓮根(れんこん)   穴があいているから見通しが良くなることを願う
  慈姑(くわい)    大きな芽が出るからめでたいという意味を表す
  里芋(さといも)    小芋がたくさんつくことから子孫繁栄を願う
  鰤(ぶり)       出世魚であり出世を願う  
  蒲鉾(かまぼこ)   紅はめでたさと喜びを表し、白は神聖を表す
  栗(くり)きんとん   黄金色に輝く財宝にたとえて、豊かであることを願う
  牛蒡(ごぼう)     細く長く地中にしっかり根を張ることを願う 等です。

  また、これらの料理はめでたさを重ねるという意味で重箱に詰めますが、日本各地において、重箱は「塗り」や「漆器」「彫り」といった独特の工芸品として発達し、今日に至っているのです。

2010年12月31日

日本の文化と伝統~大晦日と除夜の鐘 

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  今年も昨年に引き続き、政治も経済も激動の一年でした。この中で、皆さんはそれぞれの思いで一年を振り返り、来年度に向けての決意を胸に秘めておられることと思います。
  年の最終日は大晦日(おおみそか)と呼ばれていますが、この「みそか」というのは本来「三十日」と書き、月の三十番目の日ということです。やがて、これが転じて月の最終日を指すことになりました。また、晦(つごもり)というのは陰暦では十五日に満月となり、月末になると月が見えなくなってしまうため、月隠(つきごもり)が訛ったものです。そして、一年の最後のことを「みそか」に「おお」をつけて「おおみそか」「おおつごもり」というようになったのです。
  また、大晦日の夜を除夜(じょや)と言いますが、これは一年の日ごよみを除くという意味であり、一年を締めくくり、暮れゆく年を惜しむということから色々な行事が行なわれてきています。
その代表が除夜の鐘をつくというものですが、この風習は中国の宋の時代に起こり日本には伝来したのは鎌倉時代と言われています。新たな思いで新年を迎えるために、今年一年の自分の行いを改めて振り返り、至らなさや愚かさをしみじみ反省しながら除夜の鐘と共に洗い流すという趣旨です。
  私も社会人になるまでは奈良に住んでいましたので、毎年NHKの紅白歌合戦が終わると友人と初詣に出かけ、興福寺で除夜の鐘をついていたものです。
  それでは、どうして除夜の鐘は108回つくことになっているのでしょうか。これは人間の煩悩の数を表しているのです。即ち、人間の感覚を司るのは、「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」「意」の六根。これに「好(気持が良い)」「悪(嫌だ)」「平(何も感じない)」の三種類。また「浄(きれい)」「染(きたない)」の二種類。最後に「現在」「未来」「過去」の三つ。これだけの組み合わせを考えると6×3×2×3=108ということになります。
  なお、正式な数珠の数は人間の煩悩の数と同じ108個です。しかし、一般的には簡易タイプとして54個(2分の1)や27個(4分の1)が使われています。是非、一度確認しておいてください。

2010年12月30日

日本の文化と伝統~年越しそば

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  今年も明日一日を残すばかりになりました。この大晦日には暮れゆく年を惜しむという意味で昔から色々な行事が行なわれてきていますが、その代表的なものが年越しそばを食べるという風習です。わが国には古くから続いている食習がありますが、起源や由来がはっきりとしないことが多いのです。
  この年越しそばを食べる風習は、江戸時代中期から始まったと言われていますが、特に商家において月の末日に蕎麦を食べる「三十日蕎麦(みそかそば)」という習慣がありました。これが大晦日のみに残ったものと考えられています。これらの理由を挙げると〝そばは伸ばして細く長く伸びるので、寿命や身代、家運が長く伸びることに繋がる〟〝金細工師が一年の作業を終える時に、そば粉を丸めて散らかった金粉を寄せ集めていたことからお金が集まる〟〝そばは切れやすいので、旧年の苦労や災厄をきれいさっぱり切り捨てる〟〝そばは風雨にあたっても、翌日陽が射すと起き上がるということから捲土重来を期す〟〝家族そろって食べることが多いことから末長く、そばにいたい〟等といった意味が込められているようです。
  このように大晦日には日本各地で「年越しそば」を食べるしきたりがありますが、それぞれの地で「つごもりそば」「みそかそば」「暮れそば」「運そば・運気そば」「歳とりそば」「大年そば」「福そば」「寿命そば」「年切りそば」等の違った呼び方があるようです。
  また、かつて勤務していた高松では、讃岐うどんの産地ということで、大晦日でもうどんを、沖縄ではそば粉ではなく小麦粉を使った沖縄そばを食べて、一年を振り返っています。

2010年12月28日

日本の文化と伝統~注連縄と門松の由来~

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  昨今は年末年始を海外や帰省先で過ごす人が増えてきています。また、お正月の御節料理を作ったり、飾り付けを行なう家庭も少なくなってきているため、わが国の伝統的な行事や文化の意味を知らない若者も多いようです。新しい年を迎えるにあたって、これまで日本において行なわれてきた行事や風習を何回かにわたって紹介したいと思います。
  年末には〝煤(すす)払い〟を行ない、〝注連縄(しめなわ)〟を張り、〝門松〟や〝鏡餅〟を飾り、御節料理を作り、大晦日には年越しそばを食べます。最近はスーパーやデパート、コンビニ等でも御節料理やお餅を販売しているため、手軽に購入することができますが、私の幼少の頃はお餅つきをし、御節料理を作るのはあたり前でした。そして、お正月には家族全員がお屠蘇でお祝いし、雑煮や御節料理を食べるというのが一般的でした。
  今回は注連縄と門松の由来についてお話します。
  まず、玄関先に注連縄を張るのは、家の中に悪霊を入れず穢(けが)れをぬぐい去り無病息災・家内安全を祈るものです。神社などで見られるように注連縄は神聖な場所に渡し、内(神域)と外(現実社会)を隔てて、不浄に触れさせないために用いられるものです。
  また、門松については平安時代に中国から伝わり、現在の様式が決まったのは室町時代であると言われています。最近は簡略化されたものがほとんどですが、本格的な門松には竹の先端が斜めにカットしてある「そぎ」と呼ばれるものがあります。この風習は徳川家康が始めたと伝えられています。家康は戦上手でしたが、生涯唯一の敗北として知られる「三方ヶ原の戦い」(1572年)では武田信玄の騎馬軍団に完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされました。この戦いの後、信玄に対して次は斬るぞという念を込めたのがこのそぎの始まりです。
  なお、門松や注連縄を飾るのは29日と31日を避けるのが良いとされています。この理由は、29日は「二重苦」、9の末日ということで「苦待つ」に通じる、また31日は「一日飾り」と言って神をおろそかにするからです。今日までに飾っておられない人は、是非、明日を避けて30日に飾ってください。

2010年11月19日

漢字の起源

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  生徒達は校内の大漢字テストに続いて、先日漢字検定に挑戦しましたが、最近私も通勤時間を利用して、漢字に関する本を読み始めています。そうすると漢字に関する色々な興味深いことが解ってきました。
  私はこれまで漢字は中国の「漢」の時代に使われだしたと思っていましたが、『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』によると、実はもっと古くから使われていたようです。今日は、この本の内容を紹介したいと思います。
  〝漢字のルーツを辿ると、今から3200年前、中国の安陽(河南省)に都した「殷王朝」がトいに用いた亀の甲羅の腹や牛の肩甲骨などに文字を刻した甲骨文字が始まりです。殷から「周」の時代にかけては青銅器に文字を鋳込んだ金文(約3000年~2300年前)があります。その後、「周」のあとをうけた「秦」の始皇帝が統一した小篆(しょうてん)(約2200年前)という字形を経て、漢の時代に現在使用している漢字にほぼ近い書体が生まれました。そして紀元100年頃に後漢の許慎が、それまでの文字を体系化して「設文解字」とまとめ、これが長い間漢字の聖典として扱われていました。ところが1899年に殷の時代の甲骨文字が発掘され、解読が進むにつれて、この「設文解体」には多くの間違いがあることが解ってきた、ということです。
  
  白川静氏の功績は膨大な金文を精密に読み込んだ研究により、新しい漢字の体系を打ち出したことであると言われています。私もこれまで何十年間も漢字に接してきましたが、あまりにも知らなかったことが数多くあります。どのようなことも勉強すればするほど奥深いものがあると感じています。この本の続編として『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』が出版されていますので、これも読んでいきたいと思っています。

2010年10月11日

平成22年体育の日にあたって

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  本日は1年に15日ある祝日の12番目にあたる体育の日です。このルーツは1961年(昭和36年)に制定されたスポーツ振興法の「スポーツの日」(10月の第1土曜日)ですが、この日は祝日ではありませんでした。その後、1964年(昭和39年)に東京オリンピックが開催され、日本は柔道、重量挙げ、男子体操、女子バレーボール、レスリング、ボクシングで金メダルを獲得し、国民に勇気と感動を与えました。この輝かしい成果と感動を記念して開会式が行なわれた10月10日を、1966年(昭和41年)から『体育の日~国民がスポーツに親しみ、健康な心身を培う日』として国民の祝日に制定したのです。その後、2000年(平成12年)からは「ハッピーマンデー法案」の制定により、体育の日は10月の第2月曜日になりました。
  そして、現在は成人の日(1月の第2月曜)、海の日(7月の第3月曜)、敬老の日(9月の第3月曜)とあわせて、4つの祝日がこの法案の適用を受けています。私も以前はバレーボール、テニス、ゴルフ等のスポーツに親しんできましたが、最近は体を動かすことはほとんどなくなってしまいました。運動が必要だと感じながら、時間がないことを理由に遠ざかっていますが、健康維持のためにも体に負担にならない軽い運動から始めたいと思っています。
  なお、日本の観測史上晴れる確率が最も高い日が10月10日ということで、この日が東京オリンピックの開会式になったのです。また、日本全国ではこの時期に運動会をする学校や団体が多いようです。本学園でも昨日は中山台幼稚園、本日は雲雀丘幼稚園の運動会が秋晴れの下、開催されました。

2010年09月26日

日本の文化と伝統~彼岸を終えて

tusin053_higan.jpg  tusin052_ohagibotamochi.jpg  まんじゅしゃげ(ヒガンバナ)            おはぎ

  わが国においては、毎年二回3月の春分の日と9月の秋分の日の前後3日間を合わせた一週間をお彼岸として先祖の霊を供養する習慣になっています。現在、日本では仏教が主流になっているため、秋彼岸最終日にあたる今日は墓参りや先祖の供養をされた人も多かったのではないかと思います。
  この供養というのは仏様の徳を敬う心の基調となるものであり、これを行なうことによって自分の徳が磨かれることになるのです。あまり知られていませんが、供養には次の六つがあります。
  一つ目は「花」で耐え忍ぶ徳、二つ目は「ご飯」で心をしずめる徳、三つ目は「お茶・水」で施しの供養、四つ目は「お灯明」で智恵の徳、五つ目は「お線香」ではげみ(精進)の徳、六つ目は読経の前に手に塗る茶色の粉の「お塗香(おずこう)」で、仏の戒めを守る徳です。
  また、彼岸には、仏壇にご飯の代わりに、もち米と小豆を使った「ぼたもち」や「おはぎ」をお供えしますが、この理由は小豆が邪気を祓(はら)うとされているからです。もち米とあんこで作った同じ食べ物の呼び方が違うのは、食べる時期が異なるためです。つまり、それぞれの季節を意識して名前が変えられており、春の彼岸には「ぼたもち(牡丹餅)」、秋の彼岸には「おはぎ(お萩)」という花の名前がつけられているのです。そして、牡丹餅には〝こしあん〟、お萩には〝つぶあん〟が使われています。何気なく食べている「ぼたもち」や「おはぎ」にもそれぞれ理由があるものですね。

2010年09月23日

秋分の日と彼岸にあたって

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  本日(9月23日)は昼と夜の長さがほぼ同じになる「秋分の日」で、祝日になっています。この日を中日として前後3日間は彼岸(秋彼岸)と呼ばれており、この期間には先祖の霊の供養を行なうことになっています。昔から〝暑さ寒さも彼岸まで〟と言われていますが、今日は明け方の雷雨の影響で、気温も急速に下がり、随分しのぎ易くなりました。
  彼岸というのは、もともと古代インドの梵(サンスクリット)語の「到彼岸」波羅蜜(パーラミータ)が語源です。仏教では私達が住む迷いや煩悩に満ちた世界は此岸(しがん)、一方苦しみのない涅槃常楽(ねはんじょうらく)な悟りの世界を彼岸(ひがん)と呼んでいます。そして、到彼岸というのは〝彼岸に到る〟という意味です。つまり「悟りの世界」へ渡ることを願って、実践行(修業)を行なうことがお彼岸法要の本来の意味なのです。
  六波羅蜜という言葉を聞かれたことがあると思いますが、これは彼岸に行くために自らの行いを慎む「六つの修行」のことです。
  また、この彼岸にはお墓参りをされる方も多いようですが、我々の命は何代にもわたる先祖の命を受け継いでいるということをしっかりと受け止めて、日々生活していくことが大切であると思います。

  ≪参考≫ 六波羅蜜
    『布施(ふせ)』 施しをする
    『持戒(じかい)』 戒律を守り反省する
    『忍辱(にんにく)』 不平不満を言わず苦しみに耐える
    『精進(しょうじん)』 何事も怠らずに励む
    『禅定(ぜんじょう)』 心静かに乱さない
    『智慧(ちえ)』 真実の教えに目覚める
 

2010年09月20日

敬老の日を迎えて

  本日、9月20日(月)は「敬老の日」であり、祝日法では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し長寿を祝う日」と定義されています。
  敬老の日の由来は1954年に9月15日を「としよりの日」という名前で制定されたのが最初です。しかし、この呼び名については各方面から異議が出され、1964年に一旦「敬老の日」という名称に改められました。その後、1966年に国民の祝日法が改正された際に「建国記念の日」や「体育の日」と共に祝日に制定されました。更に2003年からはハッピーマンデー法の導入に伴い、「成人の日」「体育の日」と同様の異動祝日(9月の第3月曜日)になり、今日に至っています。
総務省がこの日に先立って発表した推計人口によると、
  ①総人口は1億2739万人(昨年比15万人減)
  ②65歳以上は2944万人(昨年比46万人増、総人口比23.1%)
  ③80歳以上が初めて826万人と800万人の大台を突破
ということで、更に高齢化が進みました。
  このままでは団塊の世代が65歳に到達する2012年(平成24年)には3000万人が高齢者の仲間入りをすることになります。現在、日本は世界一の高齢化社会になっていますが、この原因は出生数の減少と共に平均寿命が延び、高齢者数が増えてきているからです。また、65歳以上の高齢就業者は565万人と増加し、就業率は男性28.4%、女性で13.0%になっているようです。
  現在、世界の先進国も高齢化が進んできており、日本がこの高齢化をどのように乗り切っていくのかということについては、各国から注視されています。これからは労働力人口が減少する中での高齢者の活用、総需要の低迷に対する歯止め、出生率の回復、福祉制度の見直し等さまざまな取り組みが必要になってきているのです。
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2010年08月15日

終戦記念日にあたって

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  本日(8月15日)、65回目となる終戦記念日を迎え、第2次世界大戦の悲惨な体験が次第に風化されつつあります。この戦争では日本の軍人230万人、一般人80万人、あわせて310万人とアジアの国々を中心に約1680万人の死者が発生し、更に日本は世界で唯一の原子爆弾被爆国となりました。
  この敗戦は日本にとってあらゆる面で大きな転換点になりました。光の部分では、工業化の進展に伴って物質的には豊かになり、世界に冠たる経済大国になりましたが、陰の部分も多く生じることになりました。その最たるものは、精神面ではないかと思います。かつて、日本人は羞恥心や奥ゆかしさ、思いやりに加えて忍耐力も兼ね備えた礼儀正しい民族でしたが、これらの美徳がことごとく消失しつつあります。
  また、工業化の反動によって、美しかった故郷の棚田や森は姿を消し、河川や海は汚れてしまいました。更に〝勿体ない〟という質素な生活も、いつの間にか陰をひそめ、物を大切にする気持ちが薄らいできています。世界中から食糧を集め、使い捨て商品や廃棄食材によるごみは溢れ、冷暖房や照明・輸送にかかるエネルギーを無駄遣いする等の憂慮すべき状況になっています。この半世紀に、日本人の食生活は大きく変化し、米と魚と野菜中心の食事からパンや肉を中心とした「食の西洋化」が急速に進んでしまいました。
  現在、世界ではいたるところで紛争が発生しており、核を保有する国も増えてきています。また、深刻な食料不足に陥っている国も散見されます。この終戦記念日にあたって、今一度世界の平和を願うと共に我々の生活のあり方を見直していきたいものです。

2010年08月13日

お盆を迎えて

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  お盆は8月15日を中心に13日から16日までに行なわれるのが一般的で、かつてはお正月と共に重要な休みということになっていました。この期間は日本全体が一斉に休むということが多かったようですが、最近では〝夏の休暇〟という色彩が強くなり、混雑を避けるために7月末から9月初めにかけて交替で休暇をとるというパターンが増え、本来のお盆の意味が薄らいできているように感じます。
  盆は正式には仏教におけるインドの古語であるサンスクリット語のUllambana(ウランバナ)が漢字に音写されて盂蘭盆会となり、これを略したものです。このウランバナというのはもともと『逆さづり』という意味で、〝地獄の苦しみを受けている人々を供養する〟ことによって救おうとするものですが、これとわが国固有の先祖を崇拝するという心とが融合して、日本においてお盆の行事が生まれました。
  一般的にはまず仏壇を掃除し、季節の果物、野菜、餅菓子等のご馳走を供えます。更に先祖が乗ってくるということでキュウリとナスで精霊馬(しょうりょううま)を作り供えると共に盆提灯や盆灯篭を飾ります。キュウリは先祖の霊を早く迎えるための馬を、ナスはゆっくりお送りするための牛を表しています。この後、13日の夕方には家族でお墓参りをして火を焚いて祖先の霊を迎えることになりますが、現在はほとんどの家が墓地と離れているため、野外で迎え火をたき、先祖や亡くなった人を迎え、16日の夕方には送り火をたいてお送りすることになっています。
  お盆には日本各地で色々な催しが行なわれますが、有名なもののひとつに京都の大文字焼きがあります。伝統の行事となっており、多くの人が見物に訪れますが、正式には「京都五山送り火」と言われ、お盆に行なわれる送り火と同じ意味です。
 我々がこの世に生を受けたということは何代にもわたる先祖の方々の命を受け継いできているということです。このお盆の期間には、家族全員で是非ご先祖を尊ぶという気持ちで過ごしていただきたいものです。

2010年07月28日

相撲の歴史と伝統

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  わが国の国技と言われている相撲は、最近では残念なことに人気が低迷し、野球やサッカー、テニスゴルフ等に主役を奪われつつあります。更にこれに追い討ちをかけるように不祥事が相次ぎ、ついにNHKが大相撲名古屋場所のテレビの放映を取りやめることになりました。今場所は横綱白鵬が全勝優勝を遂げましたが、天皇賜杯の授与もなく寂しい千秋楽でした。このままの状態が続けば、存続するのも難しいのではないかという声も囁かれ始めています。
  相撲は実に古い歴史を持っています。このことは「日本書紀」の中に、紀元前23年7月7日、出雲の野見宿禰(のみのすくね)が、大和の暴れ者 当麻蹴速(たいまのけはや)と天皇の前で対戦して勝ったという記述があることからも分かります。「すもう」の語源は争うという意味の「すまひ」が「すまふ」となったと言われており、古代には格闘技としての意味合いが強いものでした。その後平安時代には力のある男性が神前で天下泰平、子孫繁栄、五穀豊穣、大漁を祈り、その力を捧げる神事として確立しました。続いて鎌倉時代以降の武家社会には武道として奨励されることになり、源頼朝や織田信長は度々上覧相撲を催したと伝えられています。更に江戸時代には芸能や職業スポーツとして位置づけら、「大相撲」という形での組織化がなされ、今日の大相撲の基礎が築かれることになったのです。
  世界には、さまざまな格闘技がありますが、相撲の特徴は〝丸い円の土俵〟〝着用するのはまわしのみ〟〝髷(まげ)を結う〟等は独特のものであり、土俵入り後に拍手を打って、両手を広げ、手の平を下に向ける意味は「私は武器を持っていません、素手で、正々堂々と勝負します。」 という意味なのです。
そして、それ以上に天皇や皇太子等のロイヤル・ファミリーとの結びつきが強いということがあげられます。かつて天皇が神事祈願される相撲節会(すまいのせちえ)では相撲が催されましたが、この際天皇は北側に座られることになっていました。東の横綱が最高位というのも天皇の左側に位置しているからであり、むこう正面が南というのもこの理由なのです。
  現在、外国人力士が増えたことにより、相撲界が大きく変わりつつあると言われていますが、このような相撲の歴史や伝統、マナーをしっかりと伝承していくことが大切であると思っています。

2010年07月26日

土用の丑の日にあたって

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  今年は、本日(7月26日)が土用の丑の日で、鰻を食べた人も多かったのではないでしょうか。万葉集の巻十六には大伴家持の『石麻呂に 吾物申す 夏痩せによしと云う物ぞ うなぎ取り召せ』という歌が残されていることから分かるように、日本では1000年も前から、夏ばてを防ぐために鰻を食べる習慣があったようです。暑いときに食べるというのはたぶん自然に生活の知恵として定着していたと思われます。
  土用というのは元々土旺用事と言ったものが省略されたものです。現在、土用というと夏だけのものになっていますが、正確にはすべての季節にあるのです。日本の暦は元々、木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)という五行説がベースになっていますが、これらの五つを四つの季節に割り振ろうとすると無理が生じます。そのため、まず春は木、夏は火、秋は金、冬は水というように割り振ることにし、次に残った土はすべての季節に均等に存在するものとして、それぞれの季節に入る前の18~19日間をあてることにしたのです。このため「土用の明け」は次の季節の始まる日の前日(夏土用は、立秋の前の日に終わる)ということになります。従って、土用は立春、立夏、立秋、立冬の前に四回あるということになり、更にこの間の日々にはそれぞれ子・丑・寅・・・という十二支があてはめられています。そして、各土用の中で丑の日にあたる日が「土用丑」と称して鰻を食べる日ということになっているのです。
  現在、日本は世界一の鰻消費国で、国民一人あたりが食べるのは年間約5本です。鰻については近年、その驚くべき生態が解明されつつあり、また、永年の夢であった〝鰻の完全養殖〟も叶えられつつあるのです。

2010年05月04日

祝日の意義

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  4月末から5月にかけては祝日が多くあり連休になるため、今年も帰省や旅行に出かけられた人も多いのではないかと思います。この期間はゴールデンウィークと呼ばれているように、〝休む〟ということが先行しており、祝日の意義については無関心な人が増えてきているように思います。また、私達のこどもの頃は祝日には必ず家の玄関に国旗を掲揚していましたが、最近ではこの習慣もほとんど見られなくなってしまいました。このため、祝日についても知らない子ども達も多いように感じています。しかし、日本人である以上、祝日の意義についてはしっかりと認識しておきたいものです。
  ゴールデンウィーク中の祝日とその意義は次のとおりです。
 ◇4月29日は〝激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす〟という『昭和の日』 ◇5月3日は〝日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する〟という『憲法記念日』 ◇5月4日は〝自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心を育む〟という『みどりの日』 ◇5月5日は〝こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに母に感謝する〟という『こどもの日』です。
  明日の『こどもの日』はゴールデンウィーク最後の祝日になりますが、もともとは中国の暦法で定められていた五節句の一つです。五節句というのは暦の中で奇数の重なる日に定められており、邪気を祓うという目的で設けられたもので、人日(じんじつ・1月7日)、上巳(じょうし・3月3日)、端午(たんご・5月5日)、七夕(たなばた・7月7日)、重陽(ちょうよう・9月9日)です。(但し、1月1日だけは別格で1月7日)
  そして、端午の節句には男の子の健全な成長を祝うという趣旨で、内飾りである鎧(よろい)や兜(かぶと)、五月人形を飾り、外飾りである鯉のぼりを上げるという風習が伝わっているのです。
  現在、わが国の祝日は15日ありますが、最低限これらの制定の趣旨は知っておきたいものです。

2010年05月03日

道成寺~日本の歴史を知る

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  この連休を利用して、和歌山県日高郡日高川町の玉置俊久町長を訪問しました。同氏はパナソニックの四国支店時代の同僚ですが、会社を早期退職して帰郷し、減農薬のみかん栽培を行なうと共に観光協会の会長や文化財保護審議委員、(財)笑の里評議員、玄子地区ほたるを守る会、魅力あるふるさと「日高」づくり、手づくりログハウス倶楽部等の要職に就任され、地域の活性化に尽力してこられました。その後、昨年5月に日高川町長に当選され、新しい町づくりに取り組んでおられます。また、今回の新校舎の一部には和歌山の天然木を使った机と椅子を入れることにしましたが、同氏に大変お世話になりました。折角の機会ですので、白崎海岸と道成寺(どうじょうじ)を案内していただきました。
  道成寺と言えば、能楽、歌舞伎などの芸能にとりあげられている安珍・清姫の物語の舞台になったお寺として有名です。実は、私もこの認識しかありませんでしたが、同寺の小野俊成(おのしゅんじょう)副住職の説明をお聞きして、実に由緒のあるお寺であるということが分かりました。建立されたのは、大宝元年(701年)ですから、平城京より前ということになり、和歌山県下に現存するものでは最古の寺です。同寺は文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成卿が建立したと言われていますが、別の伝承では、文武天皇の夫人である藤原宮子(藤原不比等の養女で聖武天皇の母にあたる)の願いにより文武天皇が創建したとも言われています。
  また、道成寺は当初法相宗(ほっそうしゅう)でしたが、江戸時代に入って紀州徳川家の命で天台宗に変わったとのことです。最初に、ご本尊である国宝の千手観音菩薩様や二十数体の仏様を拝観しましたが、この千手観音様は、1300年前に作られており、日本で最初か二番目の古さです。千手観音像は42本の手で千手を代表させるのが一般的ですが、道成寺の像は2本多い44本の手を有しているとの事です。その後小野副住職から「安珍清姫」の絵巻物を見せながらのユーモアたっぷりの説明を受けました。また、北面の本尊は「北向観音」と呼ばれ、33年に一度、33日間だけ公開される秘仏となっています。更に同寺の建物の配置は調和のとれた素晴らしいもので、法隆寺とほぼ同じとのことです。そして、『妻寶極楽』の色紙をいただきました。
  現在、平城遷都1300年祭が開催されていますが、わが国の歴史についてまだ知らないことが多く、これを機会にしっかりと学習していきたいと思いました。

2010年04月30日

昭和の日の意義

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  ゴールデン・ウィークのスタートにあたる4月29日は〝激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす〟という趣旨の『昭和の日』です。
  この日はもともと昭和の時代には天皇誕生日という祝日でした。しかし、昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、年号が「平成」に改められたことを受け、平成元年からはこの天皇誕生日が『みどりの日』ということになりました。その後、平成19年からは、この「みどりの日」が「昭和の日」に変更されることになり、同時に5月4日に移されることになったのです。
  今年、昭和元年(1926年)生まれの人は84歳、終戦の年(1945年)に生まれた人も65歳となり、高齢者の仲間入りをするようになってきました。私も戦後生まれの一人ですが、これまで戦後の苦難期、高度成長期、世界から羨望のまなざしで見られた絶頂期、バブル崩壊後の低迷期等日本の成功と挫折を経験してきました。
  平成元年というのは、ベルリンの壁が崩壊し東西の冷戦が終結するのと同時に中国において天安門事件が起こった年にあたります。この年に生まれた人は21歳になりますが、考えてみると、今の子ども達は生まれてからずっと経済の低迷期の中で、閉塞感を持ちながら過ごしてきています。現在の日本は戦後の苦難期に比べるとまだまだ恵まれた状況にあると思いますが、このままでは国際社会の中での日本の地位はますます低下することになります。
  この記念日を昭和の時代の苦難と繁栄をしのび、子ども達に語り継ぐと共に世界に向って大きく羽ばたく積極的な行動に結び付けていく日にしたいものです。

2010年03月21日

プラス思考で前向きに生きる (Ⅱ)

  過去の歴史が証明しているように、今回の不況も新しい技術革新が起き時代が変わるチャンスであると前向きに受け止めることが大切です。日本の現状については「資源がない」「人口が減少する」「急速に高齢化が進む」「地震が多い」といったことがマイナス要因としてあげられます。しかし、資源がないといっても周囲が海で囲まれているため、海洋面積は世界第6位でほとんどが未開発です。人口が減るといっても1億人を超えている国は世界193カ国の中で、わずか11か国しかありません。また高齢化については多くの国が早晩経験することであり、日本が仮に医療や年金等の問題を解決するノウハウを確立すれば、これは素晴らしい財産になります。地震が多いということで、住宅や原子力発電所の耐震基準や予知の取り組みでは先行していますが、最近世界で大地震が頻発していることを考えると、これも大きな武器になります。更に、世界に誇る環境技術や販売ノウハウ等も数多く有していますし、何と言っても日本人が本来有している〝もったいない精神〟や〝相手に対するおもいやり〟や〝共生〟〝日本食〟〝伝統文化〟といったものはこれからの国際社会において大いに役立つことになると思われます。
  今後、世界の人口が急増する中で、グローバル化がますます進展することになり、活躍する場はどんどん広がります。しかし、急速に世の中が変化するため、折角身につけた専門知識もすぐに陳腐化してしまうことになります。これまでのように一旦専門知識を習得すれば何年にもわたってこれを活用することにより、安定した仕事に就けるということはなくなってきます。言い換えると、どの大学を出たかということは大きな意味を持たなくなり、真の実力がためされることになります。従って、社会に出てからも絶えず新しいことへ挑戦する、新しい知識・技能・ノウハウを取り入れ錆つかさないようにする、という姿勢が大切なのです。また、色々な国の人達と共に働くということも必要になってきます。当然のことながら語学力やプレゼンテーション能力はもとより、グローバルな視点が求められます。突きつめると社会で活躍するためには、知識・情操・意志の三つのバランスがとれている事が大切です。知識には「基礎知識」「専門知識」「一般常識」といったものが含まれますが、これらは比較的点数ではかれるものが多いようです。そして情操には「おもいやり」「真心」「素直な心」「感謝」「情熱」といったものがあり、意志には「ゆるぎない志」「我慢強い」「根気」といったものが含まれますが、これらは点数ではかれないものなのです。言い換えると、社会で活躍するためには「点数ではかれる力」と「点数ではかれない力」の二つが必要になってくるのです。そして、このベースにあるのは、人間としてのしっかりとした根っこです。
  これからは常に人生を通じて人間力・人格をしっかりと磨くと共にプラス思考で前向きに生きるという姿勢を持ち続けて欲しいと思います。

2010年02月03日

日本の文化と伝統~節分~

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  本日、2月3日(水)は節分です。この日には豆まきをし、恵方巻を食べるということが一般的になっていますが、節分の意味を理解している人は少ないように思います。
  節分というのは、「季節を分ける」と書くように〝季節の移り変わる時〟を意味しており、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を指します。従って、節分は一年には4回あるということになります。この中で、新年の始まりに相当する「立春」の前日に当たる節分がもっとも重要視されていたため、一般的に節分と言えばこの日をさすことになりました。次に、この日に行なわれる行事の由来について紹介します。
  「豆まき」をするのは、季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられており、その邪気を追い払うことによって、春を無事に迎えようとするものです。また、豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより無病息災を願うという意味も込められています。
  また、「鰯(イワシ)の頭を柊(ヒイラギ)の枝に刺して戸口に立てる」というのは、焼いた鰯の頭の悪臭と柊の棘で鬼を追い払うという意味です。
  更に、最近全国に広がってきている「恵方巻きのまるかぶり」は福を巻き込み、縁を切らないために切らずに食べるという意味です。
  私も帰宅後、豆まきをし、今年の恵方である西南西の方向を向いて、願い事を思い浮かべながら、しゃべらずに黙々と恵方巻きを食べました。
  
  参考までに、北東の方角は「鬼門」と呼ばれていますが、鬼が出入りする方向ということでこの名前がつけられています。北東の方角は十二支では丑と寅のうしとらにあたります。このため鬼は牛の角を持ち虎皮のパンツを穿いていると言われています。
  また、節分に恵方巻きを食べる風習はバレンタインのチョコレートと同様、コンビニやスーパー等が努力して定着させてきたという側面もあるようです。

2010年01月11日

成人の日にあたって

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  本日(1月11日)は元日に続く2番目の祝日となる『成人の日』です。当初は1月15日とされていましたが、現在は、2000年に制定されたハッピーマンデー法に基づき1月の第2月曜日、(1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日)に改正され、現在に至っています。
  現在の日本の公定休日は15日ありますが、その基本となっているのは太平洋戦争後の昭和23年(1948年)7月20日に公布、施行された「国民の祝日に関する法律」(略して祝日法)です。その後、昭和41年(1966年)には『建国記念の日』『敬老の日』『体育の日』が追加されました。そして、平成になると、これまでの天皇誕生日が『みどりの日』に、皇太子誕生日が『天皇誕生日』になり、更に平成8年には『海の日』が加えられました。
  最近、色々な場面で感じるのはあまりにも日本のことを知らない人が増えてきているということです。祝日についても、昔のように各家庭で日の丸を掲揚することもほとんど見かけなくなり、その制定の趣旨について語られることもなくなってしまいました。そのため、〝単に休む日が増えた〟という感覚で過ごす人が大半ではないかと思います。
  国民の祝日に関する法律(祝日法)では「成人の日はおとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」とされていますが世界的に見ても、このような祝日は珍しいと言われています。日本は太平洋戦争後、国土が荒廃し物資も食料も不足していた時代に最も必要とされていたのは「国を再建していく人材」でした。良い「国家」を作っていくためには、国民自身が成長していかなくてはならないと考え、〝こどもから大人になった自覚を持ってほしい〟と願ってこの日を祝日にしたと伝えられています。
  今年の元日を二十歳で迎えた新成人は127万人となりましたが、ほとんど(約125万人)が平成生まれということになります。新成人を含む今の若者達は日本の成長期を知らず、チャレンジしない、元気がない等と批判されていますが、明治維新も戦後の日本も若い人達のエネルギーが国を変えてきたのは事実です。成人の日にあたって先人の想いを知ることが、成人になる第一歩ではないかと思っています。

  ≪ご参考≫私の友人である斎藤秀夫氏より、今夜NHK総合22時放送の「世界遺産への招待状・イタリア・ベネチア」の案内がありました。時間の許す方は是非ご覧下さい。

2010年01月03日

今年の干支(庚寅)

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  「今年のえとは?」と質問すると〝虎〟という答えが返ってきます。現に、今年いただいた年賀状を見ても虎の絵柄が数多く見られます。
  しかし、「えと」という字は「干支」と書くように「干」と「支」の組み合わせであり、十干と十二支から構成されています。つまり、十干というのは五行(木、火、土、金、水)を更に陽を表す兄(え)と陰を表す弟(と)に分け、 甲(きのえ)乙(きのと)、丙(ひのえ)丁(ひのと)、戊(つちのえ)己(つちのと)、庚(かのえ)辛(かのと)、壬(みずのえ)癸(みずのと)の10になっています。
  一方、十二支は12年で太陽の周りを一周する木星の軌道をベースにしており、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)の12に分かれています。そして分かりやすいように動物の名前がつけられたのです。
  この十干と十二支を組み合わせると、10と12の最小公倍数である60種類の暦が出来上がります。この60の暦の最初が甲子(きのえね)であり、次が乙丑(きのとうし)と続き、最後が癸亥(みずのとい)になります。因みに昨年は26番目の己丑(つちのとうし)、今年は27番目の庚寅(かのえとら・こういん)、来年は28番目の辛卯(かのとう)になります。そして、60歳になると暦が元に戻るという意味で還暦のお祝いをするのです。
  さて、今年の「庚(かのえ)」は糸巻の芯棒(しんぼう)を表す象形(しょうけい)文字であり、芯棒であるところから、硬い・強いといった意味になります。このことから「庚」のつく今年は、すべてにおいてしっかりと基礎を築き、芯を固める年ということになります。今年、本学園は創立60周年を迎えますが、まさに原点に戻って再構築することが必要であると思います。
  なお、歴史を遡ると、甲子園球場ができたのは甲子の年(1924年)、壬申の乱(672年)、戊辰戦争(1868年)、辛亥革命(1911年)等とそれぞれ干支が刻み込まれていることが分かっていただけると思います。

2009年12月31日

大晦日にあたって~年越しそばと除夜の鐘~

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  大晦日を迎え、皆さんはそれぞれの思いでこの一年を振り返っておられることと思います。大晦日には暮れゆく年を惜しみ、新たな気持で新年を迎えるということから、色々な行事が行なわれています。晦日(みそか)というのはもともと「三十日」と書き、月の三十番目の日ということでしたが、転じて月の最終日を指すことになり、十二月は年の最後ということもあって大晦日と呼ばれるようになったのです。
  また、大晦日の夜を「除夜」と言いますが、これは一年の日ごよみを除くという意味なのです。 そして、今年一年の自分の行いを改めて振り返り、至らなさや愚かさをしみじみ反省し、洗い流すということで除夜の鐘をつくことになっています。鐘をつく回数は108回ですが、これは人間の煩悩の数です。私も以前は除夜の鐘をついた後、初詣をするというのが通例でしたが、最近は年越し蕎麦(そば)を食べて、のんびり過ごすことが多くなりました。 この年越しそばを食べるという風習は江戸時代中期から始まったようですが、これにはさまざまな理由があるようです。〝蕎麦は細く長く伸びるので、寿命や身代、家運が長く伸びる〟、〝金細工師が一年の作業を終える時に、蕎麦粉を丸めて散らかった金粉を寄せ集めていたことからお金が集まる〟〝蕎麦は切れやすいので、旧年の苦労や災厄を切り捨てる〟〝蕎麦は風雨にあたっても、翌日陽が射すと起き上がるということから捲土重来を期す〟等といった意味が込められているようです。

  今年は歴史的な政権交代、新型インフルエンザの流行、エコカー・太陽光発電の普及、厳しい雇用情勢と国内需要の低迷、東アジアの経済発展等の大きな動きがありました。多くの課題をかかえたまま新しい年を迎えることになりますが、明るく前向きに取り組んでいきたいものです。

2009年12月30日

日本の文化~鏡餅と門松~

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  新年を迎えるにあたって鏡餅の飾り付けをされた家庭も多いと思います。そもそも鏡餅は神様にお供えしてからいただく尊い餅であり、神様と人を仲介するという意味を持っています。では、なぜ重ねた餅を鏡餅と呼ぶようになったのでしょうか。それには二つの理由があります。 一つは丸い餅の形が昔の銅鏡に似ているからです。古来より、鏡は神様が宿るところとされていたのです。二つは鏡餅の「鏡」は「鑑みる(かんがみる)」。つまり良い手本や規範に照らして考えるという意味の言葉にあやかり、「かんがみもち」とよぶ音が次第に変化して鏡餅になったと言われています。 更に、鏡餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿には一年をめでたく重ねるという意味もあるそうです。いずれにせよ祈りと一年無事であったことを感謝する気持ちを込めて飾る行為は日本人が永年引き継いできた固有の文化なのです。また、鏡餅の上に載せる橙(だいだい)は木から落ちずに大きく実が育つことにあやかって、代々家が大きく栄えるようにという願いが込められており、鏡餅の下に敷く裏白(うらじろ=シダ)は古い葉と共に新しい葉が次第に伸びてくるので、久しく栄えわたるという縁起をかつぐものです。
  また、注連縄と共に玄関先に飾る門松は古来より松、椿、榊などの常緑樹には天から神が降臨して宿るという神道の精神に基づいています。つまり松、竹などを門口に立てることにより、それに神を降臨させて家の入り口を清め、新年を迎えるという意味なのです。 門松は平安時代に中国から伝わり、現在の様式が決まったのは室町時代と言われています。また竹の先端が斜めにカットしてある「そぎ」と呼ばれるものがありますが、この風習は徳川家康が始めたようです。家康は戦上手であったと伝えられていますが、生涯唯一の敗北として知られる「三方ヶ原の戦い」(1572年)では武田信玄の騎馬軍団に完膚なきまでに叩きのめされました。この戦いの後、信玄に対して次は斬るぞという念を込めたのがこのそぎの始まりであると言われています。
  何気なく行なっているお正月の準備にもそれぞれ理由があり興味深く感じています。

2009年12月29日

日本の文化~注連縄の由来~

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  12月29日(火)、昨日で学校の勤務も終了し、年末年始休暇に入りました。今日は家の掃除をした後近くのスーパーに出かけました。昨今はお正月のための特別の準備をしない家庭も増えてきているようですが、私の家では例年一般的なお正月を過ごすことにしています。
  わが国では年末から年始にかけては煤払いを行ない、注連縄(しめなわ)を張り、年越しそばを食べ、鏡餅を飾り、お正月にはお屠蘇でお祝いし、雑煮や御節料理を食べる風習があります。これらの一つ一つにはそれなりの理由がありますが、このことを知らない人も多いようなので、順次紹介していきたいと思います。
  まず、玄関先に注連縄(しめなわ)を張るのは、家の中に悪霊を入れず穢れをぬぐい去り無病息災・家内安全を祈るものです。神社などで見られるように注連縄は神聖な場所に渡し、内(神域)と外(現実社会)を隔てて、不浄に触れさせないために用いられるものです。また、注連縄は有名な夫婦岩に代表されるように海の岩礁の内、奇岩とされるものなどにも張られていますし、大相撲の横綱が土俵入りの際に締めているのも注連縄です。
  参考までに今でも「縄ばりを侵す」という言葉が残っていますが、これは本来一本の縄が境界を示しており、占有・立ち入り禁止のしるしを表すことからきているのです。
  なお、門松や注連縄を飾るのは28日までか30日が良いとされています。日本人は四と九をいう数字を嫌いますが、29日は「二重苦」、9の末日なので「苦待つ」に通じる、また31日は「一日飾り」と言って神をおろそかにするという理由です。まだ飾っておられない人は、是非、明日中に飾ってください。

2009年12月24日

日本におけるクリスマス

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  本日、12月24日はクリスマス・イブです。不況を反映してか、今年は家で静かにクリスマスを祝う人が多いようです。そのためケーキの箱を持って家路を急ぐ姿が目に付きました。
  日本におけるクリスマスは宗教とは全く関係のない華やかなパーティーやディナー、ケーキを囲んでの家族での団欒といったものが定番になっていますが、そのルーツは古代ローマでの非常に宗教色の強い行事でした。このことはChristmas(クリスマス)の語源が、ラテン語の「クリストゥス・ミサ」であり、Christ(キリスト)とmas(礼拝)からきていることからも窺い知れます。
  キリスト教は中東からヨーロッパに伝わりましたが、当時の古代ローマでは冬至の日に 太陽神を崇拝する異教徒が大きな力を持ち「太陽神の誕生祭」や「農耕神への収穫祭」を行なっていました。そのため、初代キリスト教の指導者達は異教徒との対立や摩擦を生むことなくキリスト教を広めるために、12月25日をクリスマスとしたと言われています。
  現在、キリスト教信仰が根づいている地域ではクリスマスは祭日になっており、この前後にはクリスマス休暇をとってほとんどの人はお里帰りします。そして、久しぶりに会った家族や友人達と家で食事をしたり、教会にお祈りに行くのが一般的になっています。まさに、日本における正月休みの帰省と同じです。
  日本人の特質はこれまで他の国の行事や文化・宗教等色々なものを取り入れて日本流に焼き直すという高い能力を有しています。バレンタインデーにチョコレートを贈ったり、クリスマスに生クリームやふんだんに苺を使ったケーキ食べるというのは日本独特の風習なのです。七五三や初詣は神社で、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教で、ということを上手に使い分けている人が多いのも事実です。
  今、日本で行なわれているさまざまな行事のルーツを知っておくことも大切なのではないかと感じています。

2009年12月23日

冬至と一陽来復

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 12月の半ばになって、ようやく日本列島にも寒波が襲来しましたが、長期予報では暖冬の傾向は変わらないようです。既に暦の上では冬至(22日)は過ぎましたが、天文学的には、この日は一年で最も夜の長さが長くなる、言い換えると日照時間が一番短く太陽の力が一番弱まった日ということになります。この日には「ゆず湯」に入り、「冬至かぼちゃ」を食べる風習が日本にはあります。
  冬至は「とうじ」と読みますが、これを「湯治〔とうじ〕」とかけて生まれたのが柚子湯です。「柚子湯」は、厳しい寒さの中でも健康に暮らせるようにと、浴槽に柚子を浮かべてはいるお風呂のことですが、風邪を防ぎ、皮膚を強くするという効果があるとのことです。また、柚自体にも意味があり、「融通〔ゆうずう〕が利きますように」という江戸時代の庶民の願いが込められているのです。
「かぼちゃ」は、厄除けになる、病気にならないと言われていますが、実際にかぼちゃにはカロチンやビタミンAが多く含まれています。このビタミンAは、肌をツヤツヤにし動脈硬化の予防になるだけでなく、皮膚や粘膜、視力、骨や歯にも効果があると言われており、冬にビタミンなどの供給源が不足した時代には貴重なものだったのです。
  一方で冬至は〝一陽来復の日〟として尊ばれてきたという歴史があります。その理由はこの日を境に昼が徐々に長くなる、つまり再び太陽の力が強まる日であるからなのです。
  現在多くの人がおかれている状況はまさに冬の時代かも分かりませんが、必ず春はやってきます。勇気を持ってこの難局を乗り切るという強い思いで新しい年を迎えたいものです。

2009年11月23日

勤労感謝の日にあたって

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  本日11月23日は『勤労感謝の日』ですが、「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝する日」ということで1948年(昭和23年)に制定されました。
  戦前、この日には『新嘗祭(にいなめさい)』が行なわれていました。この新嘗祭はわが国にとって古くからの農作物の恵みに感謝する重要な国家行事でした。「新嘗」とはその年に収穫された新しい穀物のことです。勤労感謝の日を制定するにあたっては、日本は永い間米を中心とした農業にたずさわってきており「新嘗祭」として祝いたいという意見もあったようです。しかし、労働とは本来農業に従事して生産を行なうものだけを言うのではなく、二次産業や三次産業なども含めた幅広い意味を持つということから最終的には「新嘗祭の日」という考え方は却下され、『勤労感謝の日』が定められたのです。
  現在、日本では農業に従事する人は年々減少し、約240万人、わずか3.7パーセントとなっています。しかも65歳以上が54パーセントと半数以上を占め、平均年齢も62歳と高齢化が顕著に進んできています。
  日本の勤労感謝の日はあくまでも農作物の収穫を祝うだけではなく「日々の勤労に感謝する日」とされており、アメリカにおけるThanks Giving Day(感謝の日・11月最後の木曜日)に近いものですが、今、両国共働きたくても働くことができない人が増加してきています。働きたい人に働く場を提供するということを政治の最優先課題として取り上げていかなければならないのではないでしょうか。

2009年11月15日

季節の移ろい

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  10月以降は日曜日に学校説明会や校内外の行事等が開催されたため、ほとんど家にいることがありませんでしたが、本日(15日)は久しぶりにゆっくりすることができました。
  朝からは切り抜いていた新聞記事の整理をしたり、校長通信の材料の収集をしたり、手紙の返事をしたり、部屋を片付けたりして過ごし、午後からは庭の草木と菜園の手入れを行ないました。庭はしばらく見ない間に、シャラやハナミズキの葉がすっかり色づき、四季咲きのバラは最後の蕾を膨らませています。また、椿も開花し始めており、水仙も芽を出し、一ヶ月前には青かったカリンの実も黄色く色づき、季節の移ろいを実感しました。
  菜園では、この間まで植えていたゴーヤ、サツマイモ、シシトウの後にサヤエンドウの種を蒔き玉葱の苗を植えつけました。順調に育てば来年の春には収穫することができるようになります。農園を借りて一年が経過しましたが、あまり経験がなくても土作りを怠らなければ、それなりの成果が得られることが分かってきました。これくらいの量では大きく自家自給率を上げることはできませんが、これからも生ゴミを活用した野菜作りを続けていきたいと思っています。

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2009年11月14日

日本の伝統精神を学ぶ

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  少し前、この校長通信で日本は閉塞状態の中にあるのではないかということを述べましたが、この原因はかつての日本人が持っていた「伝統精神の喪失」にあると思います。今の日本を見ると、人が人として健全に生きていくための「志」「気概」「誇り」「道徳」というものがあまりにも失われてきているように思えてなりません。木に例えると人間としての土台、つまり〝根っこの部分〟が弱体化しているのです。何故このような状況になってきたのでしょうか。それは自分を磨くための教育や躾が家庭や学校、社会からも消えてしまったのが原因ではないかと思います。
  これから日本が世界から認められ繁栄していくためには、日本人一人ひとりが自分自身を磨きしっかりとした人間力を身につけていくことが必要です。それには優れた師に学ぶか、本を読むことしかないと思います。しかし、我々一般の人が優れた師を見つけることは容易ではありません。そうなると、人間力を磨く道は〝いかに日本人ならびに日本人の生き方をつくってきた先賢・先学の「名著」を読むか〟ということになります。
  作家で思想史研究家の岬 龍一郎氏の著書『日本人の名著を読む』の中にはこれだけは知っておきたい日本人の名著23人23冊が紹介されています。私も時間を見つけて一通り目を通しましたが、大変勉強になりました。しかし、詳細な内容についてはほとんど自分のものになっていないため、最近これらを読み返すことにしました。やや難しい内容のものもありますが、以下に紹介しますので、時間を見つけ出して是非紐解いてみてください。
1. 吉田兼好 『徒然草』         2. 宮本武蔵 『五輪書』
3. 中江藤樹 『翁問答』       4. 山鹿素行 『山鹿語類』
5. 伊藤仁斎 『童子問』        6. 貝原益軒 『養生訓』
7. 松尾芭蕉 『奥のほそ道』      8. 新井白石 『折たく柴の記』
9. 山本常朝 『葉隠(はがくれ)』   10. 石田梅岩 『都鄙(とひ)問答』
11. 恩田木工 『日暮(ひぐらし)硯』  12. 杉田玄白 『蘭学事始』
13. 佐藤一斎 『言志四録』        14. 頼 山陽 『日本外史』
15. 二宮尊徳 『二宮翁夜話』      16. 佐久間象山『省けん録』
17. 橘 曙覧(あけみ)『独楽吟』    18. 勝海舟 『氷川清話』
19. 西郷隆盛 『南洲翁遺訓』     20. 吉田松陰 『講孟(もう)余話』
21. 福沢諭吉 『学問のすすめ』    22. 内村鑑三 『代表的日本人』
23. 新渡戸稲造『武士道』

2009年11月12日

天皇陛下ご即位20年にあたって

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  11月12日(木)は天皇陛下ご即位20年にあたり、1990年に昭和天皇の喪が明け即位の礼が行なわれた日なのです。本日はこれを祝って、東京の国立劇場で政府主催の記念式典が開催され、皇居前広場では民間主催の祝賀式典がとり行なわれます。
  本学園では政府、文科省、兵庫県より、式典当日に各公署、学校、会社その他一般においても国旗を掲揚するよう要望されたことを受け、全教員にこの趣旨を徹底すると共に国旗を学園講堂前に掲揚しました。早朝、少しの間講堂前で登校してくる生徒達の様子を観察していましたが、ほとんどの生徒が国旗に気づかずに通り過ぎていきました。そのため、職員朝礼において各クラス担任からホームルームで生徒達に伝えてもらうようお願いしました。
  振り返れば、平成元年は世界史的に見てもエポック・メーキングな年であったと思います。ヨーロッパにおいてはベルリンの壁が崩壊し冷戦の終結と共にソ連の解体が始まりました。そして、一挙にグローバル化の波が押し寄せ、世界経済の枠組みが再構築されるようになったのです。また、中国で天安門事件が起こったのもこの年です。
  日本は1980年代には経済の最盛期を迎えていましたが、バブル経済が崩壊しグローバル化に乗り遅れてしまいました。今の中高生は全員が平成になってから生まれてきており、幼少の頃から閉塞感の中で成長してきました。このため、日本の元気な姿をほとんど見ないまま今日に至っているのではないかと思います。
  天皇陛下は「日本の将来にとっての心配は何ですか」というマスコミの質問に対して、「過去の歴史を忘れしまうことである」とお答えになられたようですが、歴史的事実にはさまざまな教訓があり、それを正しく認識することは未来への備えになるのは間違いありません。
  教職に携わる者が日本の国の歴史をしっかりと把握し、生徒達にこれらを正しく継承していくことが大切であると思っています。

2009年11月03日

文化の日の由来

  これまで、この校長通信では日本の伝統や文化について掲載していますが、最近国民の祝日についての関心は極端に低くなってきており、単に休みが増えたという感覚になってきているように感じます。
  本日(11月3日)の文化の日は1948年(昭和23年)に制定された祝日法(国民の祝日に関する法律)によって、「自由と平和を愛し文化を薦める」祭日として定められました。日本国憲法と関係があることを知らない人が多いと思いますが、実は敗戦の翌年である昭和21年(1946年)11月3日は日本国憲法の公布された日なのです。そして、これから半年後の昭和22年5月3日に憲法が施行され、この日が『憲法記念日』に制定されたのです。つまり、現在の日本国憲法の制定にあたっては、公布(広く告げ知らせる)してから施行(法令の効力を現実に発生させる)まで半年の準備期間をおいたのです。日本国憲法は、国民主権・戦争放棄・基本的人権の尊重を基本理念とする、世界に類を見ない平和憲法です。このすばらしい憲法が平和と文化を重視していることから、公布された11月3日を文化の日とし、施行した5月3日を憲法記念日としました。
  この11月3日は戦前には明治天皇の誕生日を祝う日で『明治節』と呼ばれており、また明治時代には『天長節』と呼ばれていました。この名称は中国春秋時代の思想家である老子の「天長地久」という言葉をとって、唐の玄宗皇帝の誕生日を「天長節」としたことに由来しています。
  また、この日はほとんど雨が降らないということで「晴れの特異日」と言われていますが、本日も気温は低かったものの素晴らしい秋晴れの一日でした。

2009年10月12日

体育の日にあたって

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  本日(10月12日)は体育の日で、運動会等の行事が開催されている学校や地域も多いようです。また、中には連休を利用して家族で行楽に出かける人もあったのではないかと思います。
  最近、わが国の文化や歴史についてあまりにも無関心で無知な人が増えてきているように感じますが、日本には世界に誇れる素晴らしい文化や規範、慣習というものがあります。これらをしっかりと受け継ぎ次世代に伝えていくことが必要であると思います。昔は祝日にはそれぞれの家において国旗を掲揚していましたが、残念なことにこのような光景はほとんど見られなくなってきました。そのため祝日についても制定された由来を知らないまま、単に休みが増えたということになってきているようです。
  体育の日は、1961年(昭和36年)に制定されたスポーツ振興法により、10月の第一土曜日を「スポーツの日」としていたことに遡りますが、この日は祝日ではありませんでした。その後、1964年(昭和39年)にアジアで初めて開催されたオリンピック東京大会の輝かしい成果と感動を記念して開会式が行われた10月10日を「国民がスポーツに親しみ、健康な心身を培う日」として1966年(昭和41年)国民の祝日に定められました。因みに10月10日は秋雨前線が集結した後で、日本の観測史上晴れる確率が最も高い「特異日」ということになっており、この日を開会式にしたのです。
その後2000年(平成12年)からは『ハッピーマンデー法案』の制定により第二月曜日が体育の日とされ、現在に至っています。

*ハッピーマンデー制度
  週休2日制で生活している人が増えたので、休日を月曜日に持ってくることで、3連休にして、余暇を有意義に利用してもらおうという制度です。この制度で月曜日に移動した祝日は、成人の日、海の日、敬老の日、体育の日です。

2009年09月23日

秋分の日と秋彼岸

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  9月23日(水)は、天文学的には太陽が秋分点を通過し、昼と夜の長さがほぼ同じになる「秋分の日」です。また、この日を中日として前後3日間は彼岸ということになっていますが、春の彼岸と区別するために9月は秋彼岸と呼ばれています。昔から「暑さ、寒さも彼岸まで」と言われているため、一般的には季節を現わす言葉になっています。そして、この期間には先祖の霊の供養を行なうことになっているため、お墓参りをされた人も多いのではないかと思います。
  しかし、彼岸というのはもともと古代インドの梵(サンスクリット)語からきた言葉で、本来は「到彼岸」波羅蜜(パーラミータ)が語源です。つまり、私達が住む迷いや煩悩に満ちた世界(此岸・しがん)から離れて苦しみのない常楽(ねはんじょうらく)な悟りの世界(彼岸・ひがん)に到るという意味なのです。仏教の世界では極楽浄土は西方にあると考えられており、〝生死を繰り返す迷いの世界(生死輪廻・しょうじりんね)〟である此岸(しがん)から、太陽の沈む遙か西方の彼方にある迷いや苦しみのない極楽浄土に思いをはせ礼拝する、いうことなのです。
  そのため太陽が真東から真西に沈む春分と秋分の前後に、「悟りの世界」へ渡るための実践行(修業)を行なうことになったようです。このように彼岸に行くことを願って、行いを慎むことがお彼岸法要の本来の意味であり、このために次の六つの修行(六波羅蜜)が定められています。
  一は布施、施しをする
    (財を施す、真理を教える、恐怖心を取り除き安心を与える)
  二は持戒、戒律を守り反省する
  三は忍辱(にんにく)不平不満を言わず苦しみに耐える
  四は精進、何事も怠らずに励む
  五は禅定、心静かに乱さない
  六は智慧(ちえ)真実の教えに目覚める
  このような徳目は本来なら毎日心がけるべきなのですが、日頃は忙しくてなかなか実行できないのが常です。そのため、せめて春と秋、年に2回くらいは実践しようということですが、彼岸は他の仏教国にはない日本だけのものなのです。

2009年09月21日

敬老の日のルーツは兵庫県

  日本の祝日には元日や建国記念の日、みどりの日、こどもの日、天皇誕生日等のように〝何月何日〟と指定されているものと〝何月の第何月曜日〟というようになっているものがあり、敬老の日は9月の第3月曜日になっています。
  この敬老の日は〝多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し長寿を祝う日〟とされていますが、このルーツが兵庫県にあるということはあまり知られていないようなので、紹介します。
1947年(昭和22年)、兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)の門脇政夫村長は〝老人を大切にし、年寄りの智恵を借りて村づくりをしよう〟ということで、農閑期にあたる9月15日を「としよりの日」と定めました。これが1950年からは兵庫県全体に広がりました。しかし、年寄りというイメージが悪いということで、1964年には「老人の日」となり、1966年(昭和41年)に国民の祝日に制定されました。
更に2001年(平成13年)の祝日法改正(ハッピー・マンデー制度)により、2003年(平成15年)からは9月の第3月曜日が「敬老の日」ということになりました。同時に『老人福祉法』も改正され、従来の9月15日を「老人の日」、9月15日~21日を「老人週間」と定めました。
  このように「老人の日」や「敬老の日」は日本以外の諸外国にはないものです。日本は高齢化が急速に進んできていますが、国民が高齢者を敬愛するという気持ちを持つ一方で、高齢者も後の世代に負の遺産を引き継がないという強い思いを持って生活していかなければならないと思っています。

2009年08月16日

暑中見舞いと残暑見舞い

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  今年は梅雨明けが遅れたため、暑中見舞いを書くタイミングを失ってしまい、お盆になってお見舞い状をお送りしました。毎年、お正月にいただく年賀状には形式的なものが多いようですが、暑中見舞いには近況が認められているものが多いように感じています。
  ところで、この暑中見舞いというのは、本来『盆礼』といってお盆に親や親他戚、仲人、恩師等お世話になった方を訪問し、心のこもった贈り物をするという風習であったと言われています。現在の書面による挨拶はこの風習が簡略化されたものです。暑中は「小暑(7月7日)~大暑まで」と「大暑(7月23日)~立秋まで」を合わせた期間を指しますが、通常暑中見舞いを書くのは一年で最も暑さが厳しいとされる「大暑~立秋の前日」、いわゆる夏の土用の時期です。そして、立秋以降のお見舞い状には〝暑中〟ではなく〝残暑〟という言葉を使うのが一般的です。

  さすがにここ数日、朝晩はしのぎ易くなってきました。夏休みも残り少なくなり、間もなく学校も始まります。また、来週からは補習も再開されることになっています。今一度、当初立てた計画の進捗状況を確認して欲しいものです。

2009年08月15日

終戦記念日にあたって

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  本日は64回目となる終戦記念日です。政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれ、戦没者の冥福を祈ると共に平和への誓いを新たにしましたが、戦没者の父母の参列者はゼロ、妻はわずか1.3%にとどまり、戦没者の子どもが3分の2、戦後生まれの参列予定者も6.8%を占めたようです。これから戦争を全く体験したことのない人が日本人の大半を占めるようになり、戦争の悲惨さが次第に風化されるのは間違いありません。人類は過去何度となく戦争をしてきましたが、いかなる戦争も人々を幸せにすることはありませんでした。
  太平洋戦争では軍人230万人、一般人80万人、あわせて310万人が亡くなりましたが、日本だけにとどまらずアジアの国々を中心に約1680万人の死者が発生しました。この中には戦争下の劣悪な生活環境の下での餓死者や病死者も多数含まれています。また、東京や大阪といった大都市を中心に無差別爆撃が行なわれ、広島や長崎に大量殺戮兵器である原子爆弾が投下されました。年月が過ぎ被災した人の平均年齢は70歳をはるかに超え、この出来事が風化されようとしていますが、日本は世界で唯一の原子爆弾被爆国です。
  今、世界ではいたるところで紛争が発生しており、核を保有する国も増えてきています。仮に核戦争になれば人類が滅亡するばかりでなく、地球そのものが消滅してしまう恐れもあります。終戦記念日にあたって、世界の平和と核廃絶を強く訴えていきたいものです。

2009年08月13日

お盆の供養

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  お盆の行事は8月15日を中心に13日から16日までに行なわれるのが一般的で、かつてはお正月と共にお盆が重要な休みということになっていました。しかし、最近はお盆休みという言葉はほとんど聞かれなくなり、夏季休暇に変わったということもあって、この時期にお盆の行事をせずに帰省したり、旅行に出かける人も多いのではないかと思います。
  お盆は正式には仏教における〝盂蘭盆会〟ですが、インドの古語であるサンスクリット語のUllambana(ウランバナ)がなまって、漢字に音写した〝盂蘭盆〟を略したものです。このウランバナというのはもともと逆さづりという意味で、地獄の苦しみを受けている人を功徳によって救うという行事ですが、先祖を崇拝し死後の悪い世界に堕ちないようにするという日本固有の心とが融合してお盆の行事が生まれてきたようです。

  まず仏壇を掃除し、季節の果物、野菜、餅菓子等のご馳走を供えます。更に先祖が乗ってくるということでナス、キュウリで馬と牛を作り供えると共に盆提灯や盆灯篭を飾ります。この準備を終え、13日の夕方には家族揃ってお墓参りをして火を焚いて祖先の霊を迎えることになりますが、現在はほとんどの家が墓地と離れているため、門前で焚いたり提灯で代用されるようになってきました。そして、16日の夕方には送り火をたいてお送りすることになっています。
  我々がこの世に生を受けることが出来たのも先祖の方々がおられたからです。このお盆の期間には、家族全員で是非ご先祖を尊ぶという気持ちを持っていただきたいものです。

2009年07月31日

土用の丑の日(二の丑)にあたって

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  本日7月31日(金)は土用の丑(二の丑)の日です。この日には昔から鰻(うなぎ)を食する習慣があるため、スーパーやデパートの魚の売り場には鰻の蒲焼が数多く並べられていたのではないかと思います。これを見て〝確か今年の土用の丑の日は終わったはずなのに〟と思われた方もあったのではないでしょうか。実は今年は土用の丑の日が2回あるのです。
  土用というと夏だけのものと思いがちですが、暦の上ではすべての季節に土用があるのです。元々は木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)という五行説がベースになっています。これらの五つを四つの季節に割り振るには無理が生じます。そのため、まず春は木、夏は火、秋は金、冬は水というように割り振ることにし、次に残った土はすべての季節に均等に存在するものとして、それぞれの季節に入る前の18~19日間をあてることにしたのです。そのため土用は立春、立夏、立秋、立冬の前に四回あるということになり、更にこの間の日々にはそれぞれ子・丑・寅・・・という十二支があてはまることになります。
  今年の場合、夏の土用は7月19日から立秋の前日である8月6日ということになるため、丑の日が7月19日(初丑)と31日(二の丑)の2回あるということになるのです。因みに来年は7月26日の1日のみということになります。
  現在、日本は世界一の鰻消費国で、年間12万t 6億本が食されており、国民一人あたりでは5本ということになります。鰻についてはその驚くべき生態や産地偽装等興味深い内容が多くありますので、別途紹介したいと思っています。

2009年07月07日

七夕とクールアースデー

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  7月7日(火)は五節句の一つである七夕(しちせき)ですが、日本では一般的に「たなばた」と呼ばれています。この五節句は1月を除いて3月3日、5月5日、7月7日、9月9日と奇数の数字が重なる日になっています。
  現在の七夕は色々な伝説や行事が複合されて受け継がれてきたと言われていますが、古代の日本においては、先祖の霊を祭るために『棚機つ女(たなばたつめ)』といわれる女性が機(はた)で織った布を神におさめ、病気や災厄が起こらないように願っており、〝たなばた〟という呼び名はここから来ているようです。最近、全国的には短冊に願い事を書き笹竹に飾ることが一般的になっていますが、これも七夕から盆の間は農閑期にあたり、休養を取ると共に天災を祓う目的でそれぞれの家の軒先に紙を合わせた短冊を飾った笹を出したのが始まりであると言われています。
  また、本日は2008年の洞爺湖でのG8サミット開催に因(ちな)んで制定された『クールアースデー』にあたっています。この趣旨は〝地球温暖化の防止や自然との共生に向け わが国が率先して国民みんなで地球環境を考えて行動し、それを世界に対して発信することが必要である。このためG8サミットが7月7日の七夕の日に開催されることを契機に 天の川を見ながら地球環境の大切さを国民全体で再認識し 年に一度低炭素社会への歩みを実感すると共に家庭や職場における低炭素社会への取り組みを推進する日としてクールアースデーを設ける。〟というものです。
  そして、日本各地の施設や事業所、家庭等で20時から22時までの間、あかりを一斉に消す『七夕 ライトダウン』への参加を呼びかけています。皆さんもあかりを消して七夕の夜を過ごしてみてください。

2009年06月21日

日本人の智恵 ~世界に誇れる健康食品〝梅干〟

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  6月21日(日)、この時期には自家製の梅酒や梅干を漬けておられるご家庭もあると思いますが、わが家でも恒例になっている〝梅漬け〟を行ないました。
  本格的に梅漬けを始めて既に10年以上になりますが、月ヶ瀬(奈良県)での梅ノ木のオーナー制度を利用して自ら梅の実を採取し、添加物を使用しない10%減塩の梅干にしています。このきっかけは海外での生活において、梅干が胃腸を整えるために大いに役立ったという経験があったからです。それ以降、海外をはじめ小旅行の際には必ず梅干を携帯するようにしています。
  梅は約1500年前、遣隋使であった小野妹子によって日本にもたらされたと言われています。もともと中国では梅干ではなく梅の実を燻製させて作った「鳥梅(うばい)」というものが薬として珍重されていました。そのため、わが国においても当初は薬用として使用されていたという記録が残っています。その後、平安時代や鎌倉時代には高級食品として貴族の間で食されており、戦国時代には戦場に出かける際に腰に梅干を携帯していたようです。また、江戸時代に入ると日本人の手によって梅の品種改良が進み庶民の間にも梅の食用が広がりました。そして、梅干が医療や健康面で脚光を浴びるようになったのは、明治時代になってコレラや赤痢の予防、治療に幅広く用いられ、大きな効用のあることが証明されたからです。
  梅干は酸っぱいために酸性食品であると思われがちですが、実は強いアルカリ性食品です。また最近、梅干にはさまざまな効用があることが判ってきましたが、梅干は日本人の智恵が生かされた世界に誇れる健康食品なのです。
  スーパー等には数々の商品が販売されていますが、一度自家製の無添加梅干づくりに挑戦してみてください。

2009年05月06日

大型連休を終えて

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  5月6日(水)、本日で3日から始まった4連休も終了しました。テレビのニュースを見ていると、この休みを利用して帰省や旅行等をされた方も多かったようですが、私は万一の新型インフルエンザの発生に備えて遠出をせずほとんど自宅の周辺で過ごしました。
  現在、日本の食料自給率は40パーセントしかありませんが、世界の人口がますます増加していく中で将来食料が不足してくるのは間違いありません。「このままではまずい、農業政策を改革しなければいけない」といくら主張していても、現状が好転できるものではありません。国民一人ひとりが身近なできることから行動に移すということが大切です。
  そのため最近はわが家でも食料自給率改善の取り組みの一環として、食生活の改善と食料の自家自給率・地産地消率を高めるということを始めていますが、この休みにはこのためのさまざまな活動を行ないました。まず農園で昨秋に植えつけておいたさやえんどうの採取を行ないました。昨秋に植えつけた時にはどれだけの収穫があるのか心配していましたが、予想外の量を収穫することができました。また家の周囲に自生している〝蕗〟や〝三つ葉〟を使っての「佃煮」や「お浸し」、夏みかんのマーマレード、山菜である蕨(わらび)の煮物等も作ってみました。よく見ると身近にも食材はあるようです。これらの取り組みは全体から見るとごくわずかな試みにしかなりませんが、一人ひとりが自らの食に関心を持ち、工夫をすれば食料自給率の改善に繋がるのではないかと感じています。

2009年05月05日

こどもの日と端午の節句

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  『こどもの日(5月5日)』は1948年に〝こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日〟ということで定められましたが、もともとは中国の暦法で定められていた五節句の一つであり、「端午の節句」・「菖蒲〔しょうぶ〕の節句」とも言われます。  
  端午の節句は、もともと奈良時代から続く古い行事でした。端午というのは〝月の端(はじめ)の午(うま)の日〟という意味で5月に限ったものではありませんでした。やがて午(ご)と五(ご)の音が同じなので毎月5日を指すようになり、ついには5月5日になったようです。その後、鎌倉時代頃から「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣の形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになり、江戸時代には鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾るようになりました。また〝登竜という激流(登竜門)を鯉が登ると竜になって天をかける〟という中国の故事を受け立身出世を願って庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てるようになったのです。
  端午の節句には、今でも地方によって無病息災を祈って香気を持つ菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に吊るしたり、田の神を迎えるための禊の名残として菖蒲湯に入るという風習があります。更にこの日に柏餅を食べる習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていったようです。
  なお五節句というのは暦の中で奇数の重なる日を取り出したもので、人日(じんじつ・1月7日)、上巳(じょうし・3月3日)、端午(たんご・5月5日)、七夕(たなばた・7月7日)、重陽(ちょうよう・9月9日)を指します。1月1日だけは別格(1月は7日)ですが、陽である奇数が重なると陰になるということで、この日に邪気を祓うという目的で定められたのです。

2009年05月04日

みどりの日の由来

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  5月4日は「みどりの日」ですが、このように決定されるまでには紆余曲折がありました。1948年の祝日法施行以来、昭和天皇の誕生日である4月29日は、国民の祝日である「天皇誕生日」とされていました。その後1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇の崩御に伴い今上天皇が即位され、天皇誕生日は今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなりましたが、ゴールデンウイークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響が懸念されたことから、4月29日を「みどりの日」と改めた上で祝日として存続させることとなりました。「みどりの日」の名前の由来は、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛されたことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨です。その後4月29日を「昭和の日」として制定しようという動きが生じ、2005年に正式決定になりましたが、同時にみどりの日を5月4日に移行させることになりました。参考までに、この日には普段は青色で印刷される毎日新聞の題字が緑色になっています。 
  一方、5月4日はそれまで〝日本は働きすぎであり、もっと休みを増やすべきである〟という海外からの要請に応える形で、1985年に祝日法が改正され、祝日にはさまれた平日を『国民の休日』としたことによるものです。このためこの5月は「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」と祝日が3日続くことになります。また、祝日が日曜日と重なる場合には、その週の月曜日を休みにするという「振替休日」の制度も設けられているため、大型連休になる可能性が非常に高くなるのです。
  なお、今年は「敬老の日」が9月21日(月)、「秋分の日」が23日(水)になるため、新たに22日が国民の休日ということになります。
  いずれにしても、それぞれの祝日の意義をしっかりと確認すると共に、これらのまとまった時間を有効に使い、普段できないことをやるという姿勢が大切ではないかと思っています。

2009年05月03日

憲法記念日にあたって

  5月3日(日)は憲法記念日です。近年憲法改正の論議が活発になってきていますが、現在の日本国憲法は、第二次世界大戦で敗戦しその後アメリカによる占領が続いていた1946年(昭和21年)11月3日に大日本帝国憲法の改正手続を経て公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行されたものです。
それから現在まで52年にわたってこの憲法は全く改正を加えられることなく継続しているため、日本国憲法の原本の漢字表記は、当用漢字以前の旧漢字体になっており、その前文には『われらは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ』と記載されています。
  そして、新しい憲法が施行された日こそ「祝日」にふさわしいという思いが全国にあったようで1948年に国民の祝日に制定されました。
  現行の日本国憲法は十一章、百三条から構成されています。この詳細を知っている人は少ないと思いますが、特色として3つの柱を持っています。一つ目は〝天皇は象徴であり国を治める主権は国民にあるという「国民主権」〟二つ目は〝人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保障する「基本的人権の尊重」〟三つ目は〝世界の平和を永久に守るため、外国との争いが起きても戦争をしないで平和的に解決するという「平和主義」〟です。
  現在最大の討論の的になっているのは「平和主義」に基づく憲法9条の問題ですが、憲法の改正手続きについては第96条において次のように定められています。
〝この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。〟
  憲法は日本の国にとってはすべての法律の基礎となる最も重要なものです。内容についてしっかりとした理解をしておきたいものです。

2009年04月29日

昭和の日の由来

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  4月末から5月初めにかけては祝日が続くためゴールデン・ウィークとか大型連休と呼ばれ、この休日をどのように過ごすかということだけが話題にのぼり、祝日の意義については無関心な人が増えてきているように感じます。かつては祝日には各家庭で日の丸(国旗)を掲げている家庭が多かったようですが、最近はほとんど見かけなくなりました。外国に行くといたるところにその国の国旗が掲げられており、世界の中で日本だけが例外であるのは間違いありません。世界の国々の子ども達が集まるイベントに参加した日本の子ども達だけが国旗を大切にせず国歌も歌わないということで、他の国の人から奇異に思われているのです。国民が自分の国のことを誇りに思えないようでは、その国の将来は極めて危ういのではないかと思います。
  本日4月29日(水)は『昭和の日』ということで祝日になっていますが、もともと昭和の時代には天皇誕生日という祝日でした。しかし、昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御されたことを受け、年号が平成に改められると共に、平成元年からは天皇誕生日は『みどりの日』ということになりました。その後、〝激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす〟という趣旨で『昭和の日』を制定しようという動きが起こり、平成19年に4月29日が昭和の日に制定されました。これに伴って『みどりの日』は5月4日に移されることになったのです。
  昭和は、1926年の12月25日に始まり1989年の1月7日まで続く、日本史上最も長い元号の年間となりました。昭和の初期は世界恐慌など動乱の時期にあり、その後の太平洋戦争やその敗戦からの復興という苦難の時代であり、当時の状況からは現在の日本の繁栄は到底予想することはできなかったと思います。しかし、〝欧米に追いつき追い越せ〟という国民の懸命な努力で高度成長を実現し、二度にわたるオイルショックを乗り切り、世界でも有数の経済大国へと成長したのです。
  今、昭和元年(1926年)生まれの人は83歳、戦後(1945年)生まれの人も64歳になりました。一方、これからは年々平成生まれの人が増え、昭和生まれの人が減ってきます。本校の生徒もすべて平成生まれになりました。
  この『昭和の日』を、昭和という時代の繁栄と苦難を偲ぶ記念日として子ども達に語り継ぐ日にしたいものです。

2009年03月22日

日本の文化と伝統~お彼岸と春分の日

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  一昨日(3月20日)は春分の日でしたが、この日は〝自然を称え将来のために努力する日〟と定められ祝日になっています。春分は二十四節気のうちの一つであり、啓蟄(けいちつ・大地が温まり、冬眠していた虫が穴から出てくる)と清明(さまざまな花が咲き乱れお花見シーズンになる)の間に位置しており、春分を含む何日かは、太陽は真東から上がって真西に沈みます。
  また、春分の日を中日(ちゅうにち)として、前後三日間の計七日間を彼岸と呼び、あの世の死者の安らかな成仏を願うということから、この期間には各寺院や家庭で彼岸会の法要が行なわれることになっています。皆さんの中にもお墓参りに行かれた方も多かったのではないかと思います。
  この彼岸というのは仏教用語ですが、正しくは到彼岸(とうひがん)です。仏教では〝生死を繰り返す迷いの世界(生死輪廻・しょうじりんね)〟を此岸(しがん)と呼び、この世を離れて苦しみのない涅槃常楽(ねはんじょうらく)な彼岸に到るという意味です。 彼岸は春分の日だけではなく秋分の日の前後にもありますが、仏教の教えとして中道という考え方があり、昼夜の長さが同じで暑くもなく寒くもないほどほどの気候ということから定められたのではないかと言われています。
  また、もち米とあんこで作られた同じ食べ物でありながら「ぼたもち」と「おはぎ」というように呼び方が違うのは、食べる時期が異なるためです。つまり、それぞれの季節を意識して名前が変えられており、春は「牡丹」、秋は「萩」という花の名前がつけられています。そして牡丹餅にはこしあん、お萩にはつぶあんが使われています。そして、あんの材料である小豆は古来より邪気を祓(はら)うとされているのです。
  お彼岸にあたって、このような日本の伝統や文化をことも子ども達に伝えておきたいものです。

2009年03月21日

日本の良さを知る~固有の歴史・文化・伝統

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  日本はかつて世界の文明史家の間では中華文明圏の一部であるとされたこともありましたが、今では〝日本は一国で一つの文明圏を形成している〟ということが定説になっています。中国から伝来し、大きな影響を与えたと言われる仏教についても日本古来の神道を重んじつつ、神仏習合を進めてきました。従って、我々は日本固有の歴史や文化・伝統をしっかりと理解することによって、日本人としての誇りを持つことが大切です。ところが、現状はあまりにも日本についての理解が乏しいように感じます。世界の国々の子ども達が集まった会合で、「自分達の国の良さは」という質問に対して、他の国の子ども達が次々と国の良さを語る一方で、日本の子ども達は「四季がある」というくらいのことしか言えなかったというような話をよく聞きます。また、残念なことに自国の国旗に対しても敬意を払わないのは日本の子ども達だけだったということも指摘されています。最近では祝日に日の丸を掲揚している家庭もほとんど見かけることができなくなりました。その結果、祝日が制定された経緯も知らない人が増えてきているようです。これでは国際社会の中で、日本という国を正しく伝えていくことはできません。日本人一人ひとりが日本というのはどういう国なのかをしっかりと認識し、その上で自信と誇りを持って行動することが何よりも大切です。
  これまでこの校長通信では、日本の文化や伝統、祝日等について取り上げていますが、これからも機会を見つけて紹介していきたいと思っています。

  ところで、今日は嬉しい知らせが届きました。高校囲碁界のチャンピオンを決める全国大会で、本校の女子が団体準優勝、個人では小原侑子さんが見事優勝しました。詳細は後日紹介します。

2009年03月14日

ホワイトデーの由来

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  3月14日は『ホワイトデー』で、最近ではバレンタインでチョコレートの贈物を受けた男性が女性にお返しするという国民的な行事になってきましたが、このように呼ばれているのは日本とアジアの一部の国だけです。
  バレンタインデーは3世紀にローマ皇帝クラウディウスの出した結婚禁止令に違反した男女を救うためにバレンタイン司教が殉死した日ですが、その一か月後にその男女は改めて二人の永遠の愛を誓い合ったようです。この話がヨーロッパをはじめ世界中の人に語り継がれ、3月14日が〝愛を誓い合う日〟となったようです。そのためヨーロッパでは「フラワーデー」「クッキーデー」「ポピーデー」「マシュマロデー」等と呼ばれています。
  日本では昭和50年(1970年)代になってバレンタインの行事が定着するにつれて、チョコレートの贈物を受けた男性がそれにお返ししようとする風潮が生まれてきました。この動きを受けて1978年に全国飴菓子工業協同組合がキャンディーの促進販売を目的として、この日を「ホワイトデー」に定めたのです。そして1980年からキャンペーンを開始しました。当初は「キャンディーの日」という意見もあったようですが、飴の材料が白砂糖であり白色は純潔のシンボルということもあって「ホワイトデー」と命名されたようです。
  今、このホワイトデーは韓国や台湾にも広がってきています。特に韓国では3月以降も4月「ブラックデー」、5月「ローズデー」、8月「グリーンデー」というように毎月14日が恋愛にかかわる日になってきているようです。
  なお、飴菓子工業協同組合の努力にもかかわらず、この日の贈物はキャンディーよりもスイーツやチョコレートが増えてきているようです。それにしても企業は売上げを伸ばすために色々な工夫を凝らすものですね。

2009年03月03日

上巳の節句の由来

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  3月3日は五節句の一つである『上巳(じょうし/じょうみ)の節句』にあたります。旧暦の3月3日頃は桃の花が咲くため『桃の節句』とも『おひな祭』とも言われています。
  300年頃の古代中国では3月の最初の巳の日に川のほとりに男女が集まって災厄をはらう『上巳の祓い』という行事がありました。また文人が川の上流から盃を流し、自分のところに流れ着くまでに詩を作るという曲水の宴を催していました。これらがやがて3月3日に行なわれるようになり、日本にも伝わりました。古来日本では自分の体を草木やわらで作った人形(ひとかた)で撫でて汚れを移しそれを流していました。今でも穢れを紙の人形に移して川に流す「流し雛」の風習が受け継がれている地方もあります。
  また、ひな祭の起源は平安時代に人形(ひとがた)を貴族の日常生活を真似た遊びに用いた「ひな遊び」であり、〝身に降りかかる災厄を人形に肩代わりしてもらう〟という祭礼的な意味合いが込められていました。そして、もともと穢れを祓う上巳の節句が現在のような女の子のお祭りになったのは室町時代末期であると言われています。その後江戸時代に入って平和が訪れ、幕府が五節句を制定したことにより、女の子の誕生を祝って初節句にひな人形を飾るという風習が生まれました。これが江戸から地方へ、武士階級から庶民へと広まっていったのです。
  最近はひな祭の風習も廃れてきているようですが、以前は各家において代々伝わってきたおひな様を飾り、菱餅、ひなあられ、白酒、引千切、散らし寿司、鯛や蛤などのおせち料理を食べていたのです。
  なお、五節句は、3月3日、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)というように奇数月の月と同じ数の日ということになっています。(但し、1月1日は元旦ということで別格になっており、1月は1月7日(人日)となっています。)中国では奇数は陽ということになっていますが、奇数(陽)が重なると陰になるため、これを避けるための避邪の行事であったということです。

2009年02月13日

なぜバレンタインデーにチョコレートを贈るのか

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  先日〝素朴な疑問を持つことが大切である〟ということの一例として〝なぜ2月は28日しかないのか〟ということを掲載すると、ある人から生徒達にとっては〝なぜバレンタインデーにチョコレートを贈るのか〟という方が興味があるのではという意見をいただきました。明日(14日)はバレンタインデーで、最近では、この日に女性から男性にチョコレートを贈るということが習慣化してきましたが、このことについては知らない人も多いようなので今回取り上げたいと思います。
  バレンタインデーは、269年、ローマ帝国の皇帝であったクラウディウスⅡ世が出した「自由結婚禁止令」に背いて処刑されたキリスト教の司祭 聖バレンティノ(英語名:バレンタイン)の命日にあたるこの日が「恋人達の日」とされたことに由来します。そのためこのバレンタインデーに花やケーキやカードを贈る習慣が生まれましたが、必ずしもチョコレートを贈ることにはなっていません。女性から男性にチョコレートを贈るのは日本特有の習慣なのです。そして、驚くことに日本ではこの日に関連して売れるチョコレートの量は、年間の12~15パーセントと言われており、デパートやスーパー等にはさまざまな種類のチョコレートが陳列されています。また高級品を扱っている店では、年間売り上げの実に30%を超えるところもあるようです。しかし、このような年間行事になるまでには実に半世紀という長い年月がかかっているのです。そして、この間にはチョコレート・メーカーの血のにじむような努力があったということを忘れてはなりません。
  バレンタインデーにチョコレートを贈るという最初のイベントは、1958年(昭和33年)に、メリーチョコレートの営業主任であった原邦生氏(後に社長に就任)によって開催されました。同氏はヨーロッパにいる知人から聖バレンタインの話を聞き、新宿の伊勢丹デパートでキャンペーンセールを行ないましたが、3日間で売れたのは、わずか30円の板チョコ5枚と4円のカード5枚の計170円だったそうです。それでも諦めずに、翌年にはハート型のチョコレートを作り「女性から男性へ」という文句を添えて売り出す等の新たな試みを行ないました。また1960年には森永製菓がバレンタイン企画を新聞広告に掲載しました。このような挑戦を続けることによって昭和50年(1975年)代になって、やっとイベントとして定着したのです。一時、職場の上司や同僚に対して贈る〝義理チョコ〟やバレンタインのお返しとなるホワイトデーのあり方等についても話題になりました。
  最近では色々な物の販売が伸び悩んでいますが、企業は何とか消費者の財布の紐を緩めようと懸命な取り組みを行なっています。毎年継続的な販売を確保するために記念日を設ける等の動きも出てきていますが、このような取り組みについても注目していきたいものです。

2009年02月12日

2月はなぜ28日なのか

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  先日、なぜ2月は28日しかないのかということを調べてみてくださいとお伝えしました。最初は私もどうしてなのか解りませんでしたが、調べてみるとその答えは古代ローマ時代までさかのぼることになります。共和制のローマ末期にユリウス・カエサル(英名 ジュリアス・シーザー)が新年のスタートを2カ月繰り上げて3月とするユリウス暦を採用しました。また、これと同時に7月Quintilisの名称を自分の家門の名前であるJuliusに変更しましたが、これが英語名のJulyの由来です。このユリウス暦は大の月(31日)と小の月(30日)が交互に配置され、最後の月である2月は29日ということになっていました。
  その後、紀元前8年にローマ帝国の初代皇帝であったアウグストゥス(オクタヴィアヌス)がユリウス暦の運用を修正すると共に8月の名称を自分の名前Augustusに変更しました。そして同時に8月の日数を30日から31日に増やし、そのため不足した日を2月から差し引いたのです。そうすると7月、8月、9月と大の月が3ヵ月続くことになるので9月以降12月までの日数を入れ替えたのです。また、歴代のローマ皇帝は月に自分の名前をつけようとしましたが、すべての改名の企ては皇帝の死と共に元の月名に戻り、今残っているのは6月と8月だけになっています。
  そして、Septemberは7番目、Octoberは8番目、Novemberは9番目、Decemberは10番目ということになっているのは、ローマ暦が3月起算になっていた名残なのです。このように、暦1つを取り上げても実に多くの内容が含まれており興味深く感じました。

2009年02月04日

高等学校全校朝礼~立春を迎えて

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  2月4日(水)、高校生対象の全校朝礼で、次の様な話をしました。
〝今日は暦の上では立春ですが、旧暦では新年が始まることになります。昨日は節分ということで皆さんの中には豆まきをした人も多いと思いますが、何故豆まきをするのか知っていますか。昨日の夕刊には「インドネシアからやってきた介護見習いの人の豆まきは楽しかった」という記事が掲載されていました。
  これからグローバル化がますます進展し、外国の人達と共に生活することが増えてきますが、日本の文化や伝統を正しく伝えていくということが非常に大切です。節分というのは2月だけではなく年に4回あります。つまり季節の分け目ということなのです。そして節分の翌日が立春、立夏、立秋、立冬になります。旧暦では昨日の節分は大晦日に当たるため、豆まきは邪気を払って新たな年を迎えるための行事なのです。そして、この行事にも十干十二支の考え方が取り入れられています。十二支は年以外にも方角、時刻等を表わしますが、方角について見ると北は「子」、東は「卯」、南は「午」、西は「酉」になります。そして東西南北の間に二つの干支が配置されます。そうすると北と東の間には「丑」と「寅」の二つが入ります。皆さんは鬼門という言葉を聞かれたと思いますが、読んで字のごとく鬼が入ってくる門であり、方角は北東つまり丑と寅の間(丑寅・うしとら)になります。鬼が牛の角を持ち虎のパンツをはいている意味が解ったと思います。また、桃太郎が鬼退治に出かけるという話がありますが、家来は鬼門の反対側に位置する申(猿)、酉「鶏→雉」、戌(犬)です。
  古来より日本では〝清く正しく美しく心を磨き質素に生きる〟のが美徳とされてきました。そのため一年の中に色々な節目を設け、邪気を払うための行事を取り入れ、常に清々しい気持ちで生活することを心がけてきたのです。これは日本が世界に誇れる素晴らしい伝統であり文化です。皆さんも日本人として、また雲雀丘学園の生徒としての自覚と誇りを持ち、新たな気持ちでスタートしてください。〟

2009年02月03日

節分にあたって

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  本日(2月3日)は節分で、〝豆まき〟をされた家庭も多いのではないかと思います。私も帰宅後毎年恒例の豆まきをし「恵方巻のまるかぶり」を行ないました。昔から自分の年に1を足した数だけ豆を食べると無病息災で過ごせると言われているため一応準備をしましたが、あまりにも数が多くなるため少しだけいただきました。最近では節分の本来の意味が解らないままこういった行事だけが受け継がれてきているようなので紹介します。
  一般的に節分というと年1回と思われていますが、本来節分というのは〝季節の移り変わる時〟という意味であり、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していました。ところが、春が一年の初めと考えられていたことから次第に「節分」といえば春の節分を指すことになったのです。明日は立春ですが、旧暦では新年の始まりということになっています。この考えかたに立つと今日の節分は大晦日に当たります。そして、その年の邪気を祓うということで、さまざまな行事が行なわれていますが、この代表的なものが豆まきなのです。
  豆まきは平安時代から始まったようですが、ここにも十干十二支の考え方がかかわっています。鬼門というのは鬼が出入りする北東の方角ですが、十二支では丑と寅の方角(うしとら)にあたります。そのため鬼は牛の角を持ち虎皮のパンツをはいていると言われています。 また、柊(ひいらぎ)の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に立てるという行事もありますが、これは柊の棘と焼き鰯の悪臭によって鬼を家に近づけないという理由です。
  更に、最近は節分に太い巻き寿司を食べる風習も根付きつつあります。これはその年の干支に基づいてめでたいと定められた方角(今年の恵方は東北東)に向かって、しゃべらずに太巻きをまるごといただくというものです。これには七福神にちなんで七種類の具が入っており、「福を巻き込み」「縁を切らない」ためにあえて包丁を入れないのです。私達が何気なく行なっているものにもそれぞれの由来があり興味深く感じています。

2009年01月07日

人日の節句と七草粥の由来

小豆ご飯を使った七草粥
  本日(1月7日)は『人日』という五節句の一つにあたり七草粥を食べる風習があるため七草の節句とも言われています。以前にも紹介しましたが、節句は奇数が重なる日になっており、唯一の例外はこの人日です。人日とは文字通り〝人の日〟という意味ですが、この由来は古代の中国において、正月の1日を鶏、2日を狗(犬)、3日を猪(豚)、4日を羊、5日を牛、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにし獣畜の占いをたてていました。そして、7日は人の日として犯罪者に対する刑罰も行なわない慣わしであり、翌8日は穀を占っていたようです。
  七草粥のルーツは平安時代の初期に中国から伝えられたと言われていますが、当時は「七種粥」と呼ばれており、七草ではなく米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で作られていました。その後、鎌倉時代になって、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろという七草を加えた粥を食べるようになりました。更に江戸時代になって1月7日が「人日」という一つの祝日に定められたこともあって、七草粥を食べる習慣が武家や庶民にも定着したようです。そして、この日は新年を無事に迎えられたということに対する神への感謝と邪気を払い、家族みんなが元気で一年の無病息災を願うことになっています。
  また、この時期に七草粥を食べるというのは、医学的にも正月のご馳走に疲れた胃腸を休めると共に野菜の乏しい冬にビタミンを補給するという効用があるということです。
  こういうところにも先人の知恵が生かされていることを知り、興味深く感じながら七草粥をいただきました。
  さて、いよいよ明日からは授業が始まります。生徒の皆さん、どうか元気な姿で登校してください。

2009年01月04日

干支の由来

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平成21年度用年賀切手より

  日本では,「あなたの干支(えと)は何ですか」と言われると〝鼠、牛、虎、兎・・・・・犬、猪〟と動物を指すものが一般的になっており、今年いただいた年賀状にも牛の絵柄が多く見られました。しかし、本来の意味は“干支”という字を見ても解るように干(かん)と支(し)の組み合わせのことなのです。昨年の校長通信でも干支については紹介したように思いますが、干支はもともと中国から伝わったものなのです。つまり古代中国においては十干(10進法)と十二支(12進法)によって、年・月・日・時・方位・角度・物事の順序等多くのことに使っていました。
  ところが、日本では十干を省いた十二支が一般的に干支(えと)と呼ばれるようになり、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)の12に振り分けられたのです。
それでも現代の暦には五行陰陽思想による十干が残っています。つまり自然界は木、火、土、金(ごん)、水の五つの要素で構成されていると考えられており、更にこれらを“陽”を表す兄(え)と“陰”を表す弟(と)に分けると、木の兄(きのえ=甲)・木の弟(きのと=乙)、火の兄(ひのえ=丙)・火の弟(ひのと=丁)、土の兄(つちのえ=戊)・土の弟(つちのと=己)、金の兄(かのえ=庚)・金の弟(かのと=辛)、水の兄(みずのえ=壬)・水の弟(みずのと=癸)の十になります。このようにして、十干と十二支の組み合わせによって毎年の干支が決まることになり、甲子(きのえね)から始まり癸亥(みずのとい)までの60通りの組み合わせが生まれます。
  そして60年経つと暦が元(生まれた年)の干支に戻ることになりますが、これが還暦です。還暦になると赤いちゃんちゃんこを着てお祝いをしますが、この意味は本圭還りと言って〝再び赤ん坊に戻る〟ということなのです。
  なお、今年(平成21年)は26番目の己丑(つちのとうし)ということになっていますが、干支にはこの他にも興味深い内容が多くありますので、是非一度干支について調べてみてください。

2009年01月02日

年末年始の行事~初詣

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  年末年始にはさまざまな行事がありますが、先日の日本経済新聞には続けている年末年始の行事のランキングが掲載されていました。これによるとトップは〝年越しそばを食べる〟ですが、2位以下は、雑煮を食べる、年賀状を出す、大掃除をする、御節料理を食べる、クリスマスケーキを食べる、初詣に行く、お年玉をあげる、鏡餅を飾る、お歳暮を作る、御節料理を食べる,祝い箸を使う、注連飾りをする・・・と続いています。これらは私の家でも毎年行なっているものばかりであり、平均的な年末年始の生活を送っていると言えそうです。
  今年も元日の朝、屠蘇と雑煮で新しい年を祝った後、家族で近くの神社へ初詣に行きましたが、例年以上に多くの家族連れの方の姿が目につきました。参拝の後、破魔矢とお札を購入し全員でお御籤も引きましたが、どのお御籤についても解説の内容を見ると〝地道に努力し謙虚に反省することが大切である〟ということが書かれているようです。日本人は概して信仰心が厚いとは言えませんが、不思議と初詣には出かける人は多いようです。しかし、いくらお祈りしても懸命に努力しなければ良い成果が得られないのは当然です。神様の前では単にお祈りするだけではなく自分の決意を披露することが大切であると感じました。
  帰宅後、届けられた年賀状に目を通しました。今日本では丁度団塊の世代が大量に退職する時期にあたっており、友人の中には新しい生活をスタートさせている人が数多く見受けられます。心強く感じたのは、これまで自分がやれなかったことをやり始めたというだけではなく、永年にわたって培ってきた経験やノウハウ、技術力を活かして、世の中に役立つことをやっている人が多くおられるということです。私も教育の仕事に就いて間もなく7年になるため、社会人として元気に頑張っている生徒からの年賀状も何通かふくまれており、嬉しく思いました。
  雲雀丘学園の勤務もこの3月末でまる3年になりますが、1年後には私が知っている生徒達も社会人になります。今、教育界を取り巻く環境は激変化し課題も山積していますが、原点に戻って将来の日本を背負って立つ人材を育てるという思いで取り組んでいきたいと思っています。

2008年12月31日

大晦日の由来と伝統の行事

年越しそば除夜の鐘
  いよいよ大晦日を迎え、間もなく激動の年が終わろうとしていますが、皆さんはそれぞれの思いで一年を振り返っておられることと思います。
  大晦日の「みそか」は本来「三十日」と書き、月の三十番目の日ということですが、転じて月の最終日を指すことになりました。晦(つごもり)とは陰暦では十五日に満月となり、月末になると月が見えなくなってしまうため、月隠(つきごもり)が訛ったものです。そして一年の最後のことを「みそか」に「おお」つけて「おおみそか」「おおつごもり」というようになったようです。
  大晦日の夜を一年の日ごよみを除くという意味で除夜と言い、一年を締めくくり、暮れゆく年を惜しむということから色々な行事が行なわれてきています。その代表が除夜の鐘をつくというものですが、この風習は中国の宋の時代に起こり日本には鎌倉時代に伝来したと言われています。新たな思いで新年を迎えるために、今年一年の自分の行いを改めて振り返り、至らなさや愚かさをしみじみ反省しながら除夜の鐘と共に洗い流すという趣旨です。
  また、年越しそばを食べるという風習は江戸時代中期から始まりましたが、そばを食べるのはさまざまな理由があるようです。〝伸ばして細く長く伸びるので、寿命や身代、家運が長く伸びる〟、〝金細工師が一年の作業を終える時に、そば粉を丸めて散らかった金粉を寄せ集めていたことからお金が集まる〟〝そばは切れやすいので、旧年の苦労や災厄を切り捨てる〟〝そばは風雨にあたっても、翌日陽が射すと起き上がるということから捲土重来を期す〟等といった意味が込められているようです。
  今年は多くの皆さんにご支援をいただき心より感謝しています。本当に有難うございました。年の後半にかけて実に厳しい一年でしたが、新たな気持で新年を迎えたいものです。

  なお以前勤務していた高松は讃岐うどんの産地だけあって、大晦日にはうどんを食べて一年を振り返ることになっています。それぞれの地で異なる風習が受け継がれており興味深く感じています。

2008年12月30日

御節料理の由来

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  本来御節というのは中国から伝えられた暦の上の節目つまり季節の変わり目などにあたる節日(せつにち)・節句のことを指します。これが移り変わる季節の節目を感じとり日本流にアレンジされ、それぞれの節句には御節料理を作ってお祝いするという風習になりました。やがて一般に祝う節句は次第に正月のみとなったため御節というのは正月に作られる料理のことを指すようになったのです。近年、御節料理を作る家庭が少なくなりましたが、この不況下にあってもデパートやコンビニの御節料理の売上げは好調なようです。
  御節料理の基本は、お屠蘇、祝肴三種、雑煮、煮しめですが、正月には火の神である荒神を怒らせないため、台所で火を使うことを避けるという意味から、正月料理には火を通したり、干したり、酢に漬けたり、味を濃くする等日持ちする物が多く、それぞれには縁起や願いが込められていますので以下紹介します。
    田作り(たづくり)  田畑の高級肥料としての鰯を使用し豊作を願う
    数の子(かずのこ) 卵の数が多いということで子孫繁栄を願う
    黒豆 (くろまめ)  黒色には魔よけの力があり、まめ(勤勉)に働く
    昆布巻(こぶまき) よろこぶという語呂合わせ
    鯛  (たい)     めでたいという語呂合わせ
    海老 (えび)    腰の曲がった老人をれんそうさせることから長寿
    蓮根 (れんこん)  穴があいているから見通しが良くなることを願う
    慈姑 (くわい)   大きな芽が出るからめでたい
    里芋 (さといも)  小芋がたくさんつくことから子孫繁栄を願う
    鰤  (ぶり)      出世魚であり出世を願う  等です。
  また、これらの料理はめでたさを重ねるという意味で五段重ねの重箱に詰めますが、四段目はし(死)を避けるということから「与の重」と呼ばれています。
  お正月にはそれぞれのご家庭で御節料理を囲みながら是非家族団欒をはかってください。

2008年12月29日

年末を迎えて

注連縄
  今年も残り3日になりましたが、年々お正月が新たな年のスタートになる〝節目〟という感覚は薄れてきているように感じます。以前、日本の家庭では新年を迎えるために御節料理をつくる、餅つきをする、煤(すす)払いをする、障子や襖はりをする、門松や注連縄を飾る等さまざまな準備を家族全員で行ないました。そして、すべての作業を終えて静かに除夜の鐘を聴き、新鮮な気持ちで新年を迎えるのが一般的でした。しかし、近年、手軽さや便利さを求めるあまり、面倒なことはできるだけしないとか、手抜きするといった風潮が増えてきています。御節(おせち)料理ひとつを取り上げてもデパートやコンビニで販売するところが増え、核家族化が進んできたこともあって作る家庭が極端に少なくなってきました。日本の御節料理はそれぞれの家で、親から子どもへと代々にわたって伝授されてきましたが、このままではどんどん廃れてしまいそうです。また、門松や注連縄を飾る家も少なくなってきました。更に正月は長期の休暇と割り切って海外で過ごすため、家の中の掃除や整理整頓もしないという人も増えてきているようです。
  各人がそれぞれの年末を過ごしておられると思いますが、気持ちを切り替えて新年を迎えていただきたいものです。
  なお、しかし、門松や注連縄を飾るのは12月29日と31日を避けるのが一般的です。これは29が「二重苦」、9の末日のため「苦待つ」に通じることになる、また31日も「一夜(一日)飾り」と言われ神をおろそかにするという理由からです。まだ、飾り付けが済んでいないご家庭は是非明日(30日)に行なってください。

2008年12月25日

年賀状の由来

  今日(12月25日)は元旦に年賀状が配達されるための締め切り日ということで、急いで年賀状を出された人も多かったのではないかと思います。
  年賀状の由来は一口で言うと〝年始の挨拶回り〟が姿を変えたものなのです。わが国では古くは平安時代から明治時代にかけて正月の1日から15日までの間、主君や父母、親戚、お世話になった人に対して年始の挨拶に回ることになっていました。ところが交際の範囲が広がるにつれて、遠くで挨拶に行けない人に年始の挨拶を書いた手紙を送るということが始まりました。最初は新年になった1月2日の書初めの日に書状を認めていたようです。その後、明治4年(1871年)に郵便制度が発足、明治6年(1873年)に全国一律料金の葉書が発売されることになり、年始回りに代わって年賀状を送る習慣が始まりました。更に明治32年(1899年)に年賀状は特別扱いとなり、前年に出したものが元日に届けられるようになりました。
  昭和15年(1940年)から昭和22年(1947年)は年賀郵便の特別取り扱いは停止されましたが、昭和24年(1949年)にお年玉つき年賀はがきが発売されると爆発的な勢いで日本全国に広がり、ついに平成16年には発売枚数が44.4億超というピークを迎えました。ここ数年はインターネットや携帯端末の普及に伴い、年賀状の発行枚数も減少傾向にありますが、お正月に届く年賀状はメールとは異なる紙の趣もありますし、またお互いの消息も分かるため日本人にとってはなお根強い人気があるようです。
  私も以前は年末に徹夜で年賀状を書いていましたが、今年は既にパソコンを使って年賀状を書き上げました。中には年に一度の年賀状の交換だけの方もおられますが、お正月の楽しみの一つになっています。

2008年11月23日

勤労感謝の日~志を持って傍を楽にする

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  本日(11月23日)は『勤労感謝の日』です。
この日は戦後国民の祝日が定められた際(1948年)に「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」という趣旨で定められましたが、この記念日が制定される以前は『新嘗祭(にいなめさい)が行われていました。「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことを指し、新嘗祭は天皇が国民を代表して農作物の恵みに感謝する式典として古くから国家の重要な儀式でした。勤労感謝の日はアメリカのLabor Day (9月の第1月曜)に相当するものと言われていますが、アメリカにはこの他に「Thanks Giving Day(感謝の日・11月最後の木曜日)」があります。日付や新嘗祭との関係、現在の産業構造を考えると、日本の勤労感謝の日はあくまでも収穫を祝うだけではなく、「日々の勤労に感謝する日」と考えるべきであり、むしろThanks Giving Dayに近いといえるのではないかと思います。しかし、今の世の中を見ると世界同時不況により働きたくても働くことができないという人が増加する等、憂慮すべき状況が現出しつつあります。
  祝日が日曜の場合にはその翌日が休日になるため連休を過ごされている人も多いと思いますが、本来、働くには〝傍(はた)を楽にする〟仕事には〝志事(しごと)〟という意味がこめられています。この勤労感謝の日にあたって、単に生活のために労働するということではなく、志を持って世の中のために役立つという視点で勤労の目的を再認識していきたいものです。

2008年10月19日

Octoberと神無月

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  10月は英語ではOctoberと書きますが、Octoと言うのは8の意味です。八本の足を持つ蛸のことをOctopusと呼ぶことからも理解いただけると思います。それでは何故10月なのに8番目なのでしょうか。これは紀元前46年まで使用されていたローマ暦が3月起算であったため、3月から初めて8番目の月という意味なのです。因みに11月のNovemberは9を意味するNovem、12月のDecemberは10を意味するDecemが語源になっています。
  また、日本では旧暦10月は神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼ばれていますが、これは出雲大社に全国の神様が集まって一年のことを話し合うため、出雲以外では神様がいなくなるという意味から名付けられたものです。逆に出雲では10月は神在月(かみありづき)と呼ばれており、記紀神話で国譲りが行なわれたとされる稲佐浜で全国から参集する神を迎える「神迎祭」が行なわれることになっています。そして、出雲地方に集合した神々全員で、森羅万象の縁を結ぶために会議を行なうと伝えられています。そのため古き頃から出雲地方は「縁結びの地」と呼ばれているのです。
  普段は何も意識せずに呼んでいる月の名前も多くの興味深い内容が含まれているものだと感じています。

2008年10月13日

体育の日にあたって

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  本日(13日)は「体育の日」です。現在、日本の祝日は15日ありますが、2000年に『ハッピーマンデー法』が制定され、従来のように祝日が固定されなくなり、一部の祝日については月曜日に移行されることになりました。それと同時に祝日制定の由来や意義については知らない人が増えてきているようであり、学校においても祝日についての十分な説明はできていないように思います。体育の日は本年12番目の祝日になりますが、この由来は次のとおりです。
  最初は昭和36年(1961年)に制定されたスポーツ振興法により、10月の第1土曜日を「スポーツの日」としていました。その後、1964年(昭和39年)にオリンピック東京大会が開催されましたが、閉会後この輝かしい成果と感動を記念して開会式が行われた10月10日を『国民がスポーツに親しみ、健康な心身を培う日』にしたいという動きが盛り上がってきました。そして、2年後の昭和41年(1966年)に国民の祝日として制定されました。続いて、平成12年(2000年)からは前述の『ハッピーマンデー法』により10月の第2月曜日を体育の日とすることになりました。参考までに、日本の観測史上晴れる確率が最も高い日が10月10日ということで、東京オリンピックの開催もこの日に決められようです。また、この前後に運動会をする学校・団体も多いようですし、日本全国でさまざまなスポーツイベントが開催されています。
  これで今年の残りの祝日は文化の日(11月3日)・勤労感謝の日(11月23日)・天皇誕生日(12月23日)の3日になりましたが、これからますますグローバル化が進展する中で日本の歴史や伝統・文化をしっかりと理解しておくことが大切であると思っています。

2008年09月25日

ご先祖様の供養

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  本学園の創立の精神は「孝道(親孝行)」ですが、遡ると祖父母、曾祖父母と何代にもわたって生命が受け継がれてきています。このように今、生を受けている一人ひとりには先祖の血が脈々と受け継がれているのです。従ってご先祖を大切にするという気持ちが大切です。わが国には色々な宗教の方がおられると思いますが、神棚を祀り仏壇があるという家庭が大半のようです。毎日、ご仏前にお参りされ、色々なものをお供えされる方が多いと思いますが、これは仏様のお徳を敬う心の基調となるものであり、供養と呼ばれています。この仏様への供養は次の六種類があり、自分の徳が磨かれることになるのです。
  一つ目は「花」で耐え忍ぶ徳、二つ目は「ご飯」で心をしずめる徳、三つ目は「お茶・水」で施しの供養、四つ目は「お灯明」で智恵の徳、五つ目はカ「お線香」ではげみ(精進)の徳、六つ目は読経の前に手に塗る茶色の粉のことを「お塗香(ずこう)」と言い、仏の戒めを守る徳です。そして、この六種の供養を自らが行なうことにより、功徳が備わるのです。
  また、彼岸には、ご飯の代わりに仏壇に「ぼたもち」や「おはぎ」をお供えしますが、もち米とあんこで作られた同じ食べ物の呼び方が違うのは、食べる時期が異なるためです。つまり、それぞれの季節を意識して名前が変えられており、ぼたもちは「牡丹餅」、おはぎは「お萩」という花の名前がつけられています。この秋彼岸の時期におはぎを食された方もあると思いますが、牡丹餅にはこしあん、お萩にはつぶあんが使われており、小豆は邪気を祓(はら)うとされているのです。

2008年09月24日

六つの実践(六波羅蜜)

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  皆さんは、六波羅蜜(ろくはらみつ)または六波羅蜜多(ろくはらみつた)という言葉をご存知ですか。仏教では、彼岸に六つの実践を行なうことが大切であると教えていますが、これが六波羅蜜と言われるものです。彼岸の入り、彼岸の明け、彼岸の中日という言葉が残っていることから見ても、中日をはさんだ六日の間にこれらの一つひとつを実践しなさいという意味です。

  布施:他人に対して財や行ないによって施しをする
  持戒:自分を戒め、迷惑をかけず、日常生活の諸規則を守って人間らしく生きる。
  忍辱:苦しいことがあってもじっと耐える。
  精進:心身を精励し、あらゆる努力を惜しまない。
  禅定:心を乱さず現在していることに心を集中させ、日常の一挙手・一投足を大切にする。
  智慧:様々な修行を通し自分本来の姿に目覚める知慧(ちえ)を理解し、上記五つの実践を支える。 

  今、私達が住む地球では政治・経済・環境等で多くの課題を抱え、依然として民族間の紛争やテロ、痛ましい事件が後を絶ちませんが、誰もが平和で心安らかに仲良く暮らしたいと願うのは当然です。世界には色々な宗教がありますが、これらの六つはあらゆる宗教に共通した人間として常に心がけておかなければならないことではないかと思います。彼岸のこの時期に静かに日々の行動を見直していくことが大切ではないでしょうか。

2008年09月23日

秋分の日を迎えて

お彼岸
  9月23日(火)は、天文学的には太陽が秋分点を通過する「秋分の日」で、昼と夜の長さが同じになる日です。昔から「暑さ、寒さも彼岸まで」という言葉があるように、この時期になると朝晩が急に冷え込み本格的な秋が感じられたものですが、今ではまだ半袖姿の方が目に付きますし、本校でもほとんどの生徒はまだ夏服を着用しているようです。これも地球が温暖化してきている影響なのは間違いないと思います。
  毎年2回、春分の日ならびに秋分の日の前3日と後3日を合わせた7日間のことを彼岸と言い、秋分の日を挟む前後3日間は秋彼岸と呼ばれています。わが国ではこの期間に先祖の霊を供養する習慣になっているため、お彼岸と言えばお墓参りを思い浮かべる方も多いと思いますが、最近ではこの彼岸という意味を知らない人が増えてきているようです。
  彼岸というのはもともと梵(サンスクリット)語からきた言葉ですが、本来の意味は「到彼岸」(パーラミータ)です。即ち、〝生死を繰り返す迷いの世界(生死輪廻・しょうじりんね)〟である此岸(しがん)から、太陽の沈む遙か西方の彼方にある迷いや苦しみのない極楽浄土である彼岸に思いをはせ礼拝する、ということなのです。そして、彼岸の時期には「悟りの世界」へわたるための実践行(修業)を行なうとされていますが、これについては次回にお知らせしたいと思います。

2008年09月15日

敬老の日を迎えて

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  本日9月15日(月)は「敬老の日」ですが、総務省がこの日に併せて発表した推計人口によると、
①総人口は1億2771万人(昨年比5万人減)
②65歳以上は2819万人(昨年比76万人増、総人口比22.1%)
③70歳以上が初めて2000万人の大台を突破
④75歳以上は1321万人で総人口に占める割合は始めて10%を超えた
⑤15歳~64歳の生産年齢人口は8234万人(昨年比69万人減)
⑥65~74歳の高齢就業者は32.2% ということになっています。
 
  現在、日本は世界の中でも類を見ないスピードで高齢化が進行していますが、この原因は出生率(しゅっしょうりつ)が減る一方で平均寿命が延びて高齢者が増えているからです。人口構成を表す言葉に、「高齢化社会」「高齢社会」「超高齢社会」「少子社会」というものがありますが、これらを整理してみると次のようになります。
高齢化社会・・・高齢者(満65歳以上)が全人口の7%超~14%
高齢社会・・・・高齢者(満65歳以上)が全人口の14%超~21%
超高齢化社会・・高齢者(満65歳以上)が全人口の21%超
また、少子社会は満18才未満の子どもの数が満65歳以上の高齢者より少なくなった社会のことを指します。
  日本が高齢化社会になったのは1970年、その後高齢社会になったのは1994年、更に2007年からは超高齢社会になりました。この高齢化社会から高齢社会に移行するまでの年数を見ると、フランス115年、スウェーデン85年、ドイツ40年、イギリス47年に対して日本はわずか24年なのです。そして、このままの状況が続くと、50年後には高齢化率は何と40%になると予想されています。
  現在問題になっている年金や医療等の制度のベースは平均寿命が50歳という時代に構築されたものです。実態を明らかにして、将来のあるべき姿を描き早急に対策を講じていく必要性を痛感しています。

2008年09月09日

暦とずれる季節感

  8月7日の立秋から既に1ヶ月が経過しました。暦の上では8月23日が“暑さが止む”という意味の「処暑」であり、昨日(9月8日)は“陽気ようやく重なりて露にごりて白色となる”(即ち、大気が冷えてきて露ができはじめるころ)といわれる「白露」ですが、朝晩は少ししのぎやすくなったもののまだまだ本格的な秋の訪れという感じではありません。特に近年では地球の温暖化の影響もあり、暦の持つ意味が次第に移りつつあります。
  また、今日9月9日は五節句の最後となる重陽の節句ですが、日本では五節句の中で最もなじみのない節句になってしまいました。もともと節句というのは中国から伝来した陰陽説が元になっています。つまり偶数は「陰」の数、奇数は「陽」の数となっており、9は一桁の奇数としては最も大きい数字即ち「陽の極まった数」として、陽数を代表する数字になっています。このように9月9日は「陽の極まった数の重日」という意味で「重陽」と呼ばれており、今でも中国では長寿と一家繁栄を祈る大切な日になっています。これらの“節句”はもともと“節供”と書き、江戸時代には公式に法制化された式日で次の五つの節供が設けられており、行事と関係する植物の名を冠して呼ばれることが多かったようです。そして、節句は1月の例外(1月1日は別格)を除き、陽数が重なる日に定められています。
    人日(じんじつ) 1月7日  七草の節句  上巳(じょうし)  3月3日  桃の節句・ひな祭り
    端午(たんご)  5月5日  菖蒲の節句  七夕(しちせき) 7月7日  竹・笹の節句・たなばた
    重陽(ちょうよう) 9月9日  菊の節句
  日本では4や9は死や苦に繋がるということで嫌がられていますが、中国では9はむしろ縁起の良い数字になっているのです。そして、 この原因はこれらの節句は旧暦をベースにしており、農作業と深い関係があったようですが、新暦になって季節感がずれてしまったからです。また、上巳から重陽の節句までの期間は、ほぼ農作業の期間に一致し、五節句の日は昔から農村の共同体みんなが休む日となっていたようです。
  現在、日本は農林水産業に従事する人が減少し、米作りを中心とした文化が失われつつありますが、非常に残念なことであり、今一度日本の文化を見直さなければならないと感じています。

2008年08月16日

お盆の由来

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  8月13日から16日まではお盆休みということで、帰省したり旅行に出かける人も多いのではないかと思います。
  しかし、昔から〝盆と正月〟という言葉が聞かれるほど日本人にとっては大切な行事なのです。盆は正式には仏教における盂蘭盆会の略ですが、盂蘭盆というのはサンスクリット語のウランバナを音写したものです。このウランバナというのはもともと逆さづりという意味で、地獄の苦しみを受けている人々を供養することの功徳によって救うという行事ですが、これとわが国固有の先祖を崇拝するという心とが融合して、日本のお盆の行事が生まれました。
  一般的には13日の夕方には野外で迎え火をたき、先祖や亡くなった人を迎え、16日の夕方には送り火をたいてお送りすることになっています。
お盆には日本各地で色々な催しが行なわれますが、有名なもののひとつに京都の大文字焼きがあります。正式には「京都五山送り火」と言われ、お盆に行なわれる送り火と同じ意味です。
  お盆は明日までですが、家族全員で是非ご先祖を尊ぶという気持ちを持っていただきたいものです。

2008年07月28日

土用と鰻

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  昨日土用についてお話しましたが、土用という意味については知らなくても「土用の丑の日」には鰻(ウナギ)を食べるという習慣については子どもの頃から知っている人も多いと思います。
わが国では平安時代頃から鰻を食していたという文献が残っています。当時は「ムナギ」と呼ばれていたようですが、この語源は「胸黄」(胸が黄色い)とも、丸くて細長い形状が家の「棟木」に似ているからとも言われています。
  土用の丑の日に食べる習慣が始まったのは、そう古いことではなく江戸時代末期です。夏の売上げ不振に困った鰻屋の相談を受けた平賀源内が「う」の字がつくものを食べると夏負けしないという民間伝承に因んで〝本日土用丑の日〟という看板を掲げたところ、飛ぶように売れるようになったと言われています。当時災いは丑の方角から来ると信じられていたことから厄除けという意味と、肉食の禁止されていた時代において高タンパクで消化も良く夏バテ防止に効くことから、瞬く間に江戸市民の間に定着していったようです。
  また、鰻の血液にはイクシオトキシンという毒が含まれているため生で食べることはできませんが、火を通すと毒がなくなるということも先人はよく知っていて蒲焼という料理法を考え出したのです。
  このように、我々にとっては身近な鰻ですが、その産卵場所はどこなのか謎に包まれていました。フィリピン海溝付近という説が有力でしたが、最近になってグァム島沖のスルガ海山付近であることが突き止められました。しかも、6、7月の新月の日に一斉に産卵することも判ってきました。
  現在、日本における年間消費量は世界の鰻の約半数、13万トンと言われていますが、このうち80%は輸入に依存しています。また最近の鰻については産地偽装や抗菌剤の混入等の問題が相次いで発生しており、各国において稚魚の輸出を制限するという動きも出てきています。鰻を食される時には、このようなことも思い起こしていただきたいものです。

2008年07月27日

年に四回の土用

  ここ数日、全国では猛暑日が続いていますが、土用と言えば一年のうちで最も暑い時期であり、土用の丑の日に鰻(うなぎ)を食するのも夏バテを防ぐための習慣であると言われています。このように、
私達は土用というと夏の代名詞だと思いがちですが、実はそうではありません。元は木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)という五行説を季節に割り振るということから来ているのです。一年を五分割するとそれぞれ73日になりますが、季節は四つしかありません。そして、春に木、夏に火、秋に金、冬に水を当てるとそれぞれ91(92)日ということになりますが、これでは土だけはどの季節にも属さないことになり余ってしまいます。それでは困るので、土はすべての季節に均等に存在するとこじつけて、それぞれの季節に入る前の18日(または19日)間を土用としているのです。
  従って立春、立夏、立秋、立冬の前の18(19)日間は土用ということになります。このように土用は夏だけのものではなく、年間には4回の土用が存在することになります。今年は「立秋」が8月7日なので、土用の入りは7月19日で土用の明けは立秋の前日である8月6日ということになっています。
そして、土用の丑の日というのは、この期間の丑の日のことなのです。従って、今年は7月24日ということになりますが、実はもう1日、丑の日(8月5日)があります。つまり二回丑の日があるのです。
  因みに、昨年の夏の土用は7月20日~8月7日で丑の日は7月30日、来年は7月19日~8月6日で、丑の日は7月19日と31日ということになります。このように、土用丑の日は二年に一度は二回あるのです。この日に鰻を食される方も多いと思いますが、日本の暦を調べると、このような興味深いことも数多くあるのです。

2008年07月22日

お中元の由来

   わが国では、この時期にお世話になった人にお中元を贈るという習慣がありますが、この中元というもののルーツについては余り知られていないようです。
  中元というのはもともと中国の道教の習俗の一つであり、上元(1月15日)・中元(7月15日)・下元(10月15日)の三つを『三元』と定め、この日はそれぞれ供え物をして身の汚れを清める贖罪(しょくざい)の日とされていました。一方、わが国では古来より一年を二回に分けて、先祖の霊をお迎えし供養する『御霊(みたま)まつり』がありましたが、伝来した仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ・7月15日)が重なり、お中元に親戚や知人が往来し、盆の礼として贈り物をする風習が生まれたようです。更にこれがやがてお世話になった人に贈り物をするという習慣へ変化したようです。そして、今はお中元を贈るという風習だけが残り、上元や下元という言葉は全く聞かれなくなっています。
  また、すっかり梅雨が明けましたが、「つゆ」と呼ばれるようになったのは江戸時代からであると言われています。中国では、黴(カビ)の生えやすい時期の雨ということで、もともと「黴雨(ばいう)」と呼ばれていましたが、語感が悪いため梅の熟す時期の雨ということで梅雨になったようです。
  このように、日本の文化は中国大陸の影響を受けながら、わが国古来のものとの融合より形成されてきているものが多いのです。私達が普段何気なく行なっていることや使っている言葉も、そのルーツを調べてみるとなかなか興味深いものです。

2008年07月21日

海の日を迎えて

  本日(7月21日)は、海の日です。この日は海洋国家として広く日本国民に海への理解と関心を求めることを目的としており、「海の恩恵に感謝し海洋日本への繁栄を願う日」と定義されています。
  もともとは1876年に明治天皇が明治丸を使って東北巡幸された後、7月20日に横浜港に入港されたことに因んで、1941年にこの日を「海の記念日」と定められたのが始まりです。その後、この日を祝日にしたいという運動が続けられ、1996年に海の日に制定されました。更に祝日法の改正により、2003年(平成15年)からは7月の第3月曜日ということになり、今日に至っています。
  海は3億6千万平方キロメートルで地球上の面積の約7割を占め、陸地面積の実に2.4倍の広さがあります。46億年にわたる地球の歴史を見ても、海が生命の誕生に大きな役割を果たし、現在も地球の気温や季節変動に大きな影響を与えています。また、地球上の水分の97パーセントを占める海水は、ミネラルをはじめとする栄養・滋養に富み生物の連鎖に関連しています。しかし、陸地に比べるとまだまだ未知の部分が多く、これから地球環境の保全・海洋資源の活用・海水の利用等のさまざまな面で海の役割がさらに高まってくるのは間違いありません。
  わが国は四方を海に囲まれているため、排他的経済水域では世界6位を有する海洋国家です。海を最大の財産と考え、海との共生を図っていくことが大切であると思っています。

2008年07月20日

暑中見舞いの由来

  ようやく梅雨が空け、ここ数日夏の強い日差しが照りつけるのに併せて暑中見舞いが届くようになってきました。最近は喪中の知らせをいただくケースや年賀状も儀礼的なものが増えてきたため、暑中見舞いの方が心に残るように感じています。例年枚数は年賀状の四分の一くらいですが、本日いただいた葉書にも近況が詳しく記されているものが多く懐かしく拝読させていただきました。
  本来、わが国では、『盆礼』といってお盆に親元や親戚、仲人、恩師等お世話になった方を訪問し、心のこもった贈り物をする風習がありました。暑中見舞いはこれが簡略化されたものであり、一年で最も暑さが厳しい時期に書面で相手の健康を気遣うという趣旨で寒中見舞いの逆になります。通常は梅雨明けの「大暑(7月23日頃)」から「立秋(8月8日)の前日」、いわゆる土用の時期ですが、最近では「小暑(7月7日)」以降のケースも増えてきているようです。
 
  なお、立秋が過ぎると残暑見舞いになりますので、それまでに暑中見舞いは書き上げておきたいものです。私もまだ暑中見舞いを書いていませんので、明日から書き始めたいと思っています。

2008年05月05日

こどもの日にあたって

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  本日、5月5日は「こどもの日」ですが、総務省が発表した推計人口によると、4月1日現在の15歳未満の数は1725万人となり、前年に比べて13万人減と過去最少を記録しました。これで減少は27年連続、総人口に占める割合も13.5パーセントと34年連続で下がり続け、イタリアやドイツを下回り国際的にも最低水準になってしまいました。
  この原因としては、親の所得水準が上昇したことによる、家庭におけるこどもの独立や巣立ち教育の不足、女性の社会進出に伴う所得水準の上昇、困難な仕事と子育ての両立、専業主婦の子育て負担の増大等の結果、未婚率・平均初婚年齢・初産時平均年齢が上昇し、出生率(しゅっしょうりつ)が低下していることがあげられます。
  出生率というのは、女性の出産可能な年齢を満15歳から満49歳とし、この対象となる女性が産むこどもの数を表しますが、一般的に人口を維持するためには、この出生率が2.08であることが必要です。しかし、現在の出生率は1.32~1.33と低い水準にあるため、こどもの数が年々減少することになるのです。
  そして、このままの状態が続くと、少子高齢化の進展、労働力人口の減少、経済成長率の低下、社会保障負担の増大、優秀な人材の海外流出といったことが起こってくることになります。また、個人消費は低迷し、海外からの資金の流入は減少し、企業も海外に軸足を移すことになりかねません。
  
  これに歯止めをかけるためには、中・長期的な視点に立って、仕事と子育てが両立しうる雇用環境の整備と子育ての支援を強力に推進していかなければならないと痛感しています。

2008年05月03日

祝日の意義

 本日(5月3日)から5月6日までは4連休ということになるため、この期間に帰省したり旅行に出かけたりする人も多いようです。5月のこの時期はゴールデンウィークと呼ばれていますが、昨今では長い休みの過ごし方ということが先行しており、祝日の意義は薄らいできているように感じられます。
  5月3日は〝日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する〟という『憲法記念日』、
  5月4日は〝自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心を育む〟という『みどりの日』、
  5月5日は〝こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに母に感謝する〟という『こどもの日』、
  5月6日は〝日曜と祝日が重なった場合の振り替え休日は、その後においてその日にもっとも近い国民の祝日でない日とする〟という定めによる『振り替え休日』です。今年については、4日(日)の振り替えです。
  このうち、5月4日の『みどりの日』は、これまで多くの変遷を経て昨年に制定された最も新しい祝日です。みどりの日が最初に制定されたのは、1989年に昭和天皇が崩御されたことによる天皇誕生日からの変更でした。その後、昨年から4月29日が「昭和の日」として制定されたのに伴い、みどりの日を5月4日に移行させることになりました。
  現在、わが国の祝日は15日ありますが、それぞれの制定の意義をしっかりと確認しておくことが大切なのではないでしょうか。

2008年04月29日

第二回昭和の日

  本日4月29日は『昭和の日』ですが、昭和年間は『天皇誕生日』という祝日であり、平成元年からは天皇崩御に伴い『みどりの日』という名称になりました。そして、『昭和の日』と改められたのはつい昨年のことです。
  昭和は、1926年の12月25日に始まり1989年の1月7日まで続く、日本史上最も長い元号の年間となりました。昭和の初期は世界恐慌など動乱の時期にあり、その後の太平洋戦争やその敗戦からの復興という苦難の時代であり、やがて高度成長を経て世界でも有数の経済大国へと成長した時代でもあります。
  大正元年生まれの人は今年で96歳、昭和元年生まれの人は82に歳になります。昨年4月、昭和生まれの人口が1億人を切りました。これからは年々、昭和生まれの人が減少し、ほとんどは平成生まれの人が人口の多くを占めるようになることでしょう。そして、過去の戦争の爪跡や過酷な状況の中、国の総力を挙げて苦境を乗り越え、必死の努力で世界に冠たる工業立国を築き上げてきたことを知らない若者達が増えてきています。
  『昭和の日』制定の趣旨は〝激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす〟というものです。この『昭和の日』を、是非とも昭和という時代の繁栄と苦難を偲ぶ記念日としたいものです。
  今、団塊の世代が続々と第一線を退いてきていますが、これまで培ってきたノウハウや技術・資産を継承すると共に、できるだけ負の遺産や課題を次の時代に先送りしないようにしていかなければならないと思っています。

2008年04月20日

穀物の成長を助ける雨~穀雨

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 日本には四季があり、一年を24に分けた『二十四節気』という暦がありますが、4月20日(日)は「穀雨」にあたります。この意味は〝百穀を潤し、発芽を促す雨が降る日〟ということです。つまり、農業国であった日本においては、田畑の準備が整い、これから本格的な農作業が始まるという時期だったのです。
  この二十四節気の由来は、2600年くらい前の中国に遡ります。古来、中国では、太陽が黄径270度に来た(最も南にある)時を冬至とし、次の冬至までを24等分して「24節気」を決めていましたが、黄河流域の気候を元にしていたため、日本の気候に合わせて作り直したのです。農業が主体であった日本にとっては、農作業に合わせて暦を作ることが必要であったため、二十四節気には「雨水」「啓蟄」「清明」「芒種」「白露」「寒露」「霜降」といった表現が使われています。
  しかし、年々農業に従事する人が少なくなってきたため、多くの日本人にとって節気は馴染みの薄いものになってしまいました。今、全世界において、食糧不足が大きな問題になってきていますが、食糧自給率が40パーセントに満たない日本の現状を正しく受け止めていかなければならないと思っています。
  私も、今日は久しぶりの休日ということもあり、近くのホームセンターで、野菜の苗を購入し、植えつけました。狭い畑ですが、夏にはかなりの量の収穫が期待できそうです。